第13話 ギロちゃんの朝食
「まあ、ギロちゃん! あなたとっても良く似合うじゃないの!」
伊乃地家のダイニングに、玉恵の嬉しそうな声が響く。
「ヴレマン? 本当に……?」
花柄の緑のワンピースに身を包んだギロチーヌがダイニングに現われる。
「うええっ? び、微妙うううーっ!」
先にテーブルに着いていた霧斗は、ギロチーヌの姿を一目見た途端に驚愕の声を上げた。
「母さんの着る服じゃ、いくら何でもダサダサでセンス無いよっ……」
深緑のそのワンピースは中年女性の体型に馴染んだサイズで、亜麻色の髪の少女にはゆったりし過ぎ、全体的にダボダボに広がってしまっていた。
パッと見た印象では、まるで妊婦のようにも見紛えてしまう程だ。
「これじゃ、ギロチーヌちゃんが可哀想だなあ……」
霧斗は食卓のテーブルに頬杖をつきながら、至って率直な感想を述べたつもりだった。
「まあ、霧斗っ! いつからあんたの目は曇ってしまったの? 母さんの緑の花柄ワンピースがこんなにも似合う女の子は世界中を探しても、ギロちゃんしかいないわよ!」
玉恵は不機嫌そうに霧斗を見やると、ギロチーヌの背中を手で押した。
「ささ、ギロちゃんはここに座って! 伊乃地家ではこの席は特等席なんだから!」
そう言って玉恵が食卓のテーブルのお誕生日席にギロチーヌを誘う。
「トクトウセキ? ケスクセ?」
ギロチーヌは少し困惑しながら、玉恵に押されるままにお誕生日席に腰掛けた。
「ああ。父さんがいつも座っていた席さ! その席でさ、いっつもしかめっ面しながら新聞を広げてさ。っていうか、全部英語で書かれた新聞だぜ? ボクには何書いてあるのか分かんないし、父さんがしかめっ面で不機嫌そうに新聞読んでると、ボクが何か悪いことでもしたのかなって怖くなって食事も喉を通らなかったさ……」
ギロチーヌを横目に、霧斗は長らく家を不在にしている父親の話をするのだった。
「ふーん。お母さんはとても優しいのに、お父さんはとても怖い人だったのねー。でも、羨ましいなぁー。アタシにはパパもママも居ないの。アンリの小父さんがね、唯一、アタシの面倒を見てくれたの……」
ギロチーヌは、伊乃地家の食卓の特等席で、今は懐かしき小父の姿を思い浮かべ、悲しげにその瞳を濡らした。
「へええ、アンリ小父さん? ギロチーヌちゃんの小父さんって、どんな人だったの?」
霧斗が興味津々といった様子で、お誕生日席に座る亜麻色の髪の少女に問いかける。
「アンリ小父さんはねー。お医者さんでね、貧しい人や苦しんでいる人たちの身体の痛みも心の痛みもぜーんぶ受け止めて治療する、心の優しい人だったの。でもね、自分自身のことにはとっても厳しくて、いつも難しい顔して悩んでいたわ……」
ギロチーヌは悲しそうな表情をしながらも、小父に対する尊敬の念をその瞳に湛え、零れ落ちようとする涙を必死に堪えていた。
「そうかあ。難しい顔をしているのはボクの父さんと同じだけど、心の広さは全然違うなー。ギロチーヌちゃんの小父さんの方が、断然、心が広そうだっ!」
霧斗はギロチーヌが泣きそうになっていることに気付き、努めて明るい調子を心掛けて言うのだった。
「まああっ、ギロちゃん! あなた、お父さんもお母さんも居ないだなんて、なんて可哀想な身の上なのっ!」
玉恵は大泣きしながらギロチーヌの元へ近寄ると、その肩を抱き締めた。
「あなた、偉いわねえ! あなた、強い子ねえ! どうしてこんなに可愛い子が可哀想な星の下に生まれるのかねえ……」
「オーッ! ジャポンのママンは本当に優しいのねーっ!」
号泣しながら励まし続ける玉恵に、ギロチーヌは困惑と喜びとが入り混じった微笑みを浮かべた。
「……あらっ! わたしが抱き締めているおかげで、これじゃギロちゃんが朝ご飯をいつまで経っても食べられないわねえ。あなたにシャワーを浴びて貰っている間に温め直したのだけど、せっかく温め直しても、これじゃまた冷めちゃうわねえ……」
