第18話 罪とは此奴のことだ

「桃未知さん……」


 恐怖に怯える仔犬のような目で自分を見つめる晴夏を、どう慰めていいのか霧斗には分からなかった。


 逃げることを口にしておきながらも、その足が震え、霧斗も晴夏も教室から逃げ出すタイミングを逸してしまった。


 しかし、教壇側の扉になだれ込んだクラスメイト達は皆、目の前で死体の山へと変わってしまった。


 教室後方の扉から廊下へと逃げおおせたクラスメイト達も、その殆どがもはや生きていないことだろう。


 廊下から響き渡る男女入り混じった獣の咆哮のような悲鳴が、廊下がもはや死の世界へと変貌してしまっていることを告げている。


 霧斗と晴夏は教室から逃げられなかったことで、皮肉にもその命を救われていたのだった。


「……でも、逃げることを諦めて、ずっとこの教室に居たって、またあの転校生が戻って来るよ……転校生が廊下に逃げた生徒達を追っている間に、ボクたちはその反対側の廊下を走ってでも逃げないと……」


 抱きつく晴夏の肩を軽く叩き、霧斗は決意に満ちた目で晴夏を見た。


「伊乃地君……強いんだね……」


 晴夏は、怯える瞳で霧斗を見返すと、コクリと一度、頷いた。


「……分かった。あたしも諦めない。逃げることを諦めずに、絶対生きて家に帰ってみせる」


 ふらつきながらも自身の足で立ち上がった晴夏は、そのつぶらな瞳に聡明さを取り戻し、霧斗に微笑みかけた。


「あたし、家に帰って、パパとママにまた会いたいもん。一人娘のあたしが死んだら、パパもママも悲しむもの。パパとママにはずっと笑顔でいてもらいたいもん。その為にも、あたしが強くならなきゃいけないんだね」


 聡明な瞳を大粒の涙で濡らしながら、晴夏は懸命に笑ってみせた。


「行こう。桃未知さん!」


 霧斗が躊躇うことなく、晴夏の腕を引く。


「これで、本当に生きて帰れたら、伊乃地君、あたしの命の恩人だね」


 不安な気持ちを誤魔化すように、わざと明るく振る舞う晴夏の心が、霧斗には痛い程、分かっていた。





「うわっ……これは本当に酷いな……」


 教壇側の扉付近は、クラスメイト達の死体が山のように折り重なっていた。


 それが男子であろうと、女子であろうと、皆、一様にその頭部を砕かれ、ブレザーの制服を血に塗れさせて倒れている。


 まるで首無しのマネキン人形であるトルソーを彷彿とさせるその死体を目にし、霧斗の脳裏に昨日の竹下通りのゴスロリショップの思い出が甦った。


 ギロチーヌが嬉しそうにゴスロリのドレスを手にしていた、あの平和な日曜の午後。


 その平和な光景とは正反対の地獄のような血の惨劇が、またも自分の目の前で起きた。


 クラスメイト達の死体を跨ぎながら、霧斗は心の奥で級友達の冥福を祈りつつも、その胸に強く誓うのだった。


「絶対……絶対、生きて帰ってみせる。そして、皆の仇を討つんだ……」


 霧斗が晴夏の手を引きながら、その口に唱える誓いの言葉。


「うん。生きて帰って、皆の……皆の分まで生きないとだね……」


 晴夏が躊躇いながらも霧斗に応える。


 二人は慎重にクラスメイト達の死体の山を跨ぎつつ、教室の外の廊下へと歩み出た。


「おっと! お坊ちゃんとお嬢ちゃんは二人仲良く手を繋いで、どこへ行こうって言うんだよっ?」


 廊下に出て行ったきり今のところ戻って来ない転校生を避け、なるべく遠いところから逃げようと考え、敢えて死体の折り重なる教壇側の扉から逃げることを選択した霧斗と晴夏であったが、その判断が裏目に出たようだ。


「く、クランヌっ!」


 霧斗が叫ぶ。


 その目の前にはブレザーの制服もチェックのスカートも、滴り落ちる鮮血に塗れさせた転校生の姿があった。


「ケッ! 廊下に逃げた生徒を追ったつもりがよ、他のクラスの先公やら生徒やら、わんさか飛びだして来やがんの! 全員始末すんのにどれだけ手間取ったことか! まるで蟻の巣みてえにバカな蟻どもがよ、ウジャウジャ湧き出してくんなーこの学校とか言うくだらねー施設はよーっ!」


