5.月影に二人きりのワルツ

 耳元で風がうなる。身体が持ち上げられる感覚とそれに続く浮遊感に、ジゼルは強く唇を噛み締める。やがてそれが止んで恐る恐る目を開けると、遙か下にある地面とボロボロのレンガに靴をかけているだけの足元にくらりとめまいがした。


「いやーっ!」


 血の気が引くのと同時に悲鳴を上げる。本能的に目の前のガラス窓を押して中に入ると、けたたましい音とともに部屋の中に転がり落ちた。


「大丈夫、ジゼル?」


「大丈夫なわけないでしょ! 何であんなところに降ろすの! 死ぬとこだったんだけど!」


「ちょっと座標がずれちゃって」


 と、奥から視線を感じて口を噤む。埃を払いながら立ち上がると、月明かりだけが照らすこの部屋の隅で、男の子が膝を抱えてこちらを見つめていた。


 肩まで流れる透き通るような銀糸の髪に、薄花の青い瞳が儚げな印象だ。精巧な陶器のお人形のようなこの子供は、間違いなくルイス王子だろう。


 突然窓から現れて一人で捲し立てだした女の子におびえるのも無理はない。細い指先が不安げに組まれるのを見て、ジゼルはドレスを広げて優雅にお辞儀をした。


「驚かせてしまい申し訳ありません、ルイス様。ジゼル・モントシュタインと申します」


 王子は呆然と目を見開いたままだったが、唇を小さく動かして「天使様……?」と呟いた。


 そんな言葉をくれた人は前世も合わせて初めてで、照れくささにクスッと笑ってしまう。


「いいえ。ですが王子様がここにいらっしゃるとお聞きし、お話相手になりに参りました」


「話し相手……」


「はい。夜に一人は心細いでしょうから」


 多少強引に話を進めつつ王子の隣に座る。暗さに慣れてきた目で部屋を見回すと、小さなベッドに書き物机、古いデザインのキャビネットが置かれているのみで、使用人の私室のようだった。


「何のお話をしましょうか」


 前世は末っ子だったし、子供と触れあう機会もそうそうなかったから何をすれば喜ぶのか分からない。けれどせめて夜が明けるまでは、彼の辛い境遇を忘れさせてあげたかった。


「ううん……」


 ぼうっとジゼルを眺めていた彼は、長い睫毛を伏せて黙り込んでしまう。抑圧される毎日の中で、自分が何に楽しさを感じるのか忘れてしまったのかもしれない。会って数分でこじ開けるような真似をしてはいけないだろう。


「では、私のお話を聞いてもらえますか? 眠くなったらそのまま寝ちゃって大丈夫ですよ」


 前世で好きだった読み聞かせを思い出す。うんと幼い頃、枕元の母が絵本を広げて寄り添ってくれていた。眠れない夜も優しい声の響きだけで安心した記憶がある。


「何から話そうかな……ええと、私の好きだった物語をお聞かせしますね。異国のおとぎ話なんですけど」


 ルイスの表情は変わらないが、微かに頷いてくれる。


「昔々、ある国に可愛いお姫様が生まれました。王様はたいそう喜んでお祝いのパーティーを開くことにしました。その国には十三人の魔女がいたのですが、彼女たちに使う特別なお皿が十二枚しかなかったため……」


 語りながら、ジゼルは懐かしさを閉じ込めるようにゆっくりと瞬きをした。絵本、漫画、小説、映画。宝塚好きの母に連れられて何度も観に行ったミュージカル――前世はたくさんの物語に溢れていた。心が弾むようなこの感覚も久しぶりだ。