玉恵は自分のせいで亜麻色の髪の少女が、お預けを喰らう犬のようにいつまでも目の前の食事にありつけないでいることに気付いた。
「オーッ! ジャポンのミステリアスな
ギロチーヌはあらためて目の前の食卓に並べられた品々を見て歓喜の声を上げると、両手を合わせて呟いた。
「ボナペティ! いただきまーすっ!」
亜麻色の髪の西洋美女が、嬉々として手元に置かれた箸を掴む。
その様子を見て、今までボケッとしていた霧斗は慌てて我に返った。
「あっ、ボクも! いただきます!」
霧斗も慌てて、その両手を合わせた。
「わぁーっ! どれから食べたらイイのか迷うわねーっ!」
ギロチーヌの目の前には、白いご飯と、アジの干物、玉子焼き、お新香、梅干し、海苔、納豆、味噌汁、といった日本の家庭ならではの一般的な朝食の献立が並んでいた。
その品々を前に、ギロチーヌは箸をそれぞれ一本ずつ、右手と左手に持ち構えて首を傾げていた。
「ギロチーヌちゃん、箸の持ち方違うよ……」
「えいっ!」
霧斗がさりげなく注意をしたのとほぼ同時に、ギロチーヌは右手の箸を白いご飯の真ん中に突き刺し、左手の箸をアジの目玉に突き刺していた。
「うわっ、遅かったか……」
「うーん、ジャポンのライスは食べづらいわねー。こんなスティックでどうやってライスを口に運んだらいいのかしらー。でも、こっちのフィッシュの目玉を突き刺すのにこのスティックはピッタリだわぁー。フェンシングの要領で突けばいいのよね?」
見ちゃいられないとばかりに手で顔を覆う霧斗を意に介することもなく、亜麻色の髪の西洋美女は箸の先端に突き刺したアジの目玉をくり抜いて、そのまま口へと運んでいた。
「うふふ。ギロちゃんは日本に来たばっかりで日本のことまだ何にも知らないんだから、霧斗がいろんなことを手取り足取り教えてあげないとねえ!」
玉恵が向かいに座る霧斗を意味ありげに見つめ、微笑みかける。
「なんだよ母さん、気味悪いなあ……」
霧斗は玉恵の微笑みにゾクゾクッと背筋を震わせ、静かに席を立った。
「ギロチーヌちゃん、ちょっと貸してみて……」
霧斗はそのままギロチーヌの傍らに立つと、その白く華奢なそれぞれの掌から二本の箸を奪い取った。
「あのさ、箸はさ、こうやって持つのさ!」
自らの手の中で綺麗に並べ直した二本の箸を、霧斗はギロチーヌの右手にそっと添えるのだった。
「オーッ! ジャポンのダブルスティックは右手に揃えて獲物を狙うのねーっ!」
歓喜の声を上げながら、右手に持たされた二本の箸をググッとその拳で強く握りしめたギロチーヌが、その拳を目の前の皿に勢いよく振り下ろす。
「とおっ!」
ギロチーヌの拳が納豆の入った皿に命中、亜麻色の髪の西洋美女はそのままグリグリと納豆を二本の箸で掻き回した。
「あはっ! 楽しーいっ!」
「まあ、いいか……本人のやりたいようにやらせてあげようっと!」
好奇心溢れる瞳でひたすら納豆を掻き回し続けるギロチーヌを横目に、霧斗が自分の席に戻る。
「とりゃーっ!」
気合いの入った掛け声とともに、ギロチーヌがブウンと箸を振り回す。
「うわあっ……?」
ベチャッという粘着質の物質の弾け飛ぶ音がしたかと思うと、霧斗の顔面をネバネバした物体が覆った。
「ひええぇっ! な、納豆がボクの顔に、ベッタリくっ付いたじゃないかあああっ!」
粘着性のある汁が霧斗の顔面から垂れ落ちる。
「まあーっ! 大変だわーっ! ティッシュですぐに拭かないとねーっ!」
慌てたギロチーヌは、目の前の皿の中に黒く薄っぺらい紙のような物体があるのを見つけると、それを手に取りすぐさま席を立った。
「はいはーい! キレイキレイしましょうねーっ!」
ギロチーヌが手にした黒紙で、霧斗の顔面に付着する納豆を拭き取る。
「……って、うわあっ? そ、それは海苔じゃないかあああっ!」