 クランヌが怒り心頭といった様子で背後の廊下をチラ見する。


「うわあああっ……に、二年生のクラス、み、皆、死んだ……?」


 霧斗がクランヌの背後に目を向けると、百人にも及びそうな、おびただしい数の首の無い死体で廊下が埋め尽くされていた。


 スーツ姿の男性教師や、女性教師らしき死体も散見される。


「い、イヤああああぁぁぁーっ!」


 その光景に絶叫した晴夏が、霧斗から手を放し、転校生とは反対方向に廊下を駆けだして行く。


「待ちやがれっ!」


 逃げ出す晴夏に、クランヌが瞬時に跳躍、まるで蛙のように空中を跳ぶ。


「きゃあっ!」


 必死に逃げる晴夏が廊下で足を絡めて、転倒、そのまま前へとつんのめってしまう。


「バーカ! 肝心なところでコケてちゃ世話ねーな!」


「イヤあああっ! 来ないで! 来ないで!」


 空中から跳びかかるクランヌに、咄嗟に上体を起こした晴夏が尻を付けたまま廊下を後ずさりする。 


「へへへっ! つーかまえたっ!」


 晴夏の頭の上にクランヌが跳び乗った。


「ケッ! 手間を掛けさせやがってよ! クランヌクラッシャー! ロックオン!」


 晴夏の頭にその股間を跨がせたクランヌが、両脚で晴夏の下顎を押さえ込もうとする。


「桃未知さあああーんっ!」


 慌てて後を追った霧斗が晴夏の名を叫んだその時、


「イヤあああぁぁぁーっ!」


 絶叫とともに晴夏が、その頭を激しく振り回した。


「おわわっ? て、テメエーっ!」


 その両脚を交差させつつあったクランヌが、晴夏の頭の上からずり落ちる。


 落下する拍子にクランヌの両脚が晴夏の右腕を挟み込んだ。


「ケッ! あたいのお股にイヤらしーく腕なんか突っ込みやがってよ!」


 床に顔面を打ちつけたクランヌが、横倒しになったままその上体を回転させる。


「へへへっ! クランヌ様が粉砕できるモンはよ、なにも頭蓋骨だけじゃねえのさ!」


 クランヌの股間と交差する両脚との間に挟み込まれた晴夏の右腕が、ギリギリッと締め付ける機械式時計のゼンマイのような回転音とともに圧搾されていく。


「ぎゃあぁぁっ! あたしの腕がッ! 腕があああぁぁぁーッ!」


 肘から手首までの間、橈骨と尺骨とを粉砕された晴夏の右腕は、肘の先からプラプラと垂れ下がった掌が粘土細工のように見えた。


「このまま、まんべんなく圧搾してやんよ、こんな腕っ!」


 上体を回転させたクランヌが、交差させた両脚を前後に動かしていく。


「ひぃぎゃあぁぁーッ!」


 バキボキバキボキッと指の骨の砕け散る音が、気持ちの良い程に鳴り響く。


 指の先へと通じる末梢神経がまだ生きていたのだろうか。


 晴夏が苦悶の悲鳴を上げる。


 晴夏の右手の五本の指の骨が全て砕け散り、その指がまるで人が手を通していないゴム手袋のようにふにゃける。


 砕けた骨が指の肉を突き破り、一瞬にして晴夏の右掌が血塗れになる。


「やめろおぉぉーっ! クランヌゥゥゥーっ!」


 霧斗が叫び、クランヌに跳びかかろうとした時だった。


「私の大事な生徒に何てことをするの!」


 怒りに満ちた女の声が聞こえ、クランヌの頭が蹴り上げられた。


「ぐぎゃぎゃああーっ?」


 頭を押さえ込んだクランヌが悲鳴を上げて廊下に蹲る。


「ふーみんっ?」


「ふ、ふーみん……あたしのこと……助けてくれたんだね……」


 霧斗と晴夏が廊下に仁王立ちする女を見上げる。


「遅くなってごめんなさい……女子トイレで一ノ瀬さんの死体を見て、すぐにクラスの皆を助けなきゃって思ったのに……足が震えてしまって……情けない担任よね……」


 腰まで掛かる程に長い黒髪の、スーツに身を包んだ女性教師。


 霧斗と晴夏のクラスの担任・華暮史絵は、たった今クランヌの頭を蹴り上げたばかりとは思えないくらい、その身体を恐怖に震わせていた。


「情けなくなんか……ないよ……」


 骨の砕けた右腕の激痛にその瞳を涙に塗れさせ、晴夏が息も絶え絶えに史絵に言う。


「そうさ、ふーみんはボクたちを守ってくれる、勇気のある立派な担任さ……」


 霧斗も泣きながら、愛すべき担任の姿を見つめる。


「ありがとう。二人共……」


 史絵が不安げな丸い瞳に微かながらも笑みを滲ませたその時、ガシッと肉を挟み込む音がした。


「テメエ、今すぐぶっ殺す! クランヌクラッシャー超高速回転! バリバリだぜ!」


 瞬時に跳躍し、史絵の頭上に跨ったクランヌが瞬く間にその両脚で史絵の顎を挟み込んでいた。


 ギュイイイーンとドリルのような鋭い回転音を立てクランヌがその上体を回転させる。


「うあああああああああああアアアアァァァァーッ!」


 史絵の顔面が一瞬にして潰える。


 顎が砕け、眼球が飛び出し、首無しのマネキンであるトルソーのような姿に変貌した史絵がそのまま廊下に崩れ落ちる。


