第16話 思いがけない転校生
「なんだよっ! これじゃ完全に遅刻するじゃないかあっ!」
朝の住宅街を慌てて走る一人の少年の姿があった。
「月曜の朝がどれだけ戦争なのか、マリー・アントワネットの首を刎ねたギロチンには分からないのかなあっ? まったくもうーっ!」
グレーのブレザーの制服に身を包んだ霧斗が、汗だくになりながらも、苛立ちを隠せない様子で住宅街を走り抜ける。
「ボクはせっかく早起きしたのに、ギロチーヌちゃんが遅くまで寝ていたせいで、縄を解いて貰えないって、一体、何なんだよっ!」
霧斗は今朝も、その手足ごと身体をロープでグルグル巻きに縛られた状態で目覚めたのだった。
「こんなのが毎朝続くんだったら、ボクは毎日遅刻だよっ! 素行不良な超問題児生徒扱いされて退学処分になったらどうしてくれるのさっ!」
不満を言うべきその相手が目の前に居ないというのに、霧斗はギロチン少女への恨みの言葉を何度も何度も繰り返しながら、人の気配の無い門扉を乗り越えた。
「はぁ……はぁ……月曜の朝からこんなハードな運動するなんてさ……」
校舎の中に入り、階段を駆け上がる。
二年生である霧斗のクラスは三階にその教室があった。
「
三階の廊下を急ぎながら、霧斗の脳裏に担任の不機嫌な顔が思い浮かばれる。
霧斗の担任、世界史担当の
ただ、おっとりとしたおとなしい雰囲気ではあるものの、曲がったことを嫌うというのか、筋道を立てないと気が済まない性格らしく、怒るときは本気で怒る。
特に、世界史の教師でありながらも、その名前から日本史に有名な隠れキリシタンの「踏み絵」を連想されるらしく、一部の生徒から「やい踏み絵! この絵を踏んでみろよ」と卑猥なイラストの切り抜きを足元に置かれ、揶揄された時には、その丸い瞳を吊り上げて烈火の如く怒り狂った。
その一件以来、史絵先生の前で「ふみえ」という響きを口にすることが憚られるようになり、多くのクラスメイトは担任の名を呼ぶ際、「ふーみん」と愛称で呼ぶようになった。
「ふーみん、ごめんなさいっ!」
恐る恐る教室の扉に手を掛けた霧斗が、意を決して引き戸を開けた。
「やあ! 遅刻して入って来た時には叱られると思ってビクビクするだろう? そこを敢えて叱らないのが俺の流儀さ。そうすれば、人類皆、仲良く出来る! それが人間の心理というものさ!」
教壇で霧斗を迎えたのは、眼鏡を掛けたスーツ姿の男だった。
「あ、あなたはっ!」
男の姿を見るなり、霧斗は素っ頓狂な叫び声を上げた。
それは拷問博物展でアイアン・メイデンに殺され、二度目に訪れた時にはスキニング・キャットに殺された、あの眼鏡の大学生風の男だったのだ。
「うわあああっ! 生きて……生きているんですねえええっ! あなたがこうして生きている姿を見られるなんてボクは、ボクはあああっ……」
霧斗は再会の喜びのあまり、感極まって泣きながら男に抱きつこうとした。
「げええっ? なんだね、君いっ! 俺が生きているのは当たり前じゃないか! どうしていきなり抱きつくんだ? 俺は男同士でこんな趣味はないぞ!」
眼鏡の大学生風の男が必死に抵抗する。
「きゃあっ! 伊乃地君って、あんな趣味があったんだー」
「おい霧斗! 教室はハッテン場じゃねえぞ! ヤルなら他でやれ! 他でー!」
クラスの女子生徒や男子生徒から野次の声が上がる。
「うわあっ、ごめんなさい。ボク、つい気が動転しちゃって……」
霧斗はハッと我に返り、眼鏡の大学生風の男から離れると、改まった態度で訊ね直した。
「……あのう、どうしてあなたがここに?」
「うん? 君と俺とは初対面だと思うけどね。不思議と以前から知っているような口ぶりで訊くんだな、君は! 俺は教育実習生の
霧斗の質問に、眼鏡の大学生風の男が、フレンドリーと言うのか、やや馴れ馴れしい口調で答えた。
「しがべんぞうた先生ですか……」
霧斗がふと黒板を見ると、たしかに「志賀勉三太」と自己紹介のつもりなのか名前が書かれていたのだが、まるでミミズの這うような解読不能な文字だった。