 この世界にもきっと素敵なストーリーを生み出す作家がいるだろう。デルバール王国でしか読めない本があるのなら、ここで過ごしていく楽しみがひとつ見つかった気がした。


「――そしてアラジンが魔法のランプを擦ると、中から魔人が! ……あら?」


 物語も四つ目になり、声にも熱がこもってきた頃、やけに静かな彼に違和感を覚え振り向くと、穏やかな寝息を立てて眠りに落ちていた。


「よかった。いや、その場しのぎだからあまり良くはないんだけど」


 机に置かれたメモ用紙を破り、「おはなしの続きはまた今夜」と書いて王子の横に置く。空はうっすらと白んで、もうすぐ朝焼けが見られるだろう。


「ちょっと! 今夜も来る気?」


「アルベルト様が帰ってくるまで。じゃないと、私の方が心配で寝てらんないよ」


「もーう、勘弁してよ。なんで人間の子供なんかのために……」


「お願いミーナ。あなただけが頼りなの」


 今晩はお菓子や毛布を持ってこよう。キャンドルに火を灯せば闇も楽しいものになるかもしれない。


「良い夢を、王子様」


 ミーナと目配せをして魔法に集中する。掠れ始める視界の奥の幼い寝顔がいじらしくて悲しくて、後ろ髪の引かれる思いだった。


 ✧˖°⌖꙳✧˖°⌖꙳✧˖°


 座標があっているのをしつこく確認して部屋の真ん中に降り立つと、ルイスは立ち上がって小さくお辞儀をした。


「こんばんは、ルイス様。今夜も月が綺麗ですね」


 では昨日の続きからお話しましょうか、と自分ごと毛布にくるんでやると、小さな身体はすっかり冷えきっていて胸が痛む。


 暖炉もない塔の小部屋で、夜ごと物語を紡いでいくこの時間はさながらアラビアンナイトのようだった。


 シェヘラザードのようにいい所で区切るつもりは無いのだが、何個目かの話の山場で王子の瞼が限界を迎えてしまい、自然と次の晩に持ち越しになる。


 伯爵家に帰るなりジゼルはベッドに倒れ込み、誰も部屋に来ないのをいいことにその夜に備えて仮眠を取るのだった。


 そんな毎日を何回か繰り返して、寂しい王子は少しずつジゼルに心を許し始めたようだった。


「――そして姿の戻った野獣はベルと結婚して、いつまでも幸せに暮らしたのでした。めでたしめでたし」


 定番の言い回しで締めると、ルイスがぱちぱちと拍手をくれた。その愛らしさにすっかり興が乗ったジゼルは、立ち上がって月光をスポットライト代わりに即席の一人芝居を始める。


 そろそろ話すだけでは単調になってきた頃合いだ。


「じゃあ、次のお話ね。むかしむかしあるところに、シンデレラという心優しく美しい娘がいました。幼い頃に母親を亡くしたシンデレラは、父親が再婚した継母に――」


 そこまで話してハッと固まった。有名すぎるおとぎ話だから意識していなかったけれど、シンデレラの境遇はあまりにも今のルイスに似ている。


 やめるべきか逡巡していると、


「どうしたんですか?」


 遠慮がちな声がそう尋ねた。早く続きを話して欲しいとねだるように眉を下げている。


 ジゼルはひとつ咳払いをして、力強く王子を見つめた。


「ルイス様、これはあなたのような主人公が素敵な恋人と出会い、幸せになるまでの物語です」


 ルイスがはっと息を飲んだような気がした。


 時に継母に、時にフェアリーゴッドマザーになりながら話は進み、シンデレラはいよいよ舞踏会にやって来た。


「王子様はシンデレラを見て言いました。『なんて美しい人でしょう。僕と踊ってくださいませんか』」


 そして観客の彼の手を掴み、ぐいと月明かりの中に引っ張り上げる。


「踊りましょう! ルイス様。座ってばかりじゃ身体が固まっちゃいますよ!」


「……ごめんなさい。僕、踊れないんだ」


「私もです! いいんですよ、適当で。ここには私たちしかいないんですから」


 アルベルトはダンスの講師が厳しいとこぼしていた。きっとルイスだけ習わせてもらえていないのだろう。


「えっと、三拍子ってワルツでしたっけ。あはは、なんでもいいや。ほらルイス様、一、二、三、一、二、三……」


 程よい眠気で気分が高揚し、王子の手を握ってくるくると回る。めちゃくちゃな動きに楽しくなってきたのか、硬い表情だった彼もやがて唇をほどいてあはは、と笑い声を上げた。


「もっともっとですよ。王子様、ほらくるくるーって」


 パートも何もあったものじゃない。けれど孤独な子供たちは互いに回転してはキャッキャとはしゃぎ、ふらついては埃の積もった床に倒れ込みまた笑う。


 ミーナも楽しげな雰囲気につられたのか、頭上から光や花びらの雨を降らせていた。


 夢みたいだ。ルイスが呟く。


「ねえジゼル、もっともっとお話して」


「いいですよ。舞踏会でダンスをした二人は恋に落ちたのですが、そのとき約束の鐘が鳴って……」


 束の間の優しい夜が更けていく。今だけは部屋の隅に何もかもを投げ捨てて、柔らかな灯りの中に二人きりでいたかった。

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僕のかわいい妖精姫は、婚約破棄に四苦八苦。 咲川音 @sakikawa_oto

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