ひといろ

JEDI_tkms1984

ひといろ

 人の好みはそれぞれだ。

 食べ物、芸術品、酒、たばこ、小動物……。

 誰しもが好きなものと嫌いなものを持ち、前者を求めて後者を遠ざける。

 対象は何でもよいし、長い人生の途中で変わってもかまわない。

 甘い菓子が好きな子どもが歳をとり、若い頃は苦手だった野菜や魚を好むようになるのはよくあることだ。

 バッハやショパンといった有名どころの曲を嗜んでいたハズが、気が付けばスウェーリンクやブクステフーデのような聞き慣れない作曲家に傾倒していることもある。

 しかし好いているうちは健全でも、それが度を越えれば恐ろしい病となる。

 好きも嫌いもほどほどにするべきなのだ。


 この男にも好きなものがあった。

 できることなら世界中の全てのそれをかき集め、永遠に自分のものにしたくなるほど愛してやまないものが。

 しかしそれは不可能であった。

 彼が愛しているのは ”赤” だったからだ。

 なぜこれに興味を引かれるようになったのかは本人にも分かっていない。

 ただ相対的に好きな理由は説明ができる。

 何色にも染まってしまう白には強さがなく、反対に何にも染まらない黒には可愛げがない。

 水色やピンクのような淡い色合いは中途半端な印象を与えるし、紫や黄は毒々しくて深みがない。

 その点、赤である。

 食べ頃の果実、赤身の魚や肉、バラをはじめとする花弁などには力強く、そしてポジティブなイメージがある。

 なにより体内を流れる血液。

 この赤さは生命の躍動、いや命そのものを表現していると言ってよい。

 赤がなければ生命は存在せず、この地球は冷たく凍てていたにちがいないと彼は思う。

 赤はそれ自体も魅力的だが、引き立て役を用意すればさらに映える。

 たとえば白。

 真白な布にほんの一滴の赤色のインクを垂らすだけで、芸術的なコントラストのできあがりだ。

 平面に描画されているにもかかわらずまるで浮き上がって見える赤は、白に優越していることを如実に表している。

 黒を基調に赤をちりばめてみると、何ら工夫を凝らすことなく高級感を演出できる。

 言うまでもなく緑に赤を添えれば瑞々しい植物と果実の完成だ。

 このように赤は何色にも勝り、何色にも屈せず、しかし何色をも迫害しない。

 この世界に存在するあらゆる色は赤を中心に成り立っている!