「ほう。君に俺の字が読めるかね? 自慢じゃないが俺の字は、まるで象形文字のようだ、考古学者でも解読不能だと、よく馬鹿にされるんだぜ。もしや、あれかい? 君も歴史が好きなのかい?」
志賀勉三太と名乗る眼鏡の大学生風の男は、黒板の文字を口をぽかんと開けたまま眺める霧斗に嬉しそうに訊ねた。
「聞いてくれよ! 俺は、昨日の日曜に拷問博物展にマリー・アントワネットの首を刎ねたギロチンを見に行く筈だったんだ! ところが、その前の晩に、どこぞの誰かがギロチンだけでなくアイアン・メイデンまでも盗みやがって、博物展は中止。俺も楽しみにしていたギロチンを見られなかった!」
勉三太は悔しげにそう言うと、いきなりドン、と教卓を叩きつけた。
「くそう! 俺はギロチンを盗んだ奴を許さん! そいつを見つけてギッタンギッタンのメッタメッタにぶちのめしてやる!」
勉三太が顔を真っ赤にして鼻息を荒げる。
「うわっ……ギロチーヌちゃんを連れて来なくて正解だ……こりゃボク、殺されちゃうよ」
霧斗は蚊の鳴くような小さな声でボソッと呟くと、いまだ興奮気味の勉三太に問いかけた。
「……ところで史絵先生の姿が見えませんが? このクラスの担任はどうしたんですか……?」
「ああ、史絵先生ならね、転校生を迎えに行ってるよ。なんだか聞くところによると、今日から転校生が来るらしい。その子が朝のホームルームの時間になっても来ないんでね。シビレを切らした史絵先生がホームルーム中だというのに、教室を飛びだして行っちまったのさ!」
霧斗の問いかけに勉三太は呆れ気味に答えた。
「まったく、一限目はまさに俺の得意とする世界史の授業だというのにな。史絵先生がこのまま来ないんじゃ、俺一人で授業をやっちまうか!」
勉三太は得意げにそう言うと、
「君もさっさと席に着いたらどうなんだい? いつまで教壇で俺と漫才をやっているつもりなんだ?」
と、黒板の前に立ったままの霧斗に着席を促した。
「すみません……」
霧斗は小さく謝ると、そのまま自分の席へ向けて歩き出した。
もしかして、転校生って、まさか……?
霧斗の胸中に嫌な予感が芽生えだす。
転校生って、ギロチーヌちゃんじゃないだろうな……。
あの子があまりの寂しさに、ギロチンの刃を使ってこの学校の校長先生を脅かして無理やりに……。
霧斗が身震いしながら、そんなことを考えていると、
「伊乃地君、彼女出来たんだ?」
隣の席の、
ポニーテールの髪の、つぶらな瞳の笑顔が眩しい聡明な雰囲気の女子生徒だ。
グレーのブレザーに赤いチェックのスカート、胸に赤いリボンというこの学校の制服が、その清楚な雰囲気をより一層際立てていた。
「へっ? ボ、ボクに彼女だって……?」
唐突に何を言われたのかよく分からないといった様子で、きょとんとした目で晴夏を見つつ、霧斗が席に座る。
「とぼけちゃってさあ。あたし、見ちゃったんだよね。伊乃地君が外人の女の子と手を握り合ってベンチで……」
晴夏はムスッと不機嫌そうに唇を突き出し、霧斗を非難するかのような口ぶりで言うのだった。
「げえっ! ベンチってまさか……」
「クレープ美味しそうに食べてたよね。いいなあ、クレープ片手に愛の国際交流……」
心当りのあり過ぎる霧斗は、咄嗟に誤魔化す言葉も思いつかない。
晴夏は嫌味っぽく霧斗にクレープの話を告げると、そのままプイッと横を向いてしまった。
「あ、いや、桃未知さん、あれはその、誤解でして……」
「聞こえませーん」
霧斗が必死に弁解をするも、晴夏は横を向いたまま黙り込む。
うわっ、憧れの晴夏ちゃんに誤解されるなんて最悪だ……。
ギロチーヌちゃんとボクは確かに手を握ったかもしれないけど、そんな関係なんかじゃないんだよなあ。
もし、そんな関係だったとしたら、今日だってロープに縛られたまま朝、目覚めるわけないんだ。
あのロープのせいで今日だって遅刻したっていうのにさ……。
憧れの相手に誤解され、霧斗が動揺していると、
「聞き捨てならないよ、伊乃地君。僕と君とはモテない同盟を共に結成した仲間じゃないかあ!」