「ふーみいいいいいーんっ……」


 霧斗が泣きながら史絵の亡骸を見つめたその時、またしてもガシッと肉を挟み込む音が聞こえた。


「うあああっ……あたし……あたし……」


 恐怖に青ざめた晴夏の顔を、その上下からクランヌがロックオンしていた。


「ケッ! 今度こそあの世へ連れてってやんよ! さっさと死ね、バーカ!」


 クランヌが意地悪くニヤリと笑う。


「クランヌクラッシャー超高速回転! バリバリバリ三だぜーっ!」


 ギュイイイーンと瞬時に回転するクランヌの上体が、晴夏の下顎を一瞬にして砕き割る。


「あひぃ……」


 晴夏の口から血に塗れた歯が次々に飛び出してくる。


「いいいいいいいいいいいあああああああアアアァァーッ!」


 ゴキンと鈍い音がしたかと思うと、聡明さを感じさせる晴夏のつぶらな眼球が飛び出し、ポニーテールの似合う清楚な顔が見るも無残な肉の塊と化した。


 ドサッと静かにその身を廊下に倒れさせ、桃未知晴夏が十七年の生涯に幕を閉じた。


「桃未知さあああぁぁーんっ……」


 晴夏の亡骸を抱きかかえるようにして、霧斗が泣き叫ぶ。


 何一つ面影の無いグシャグシャに潰えた顔。

 

 無残に圧し潰された綺麗な右手。


 心の片隅でいつも想い続けていた憧れのクラスメイトが、目の前で死んだ。


 それも通常では考えられないような残酷な方法で殺された。


 この子が一体、何をしたと言うのか。


 こんなにも酷い殺され方をされなければならない程の罪を、この子が犯したと言うのだろうか。


「そんな……そんな訳ないじゃないか……こんな酷い死に方、しなきゃならない罪なんて、この世のどこにだってありゃしないんだよっ!」


 思わず心の奥から怒りの叫びが湧き上がる。


 そうだ、誰だって悪い事の一つや二つしない筈は無い。


 しかし、こんな残酷な仕打ちを受けなければならない程の罪なんて誰も犯してなどいない。


 晴夏も史絵も、勉三太も竹呂宇も、一ノ瀬美香流も、クラスの他の生徒達も。


「クランヌ! お前えええーっ!」


 霧斗は無我夢中で目の前のクランヌに跳びかかった。


「よくも! よくも皆をーっ!」


 そうだ此奴だ。


 罪とは此奴の事だ。


 此奴さえ、此奴さえこの学校に転校して来なければ、今頃皆は……。


 霧斗の脳裏に笑い声の絶えないクラスの光景が思い浮かばれる。


「ケッ! テメエ、あたいに勝てると思ってんの?」


 ピョンと跳びはねたクランヌが、霧斗の頭の上に乗る。


「テメエみてえなドンクサ坊やに正義ヅラなんてしてほしくねーんだよな! 偽善タラタラ、吐き気がすんぜ! この偽善者野郎がっ!」


 ガシッと両脚でクランヌが霧斗の顎を挟み込む。


「うぐっ……放せっ! 放せよ……」


 頭と顎と、上下からクランヌに挟み込まれ、霧斗が悶える。


「ケケケッ。ゆっくーり圧し潰して差し上げますよ。ドンクサ王子様っ!」


 ギリギリギリッとゼンマイを巻くような音を立て、クランヌの上体が回転する。


「ぐっ……があっ……」


 霧斗の頭蓋骨がミシミシッと軋む。


 脳に重い痛みが走る。


「く……そ……う……」


 眼球が圧迫され、涙が大量に溢れ、霧斗の視界がぼやけ始める。


 このまま死ぬんだな……。


 諦めの想いに霧斗の心が呑まれ込んでいく。


斬首執行デカピタスィョン! 罪を切り裂く愛の刃。それがギロチンよーっ!」


 その時、霧斗の耳に優しげな少女の声が響いた。


「ギロ……チーヌ……ちゃん……?」


 ぼやけていく視界の中で霧斗がギロチーヌの姿を探す。


「居るわけない……よな……」


 しかし、よく考えれば、ここは学校だ。


 その声が錯覚であると霧斗は思った。


 その刹那、廊下に面する教室の窓ガラスが割れた。


 バリバリーンッと甲高い音を立て割れていく窓ガラスの中から、鋭いギロチンの刃が突き出して来た。


「おわわわっ? な、何だあーっ?」


 ブウンと空気を斬る音を立てギロチンの刃がクランヌに目がけ襲いかかる。


「あああ、危ねえなっ? 例のギロチン女かあっ?」


 スッと瞬時に頭を引っ込めたクランヌの真上をギロチンの刃が掠める。


 慌てて両脚のホールドを解いたクランヌが廊下に着地、臨戦態勢を取る。


「げほっ……た、助かったあ……げほっ……」


 その頭蓋の拘束を解かれ、むせる霧斗が廊下に投げ出される。


 ガキンッと廊下の壁に突き刺さったギロチンの刃に目がけ、一人の少女が教室の割れた窓から飛び込んで来た。


「オーッ! ギロチンの逆解除を使うとこんなことも出来るのねーっ!」


 シュルルルッと、壁に刺さった刃に引き寄せられるようにして、ギロチーヌが宙を飛ぶ。

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