 男はすっかり赤の虜になった。

 外に出れば信号機を見つめ、近所で小火ぼや騒ぎが起こればゆらめく炎に心ときめかせた。

 花、車、文房具、家具、内装――。

 彼はそれら全てを赤色で統一した。

 自宅の外壁まで赤く塗りたくったために近隣住民と揉めたりもしたが、そのストレスも一面の赤を見れば自然と治まった。

 しかしこれでも物足りないと思う瞬間がある。

 そういう時は指先を切ってわざと出血させる。

 彼曰く、赤にも細かな系統やランク分けがあるらしい。

 信号や車の塗装等、いわゆる既製品に用いられるそれはランクが低いという。

 ありきたりで希少性に欠けるのが大きな理由だが、最たる要因は深みがないため、とのことである。

 対して高評価がつけられるのは花、絵画、果実だ。

 これら自然が作り出す色は工業製品にはない希少性がある。

 微妙な濃淡や厚み、時を経て変化した絵画の塗料などは世にふたつとない色であり、完全な再現が不可能なものだ。

「美しい…………」

 彼は指先を見つめた。

 それら赤色の頂点に立つのが血液だ。

 前述のように生命そのものを表すこの赤は凡百の赤とは一線を画している。

 濁っているようで澄んでいる表面。

 高級感のある艶。

 吸い込まれそうなほど鮮やかで、それでいて不気味で不吉さを感じさせる深み。

 それが体内を絶えず巡っているのかと思うと、彼はなんともいえない気分になる。

「とはいえ――」

 傷だらけの両手を見る。

 精神の安定を図るためにしばしば血を見ようとして、あちこちに切り傷を作ってしまっている。

 物理的な痛みを伴うこの作業をいつまでも繰り返すワケにはいかない。

 かといって他の動物や人間を傷つけることもできない。

「どうにかしなければならないな……」




 数日後。

 男はとある医師を訪ねた。

「変わった注文だな。正常な眼球にわざわざ手を加えてくれとは」

「私にとっては必要なことなのだ」

「分かっているのか? この手術をすればあんたは正常な色覚を失う。元には戻せないのだぞ?」

 白衣姿の男は呆れた口調で問うた。

 医師といっても患者の治療をする真っ当な職業ではない。

 彼は脛に傷持つ者の整形や指紋変造等を行う技術者であった。

「承知の上で頼んでいるのだ。あんたは金さえ払えばどんな手術もやってくれるのだろう?」

「まあな。それが俺の仕事だ。余計な詮索もしない。ただ――」

「言いたいことは分かるがこれは私の意思なのだ。金は用意してある」

 妙な依頼に彼はうなった。

「あらゆるものが赤く見えるようにしてくれ、か。こんな患者は初めてだ」

 技術的には不可能ではない。

 細胞にちょっとした細工をしてやれば望むとおりの眼球にしてやれる。

「不可解だがあんたにも事情があるのだろう。分かった、引き受けよう」

 医師は手術室へと彼を案内した。




「――気分はどうだ?」

 肩を叩かれ、男は目を覚ました。

 麻酔の効果が切れ、彼はゆっくりと上体を起こす。

「何も見えない」

「そりゃそうだ。目隠しをしているからな。あと10分もすればはずせるようになる」

「それでは――」

「ああ、成功だ。注文どおり、赤色しか見えない目になっているぞ」

「早く見てみたい。あと何分だ?」

「あせるなよ。静かにしていないとお楽しみが遠ざかるぞ」

 逸る気持ちを抑えるため、2人はしばらく他愛ない会話で時間をつぶした。

 彼は赤色の魅力を身振り手振りを交えて伝えようとしたが、医師にはとうとう理解ができなかった。

「よし、時間だ。はずしてやろう」

 後ろに回り込んで目隠しをほどいていく。

 男はおそろおそる目を開けた。

「おおっ!」

 眼前に広がる光景に思わず声をあげる。

 視界にあるのは大小の小瓶が入った薬品棚に小さな机、壁に掛けられた時計だ。

 それら全てが見事に赤に染まっていた。

 それぞれの境い目には微妙な濃淡があり、棚や机の輪郭はエンボス加工されたように浮き上がって見えた。

 続いて自分の両手を見やる。

 手首や掌はもちろん、爪の先まで赤い。

「素晴らしい! 本当に全てが赤く見えるぞ!」

「それはよかった。あんたの見ている景色は俺には分からないが満足してくれたようでなによりだ」

「ああ、感謝するよ。こんな素晴らしい世界が手に入るとは……あんたにも見せてやりたい」




 かくして男は新たな色覚を手に入れた。

 全てを赤で染め上げた世界はサーモグラフのように美しい。

 濃淡や光沢のわずかな差異から物体の形状や位置、距離を把握できるのは誰よりも赤を愛し敬ってきた彼だからこそ可能な芸当だ。

 おかげで日常生活に支障はない。

 慣れれば書籍の小さな文字の羅列さえ識別できる。

 蛇口をひねった際に真っ赤な水が流れた時にはさすがに驚いたが、今ではそれを当たり前のこととして受け入れられる。

「ああ、こんなにも美しい世界に生きられるとは――」

 自分はなんと幸せなのだろう、と彼は心から思った。

 真っ赤な部屋の中で緋色の本を繙き、紅色の文字を読む。

 喉が渇けば朱色のお茶を飲み、腹が減れば茜色の飯を食べる。

 彼にとっては極上の生活だ。

 手術をしてよかった、と彼は心から思った。

 だが――。



 異変が起こったのはそれから数日後のことであった。

 彼はある時を境に赤色を認識できなくなってしまった。

 色が分からないワケではない。

 術後の経過に問題はなく、彼の目には確かに赤色の世界が見えているハズだった。

 認識できていないのは彼自身だった。

 目の前に広がるその色がはたして赤色なのか、それともそれ以外の色なのか?

 そもそも自分が見ているものに色がついているのか?

 それ以前に”色”とは何なのか?

 彼にはもうそれすら分からなくなっていた。

(これはどうしたことなんだ……!?)

 せめて赤以外の何かが認識できれば、それとの対比で赤を認識することができたかもしれない。

 だが色覚を捨てたのは誰あろう彼自身だ。

(私は何を見ているんだ? 私は何色を見ているんだ!?)

 苦痛から逃れようと本棚の書籍をぶちまける。

 散らばった様々な本は全て同じ色をしている。

 手近にあったイラスト集をめくる。

 同じ色のページが続き、同じ色の風景や動物の絵が描かれている。

「クソっ!!」

 それらを投げ捨てて洗面台の前に立つ。

 冷たい水で顔を洗えば気分が変わるかもしれない。

 色の無い手が蛇口をひねり、色の無い水が流れ出す。

 指に触れた冷たい感覚だけは本物だった。

 ふと顔を上げる。

 鏡がある。

 そこに映る透明な顔と目が合う。

「あ、ああ……ああ…………!」


 何もかもを認識できなくなった男は喚き散らしながら外へと飛び出した。


 無数の色がひしめく、境い目のない地面を踏んだ時。


 彼の後ろからけたたましく鳴り響くクラクション。


 鈍い音がした数秒後。


 彼は何も見えなくなった。

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