霧斗の後ろの席から、拗ねた男の声が聞こえた。
「市ヶ谷君」
霧斗がチラリと後ろを振り向くと、顔中ニキビだらけの小太りの男子が、拗ねた目で霧斗を睨み付けていた。
霧斗には結成した覚えの全くない「全日本モテないよ同盟」の創設者であり、初代委員長を自称する男子生徒だ。
「これはー、我が同盟にとってー、結成以来のー、忌々しき事態でー、即刻うー、反逆者の処罰をー委員会でー決議したくー思うのでーあります」
丸めたノートを口に当て、拡声器のようにして、市ヶ谷竹呂宇が霧斗の背に向けてまくしたてる。
「う、うるさいよ、少しは静かにしてくれよ、市ヶ谷君……」
霧斗が耳を塞いで縮こまっていると、
「お前たちは俺の授業を聞く気あるのか!」
と、世界史の教科書で勉三太先生が霧斗と竹呂宇の頭を叩いた。
その時、ガラガラッと教室の扉を引く音がした。
「皆、遅くなってごめんなさい! 転校生の子が寝坊したみたいで、さっきやっと校門の前で会えたのよ」
スーツ姿の若い女性がツカツカと教壇の前に歩み寄る。
腰まで掛かる長い黒髪、丸顔の地味な風貌が、やや内向的な性格を印象付ける。
「ほら、何しているの? 早く入って、入って!」
このクラスの担任、華暮史絵は、教壇に立つと同時に廊下に向かい、しきりに手招きをしてみせた。
「うおーっ! 転校生って女子かー? カワイイ女子なら毎日ハッピーだよなー」
「男子って、すぐそうやって鼻の下伸ばすからイヤよねー。転校生が男子でも女子でも明るく迎えてあげようよー」
クラスの男子や女子が一斉に騒ぎ出す。
「よかったねー伊乃地君。きっと転校生は可愛い女の子よ」
霧斗の隣で桃未知晴夏が嫌味っぽく呟く。
「伊乃地君、転校生はきっと男子だよ。僕たちの同盟の仲間に是非とも加えてあげようじゃないか!」
後ろの席からは市ヶ谷竹呂宇が鼻息を荒げて霧斗に囁くのだった。
「ボクは男子でも女子でもどっちでもいいさ……」
晴夏と竹呂宇に気の無い返事をしてみせる霧斗は、内心、不安が止まらなかった。
ギロチーヌちゃんじゃありませんように……ギロチーヌちゃんじゃありませんように……ギロチーヌちゃんじゃありませんように……。
拳を握り霧斗が必死に念を飛ばす。
すると、霧斗の視界の隅に、編上げのロングブーツを履いた二本の足が入ってきた。
「ふぁ~あ。かったるいったら、ありゃしねえぜ。こんな朝っぱらから目を開けてることなんてさー、あたいの人生で初めてなんじゃねえか?」
眠そうに欠伸をする一人の少女。
グレーのブレザーに赤いチェックのスカート、胸に赤いリボンというのは、この学校の生徒としては合格だ。
しかし、ピンクと銀のストライプのボブの髪、首には赤いチョーカーを嵌め、極めつけは編上げのロングブーツを履いたままで教室に入って来るとはいかがなものか。
「ちょりーすっ! あたい、クランヌってんだ! テメエら、どーぞよろしくな!」
そう言って転校生は、額に二本指を当て軽くピースのような挨拶をすると、寝ぼけ眼で教室中を見まわした。
「で? 例のギロチン女はどこにいやがんだあ……?」
転校生が重い瞼を開けながら、必死に見まわす机のなかに、どこかで見た顔が思いがけず飛び込んできた。
「ああーっ! 君は昨日のゴスロリショップの!」
「おおっ? なんだ昨日のテメエじゃん!」
霧斗が教壇の転校生と目を合わせる。
すると転校生も霧斗の姿に驚き、ズカズカと駆け寄ってきた。
「おいっ! 昨日一緒にいた女はどこだ? このクラスにいねーのか?」
霧斗の胸倉を掴み上げ、クランヌが睨み付ける。
「な、なんだよ、やっぱり昨日のことで怒ってるの? あの子はこの学校の生徒じゃないんだよ……もし、なんだったら後であの子のところに連れてって、君にきちんと謝らせるけど……」
転校生のあまりの迫力に、霧斗は委縮してしまう。
「んだとおーっ? この学校にヤツがいねえーって言うのかよ?」
クランヌが眉を吊り上げ、呆れ気味に霧斗を見る。
