物騒な幼児 忍者な青年

 苛立たしげに悪態を作る幼児のちいさな声、それすらもしっかり拾って脇谷はいひいひと笑う。


「ノールックで避けるなんて、とんでもなく忍者っぽいのでは?」


 フードのしたでひとり笑う脇谷の背後に、ふたたび迫るちいさな足音。


 苛立っているのか、さっきよりもうまく音を消せていない。


 明らかに自分を目がけて迫る足音を聞きながら、脇谷は表通りを目指してゆっくりと歩く。

 再びひらりと避けて、駆け去っていく子どもの背を見送る脇谷はご機嫌だ。


「はー、忍者ごっこ楽しい!」


 その後もなんども挑戦してくれる幼児のおかげで、脇谷の郷愁など忘却の彼方。


 『一般人のふりをして通りを歩く忍者』から『刺客に襲われているけれど反撃はせずあくまで偶然を装って避け続ける忍者』としてのひとときに浸っていた。


 ―――はあ、幸せ!


 脇谷は自分の顔がだらしなく緩んでいるのを感じていたが、フードで隠れているからと気がねなく顔を緩ませたまま歩く。


「おい、お前っ」


 そんな脇谷の幸せなひと時は、とうとう終わりを迎えたらしい。


 気が付けばひと気の無い通りに入り込んでしまっていた。

 無人の通りに入った途端、うろちょろしていた幼児が脇谷の前に立って指を突き付けて来た。


 擦り切れて汚れ、ところどころ裂けた服を着た子だ。

 顔こそはじめて見るが、そのはだしの足が立てる足音に聞き覚えがあった。


「あ、先ほどからどうもどうも、ありがとうございます!」


 忍者ごっこにたくさん付き合ってくれた相手に、脇谷は丁寧に頭を下げる。


 この幼児のおかげで楽しい時間を過ごせたのだ。

 いい年して忍者ごっこなど、日本でしていたら笑われてしまう。

 今日はとてもいい体験ができた、と幸せいっぱいだ。


「は?」


 心からの感謝を告げた脇谷の耳に届いたのは、不機嫌な声。


 そろりと顔をあげれば、幼い顔を目いっぱい不機嫌にして、幼児が脇谷をにらみあげている。


「お前、なんなんだよ! いいカモかと思ったらふらふらふらふら避けて! おとなしく銭貨寄こせよ!」


 幼く高い声とともに突き付けられたのは、鈍く光る小刀。

 先ほど脇谷を襲っていたときには懐の袋を狙って手を伸ばしていたけれど、いよいよ頭にきた幼児は実力行使に出ることにしたらしい。


 ちいさな手に握られた凶器を見て、脇谷の胸に湧き上がったのはさみしさだった。


 ―――こんな幼い子が武器で人を脅さなければ生きられない世界なんですね。


 鈍い銀の輝きに対する恐れは湧かない。

 あるのは、垣間見た異世界への複雑な感情ばかり。


 同時に、ここで自分が銭貨を渡せばどうなるか、という未来を想像もする。


「おい、銭貨出せよ。持ってるんだろ。はやくしないと、刺すぞ!」


 幼い声が繰り返す脅しに、脇谷はためらった。


 懐の金を渡すのは簡単だ。

 この街においてどれほどの価値の銭貨が入っているかわからないが、この子どもが数日を過ごすくらいはあるのではないか。

 

 渡してしまえば脇谷は無一文だが、そうなれば大手を振って町の外へ出て蛇なり魚なり捕まえる、ワイルドなタイプの忍者ムーブができる。

 今の身体能力ならば不自由は無いだろう。

 それはそれで一向に構わない。


 けれど。


(銭貨を渡して、そして子どもはどうなるんです?)


 脇谷は自問した。


(数日は食べていけるかもしれません。渡した銭貨で新しい衣服も買えるかもしれない。でも、その先は?)


 金が無くなった子どもが、またこうしてひとを脅す未来が見えた。


 そのときに相手が刃物を持っていたら、逆に切り殺されるのではないか。

 あるいは、殺されなくとも捕まったとして、この街が未成年だからと容赦するような法を持たなかったなら。


 脇谷の脳裏でいろいろな未来が浮かんでは消え、飲み込みきれない後味の悪さを胸に残す。


「……ごめんなさい。あげられません」


 考えに考えた結果、脇谷が子どもに渡せるのは謝罪だけだった。


 それで収まるとも思っていないけれど、ほかにあげられるものはない。


「はあっ? そんなことは聞いてない! 寄こせ、って言ってるんだからはやく―――」


 予想はしていたが、投げつけられたことばに悲しい気持ちで子どもを見ていた脇谷の背中の産毛が不意にちり、と逆立った。


 忍者として得た知覚が、なにより人としての勘が、薄ら寒いなにかを感じ取って警戒させる。


「あっれー、チビ。お前まだ獲物、狩れてねーの?」


 場違いに明るい声が降って来た。

 場所は、子どもの後方だ。


 とっさに身構えた脇谷の視界に、ふらりと現れたのはまたしても子ども。

 けれど、目の前の幼い子どもよりずいぶん大きい。

 

 十代半ばだろうか。粗末な衣服から伸びる肉付きの悪い手足は成長途中なのだろう。

 ずいぶんと頼りなく見えた。


 薄汚れた灰まだらの髪をした少年は、いやに暗い眼を細めて笑う。


「俺、言ったよなー? 今日じゅうに収められなかったら追い出す、って。みんなで助け合って食ってるのに、お前ひとり手ぶらで食わすわけにいかねんだぞ」

「でも、マシラ!」


 震えながら、幼い子どもがすがるような声を上げた。

 マシラ、とは灰まだらの髪の少年の名だろう。


「今、こいつから奪うから! そしたらすぐ持ってく。本当だから。だから、もう少しだけッ―――」


 言い募る幼児は「ひっ」と息と言葉を飲み込んだ。


 マシラと呼んだ、少年の暗い眼に射すくめられたのだ。


 ゆらりと顔をあげたマシラは、その視線で脇谷を絡め取ってにたりと笑う。


「何なら、俺がやろーか? お手本、見せたげよーか」


 ぞわぞわと背中を駆け上がる気持ち悪さに、脇谷が無意識に身構えたとき。


「こっち、来て」


 涼やかな声が不快感を打ち消して、脇谷の手は誰かに引かれていた。


 咄嗟に、脇谷は目の前で震える幼児の身体を小脇に抱える。


「えっ」


 驚く幼児の声を聞きながら、脇谷は引かれるままに路地を曲がって駆けていく。


 身体の能力が上昇していて本当に良かった。

 以前の脇谷なら、この細い幼児を抱えただけでよろめいていただろう。


「おい! 待てよ!」


 背後でマシラが苛立たし気な声をあげているが、目の前の背中が止まらず振り返りもしないのに従って走れば、すぐにその声も遠くなった。


 幼児を抱えて走ってなお息のひとつも切れない身体に感謝しつつ、脇谷は目のまえで髪を弾ませる誰かの頭を眺めた。


 脇谷の頭一つ分は低い身長をしたこのひとは誰なのか。


 問いかける隙を見いだせず素直についていく脇谷をちらりと振り向いて、小柄なそのひとは苦笑した。


「チビも連れてきたのか。あんた、変なやつだね」


 マシラと呼ばれた少年と同じ年くらいだろうか。

 子どもと呼べる年齢の割に、その横顔はずいずんと大人びていた。

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