霧斗は、ギロチーヌの手にする海苔に巻かれた納豆を見て喚き散らすのだった。
「あらっ? これ、ジャポンの脂取り紙じゃないのぉーっ?」
喚く霧斗に、ギロチーヌはただただ困惑し、丸めた海苔を開き見るのだった。
「うっふっふ! ギロちゃん、あなた最高よ! あはははっ! あー、可笑しいったら、ありゃしない!」
二人のコントのようなやりとりに玉恵が腹を抱えて笑い転げる。
「母さん! 笑い事じゃないよ! ボクがこんな目に遭っているのにさあっ!」
霧斗は玉恵に憤りながらも、顔面に残ったネバネバの残存勢力を払いのけるのに必死だった。
「納豆のせいで、顔が痒いよっ! もうっ! ギロチーヌちゃんもギロチーヌちゃんさっ! 少しは落ち着いてボクに朝ご飯を食べさせてくれないかなあーっ!」
腐った大豆の汁を丹念に拭き取ってもなお、霧斗の顔の粘り気は消えない。
「オーッ! これがナットウとか言う、腐った大豆なのねーっ?」
ギロチーヌは手にした海苔に付着する納豆をマジマジと見つめて、その頬を緩ませた。
「こんなにも腐った豆なのに、ジャポンの人達から愛されるメニューになるなんて……」
感慨深く手元の納豆を見つめつつ、ギロチーヌが碧眼の瞳から涙を零す。
「なんだって? それが納豆だって知らないで喜んで箸で掻き回していたって言うの……?」
豆の汁にかぶれた頬を掻きながら、霧斗が半ば呆れ気味に、亜麻色の髪の西洋美女を見やる。
「……うえぇーん。アタシ、感動したのよぉーっ! こんな腐った豆でさえ、立派なメニューになって頑張っているのに、アタシなんて腐ったポンコツと呼ばれたくらいで、ふてくされていたなんて……」
腐った豆を手に大泣きするギロチーヌに、傍らに立つ霧斗もその頬を緩ませる。
「なんだかよく分からないけどさ、納豆くらいでそんなに感動できるなんて、ギロチーヌちゃんってけっこう純粋なんだなあ……」
霧斗はギロチーヌの心の素直さに、自らの心の中にも微笑ましい純粋な気持ちが湧きあがってくるのを感じた。
「腐った腐った納豆さん。アナタたちは本当に偉いわぁ……」
海苔に付着した腐った豆達をしみじみと見つめ続けるギロチーヌ。
「……もう、頬ずりしたくなっちゃうくらい尊敬するわあっ!」
そう言いながら、亜麻色の髪の西洋美女は何を思ったのか、自らの頬を納豆に寄せ、いきなり頬ずりを始めたのだった。
「うわあっ? これってもしかして、納豆を通じた間接キッスなのか……?」
つい今しがたまで自分の顔に付着していた納豆が、今度はギロチーヌの頬に付着している。
その西洋女性に特有の透き通るような白く美しい頬を納豆の汁がベチャベチャに汚している。
ギロチーヌの淡いピンクの唇が独特の粘り気を帯びた豆の匂いに覆われていく。
「……っていうか、ギロチーヌちゃん! 顔がベチャベチャなだけじゃなくて、母さんのワンピースにまで納豆の汁が垂れているよっ!」
「オーッ! お母さんのフローラル・ベールのワンピースを汚しちゃったわねーっ!」
納豆に塗れたギロチーヌの頬からは、粘り気のある汁が玉恵から借りた花柄の緑のワンピースにまで垂れ落ちてしまっていた。
「まあっ、ギロちゃん! 大変! すぐに拭かないとねえっ!」
玉恵が慌てて濡らしたタオルを用意する。
「あらあら可哀想! 可愛いお顔が台無しよ!」
玉恵がギロチーヌの頬に纏わり付いた納豆を拭き取っていく。
「オーッ! お母さん! アタシの顔なんかよりも、お母さんの大事なワンピースを拭いてくださいっ!」
ギロチーヌが遠慮がちにそう言うと、玉恵はワンピースに付着した納豆の汁を濡れたタオルで一通り拭き取った。
「ギロちゃん、ちょっと待ってね……」
ギロチーヌの顔とワンピースとを拭き終えた玉恵が、小走りにダイニングを離れ、隣の部屋へと駆けていく。