「んだよ、あのバカ上司! なーにが、ココが違いますだってんだあ? 脳味噌なんてナンも詰まってねーカラッポ頭なんじゃねーのか?」
自らの頭をコンコンと指で突きながら、何やら独り言を言うと、クランヌが更に霧斗に凄んで告げる。
「わーったぜ! んじゃ、後でヤツんトコ、ぜってえー連れてけよ! 連れてかなかったら承知しねーからな!」
そう言って霧斗にガンを飛ばすこと二十秒。
「ふぁ~あ」
突然、その顔をクシャクシャにして大きな欠伸をすると、転校生・クランヌは、誰も座っていない席に着き、そのまま机に突っ伏した。
「それまでよ、昼寝の二度寝すんぜ」
一言、そう言い放ち、転校生は大きなイビキを掻き始める。
「はぁ~、怖かったあ……」
あまりの気迫に、転校生から解放された後も、霧斗はしばらく震えが止まらない。
「い、伊乃地君、大丈夫……?」
隣の席から桃未知晴夏が、霧斗を心配そうに見つめている。
「ああ、大丈夫さ……」
霧斗が晴夏に作り笑いをしてみせる。
そのまま霧斗は教室全体を見まわしてみた。
「な、なんか転校生の子、怖いよなー」
「お、同じ女子として、あんまり歓迎したくないタイプの子かも……」
すると、クラス中の男子生徒も女子生徒も、本能的な恐怖を感じたのか、震えていた。
「ぼ、僕はモテないよ同盟の委員長だから女子には関心ないけど、あんな子はこっちからお断りだな……」
後ろの席では市ヶ谷竹呂宇が突き出た腹を擦りながら、震えている。
「うむ! ここは俺が一つ、バシッと注意してやんないとならないな!」
教育実習生・志賀勉三太は眼鏡の縁を押さえ、姿勢を正すと、丸めた世界史の教科書を手に転校生の元へと歩み寄った。
「志賀先生、あまり刺激することはしないほうが……」
担任の華暮史絵がオロオロしながら、勉三太の後を追う。
「うわっ、眼鏡の先公! やめとけよ! 転校生キレると何するか分かんないぞー」
「そうよそうよ! 触らぬ神に崇りなしよ!」
教室中の生徒が、勉三太の取ろうとする行動に冷や汗を掻く。
「授業中にイビキ掻いて寝るとは、たるんでるぞ! 起きろ! このグータラ転校生めっ!」
丸めた教科書を片手に、机に突っ伏す転校生の頭上に勉三太がその腕を振り上げる。
「うわぁーっ……」
「きゃあーっ……」
生徒達が恐怖のあまりにその目を覆った、その瞬間だった。
「あ、あのぅ……ト、トイレ行ってもいいですかぁ……?」
唐突に一人の女子生徒が手を挙げた。
一ノ
三つ編みの髪で色白の、気弱そうな女子生徒だ。
性格がおとなしめのせいかクラスの女子達の輪にはなかなか入り込めず、休み時間をいつも独りで過ごすようなタイプの生徒である。
「な、なにいっ……?」
転校生の頭を教科書で今まさに叩こうとしていた勉三太は、突然の申し出に驚き、その腕を止めた。
「あの、わたし、き、緊張したら、お腹が痛くなってしまって……」
片手で腹を押さえつつ、一ノ瀬美香流が悲痛な面持ちで勉三太に訴える。
「仕方あるまい。こんなに張りつめた空気ではお腹の一つも痛くなるのが人間の心理というものだからな。すみやかに行ってきたまえっ!」
「ありがとうございますぅ……」
勉三太が重々しく頷くと、席を立った美香流はいそいそと廊下へと飛びだした。
「ふう~っ。せっかく俺が問題生徒をバシッと注意するところだったのに!」
気を取り直し、勉三太がふたたび転校生の席に向く。
「んあーっ!」
すると、欠伸をしながら大きく腕を伸ばす転校生の姿がそこにはあった。
「おおっ? イカスぜ! あたいもちょっくらトイレしに行ってくっかーっ!」
転校生・クランヌはいきなりガタッと席を立つと、そのまま教室の外へと出ていくのだった。
「おおいっ! お前はどこまでこの俺を馬鹿にしたら気が済むんだあーっ!」
教室の扉からその身を乗り出し、遠吠えをする勉三太の叫びが、廊下の奥へと消えていく転校生の背中に虚しく空回る。
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