「そのワンピースは納豆臭くなってしまったから、こっちのお洋服に着替えてちょうだい……」
隣の部屋の衣装ケースから玉恵が新たな着替えを用意する。
「うわあっ! 一段とオバサンっぽい服だね、それ! そんなの着るんじゃギロチーヌちゃんがより一段と可哀想だなあ……」
玉恵の手にした着替えを見て、霧斗が呆れた声で言う。
「まあ! オークルのワンピースっ! トレビヤンだわぁ!」
ギロチーヌは嫌な顔一つせずに、玉恵の手にする着替えを見つめた。
それは黄土色の無地のワンピースであった。
やや小太りな玉恵の体型に合うサイズで、やはり細身な若いギロチーヌにとっては、その生地を持て余すくらいに余裕があり過ぎる。
「ねえ、母さん。ギロチーヌちゃんのゴスロリのドレス、洗濯しているんだよね? いつ着られるようになるのさ?」
霧斗は、ギロチーヌがあまりにもオバサン趣味な黄土色のワンピースを着させられる羽目になることを憐れみ、血塗れのゴスドレスの洗濯の進捗状況を玉恵に訊ねた。
「ああ、ギロちゃんのあのお人形さんが着るみたいなドレスね? あれね、母さんにはちょっと洗濯するのが難しそうだから、クリーニングに出すことにしたよ……」
玉恵は、まるで自らの手には負えない患者を前にして、匙を投げだす医師のような神妙な面持ちで告げるのだった。
「ええ? クリーニングって、いったいどれくらい時間掛かるのさあっ?」
霧斗は、あたかも自分の着るドレスの仕上がりを気にするかのような口調で玉恵に問いかけた。
「そうだねえ。おそらく数日は掛かるんじゃないかねえ……」
そう答えながらも玉恵は、申し訳なさそうな口ぶりのなかに、一点、まるで何かの企みを思いついたかのように、急にその目を明るく輝かせた。
「……ねえ、霧斗! せっかくの日曜、こんなに天気もいいことだし、ギロちゃんとお出掛けデートでもして来たら? 母さんがお金をあげるから、ギロちゃんの服でも買いに行っといでよ!」
玉恵はそう言うなり、霧斗に背を向け、ふたたび隣室へと小走りした。
「ほらっ、これでどうかねえ。これだけあれば足りるかねえ……」
タンスの引き出しから財布を引っ張り出した玉恵が、一万円札を霧斗に手渡す。
「うわあっ? 福澤諭吉なんて今までボクにくれたこと無かったじゃないか!」
霧斗は、一万円札に描かれた福澤諭吉の肖像を、驚きにその目を見開かせ、穴の開く程に凝視した。
「うふふ。なにせ百年に一度あるかないかの奇跡だからねえ。そりゃ母さんだって奮発しちゃうわよ!」
玉恵は、嬉しそうに息子を、そしてその傍らに佇む亜麻色の髪の西洋美女の姿をと、交互に見やり微笑んだ。
「まあっ? お母さん! そんなにお金いらないですっ! アタシ、このオークルのワンピースで十分ですっ!」
フランス語で黄土色を表すオークルという単語を連発しつつ、ギロチーヌは玉恵から渡された無地のワンピースを憧れるように見つめた。
「いや! 母さんの気が変わらないうちにっ! 行こうっ! ギロチーヌちゃんっ!」
霧斗は息つく暇も無く、ギロチーヌの腕を引っ張り、玄関へと慌てた。
「ふだんケチな母さんがこんな大金くれるなんてさ! もしかしたら、山の天気と同じさ! 晴れていると思ったら、すぐに嵐に変わるかもだ! いや、嵐どころか、雷が落ちるかもしれないぞ! だから今のうちだよ!」
「オーッ! アナタのお母さんは山の雲の上の雷様なのねーっ?」
ドタドタと慌ただしく廊下を駆けていく足音が聞こえたかと思うと、バタンと勢いよく玄関のドアを閉める音がした。
「あらまあ! 結局、ギロちゃんは納豆の匂いの染み着いたまま、出掛けちゃったのねえ……」
二人の去ったダイニングに残された、無地の黄土色のワンピースを横目に、玉恵は微笑ましげに溜め息を吐くのだった。
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