4.もう戻れない音

 アルベルトはそれからも自分はルイスの味方であると伝える努力をしたらしいが、弟は兄の顔を見るなり逃げるように立ち去ってしまうと肩を落としていた。優遇されている子供、しかも自分を虐める継母の息子とあっては心を開けという方が無理な話だろう。


 結局進展のないまま、アルベルトと国王は隣国へ旅立っていった。


 アルベルトの弟ならばジゼルにとっても弟のようなものだ。兄との婚約を破棄できなかったら名実ともにそうなるのだが、今は考えないでおこう。


「それにしても、私の家庭環境もなかなかのものだけどね……」


 冬の気配の深まる薄暗い廊下を歩きながら一人ぼやく。人気のないこの離れの屋敷は、今のジゼルにとっては気を張る必要もなく返って楽なくらいだけれど、とても七歳の子供が暮らすような場所ではない。


 長い廊下を歩いた先にある自室の大きな扉は、どこか監獄を思わせて好きになれないけど、中は貴族のお嬢様の部屋らしい豪華さで快適に暮らしている。


 同じ空間で過ごすのは薄気味悪いが、かといってあまり粗末に扱うのも罰が下りそうで怖いといったところだろう。


「なんかアレだな、呪いのフランス人形にでもなった気分」


 姿見に映った自分をまじまじと眺める。この不思議な髪も夜空を閉じ込めたような左目も、日本人の感覚を以てすればずいぶん美少女に生まれてきたなと感心してしまうくらいなのに、この異世界の価値観では不気味にしか見えないなんて勿体ない。


 兄はあまり二次元に興味のない人だったが、つぐみはクラスメイトと貸し借りをしながら相当な数の漫画や小説を読み漁ってきた。こういうメルヘンな世界観も人並みに憧れを持っていたのに、まさかこんな立場に生まれてくるとは。


 ――そういえば、ユキに漫画借りっぱなしだったなあ。


 一番仲の良かった友人の笑顔が胸に浮かぶ。「つぐみーっ」と呼ぶ声が聞こえた気がして、思わず後ろを振り返った。


 昼休みの気怠い教室のざわめき、扉が開く音。漫画の入った雑貨屋の袋を掲げて、ユキがつぐみに手を振っている。「わー、もう続き持ってきてくれたの?」「早く読んで貰いたくて。この巻、めっちゃ熱い展開だから!」幻の上履きが目の前を駆けていき、少女二人が笑いながらじゃれ合う。


 熱くなった瞼をまばたくと、水道で何かを洗っている音が聞こえた。パタパタと行き交う足音に、テレビから響く笑い声。つぐみは定位置のソファを陣取ってゲームをしている。「つぐみ、アンタ宿題は終わったの?」「んー、待ってー。キリがいいとこまでやるからー」横にいる兄が苦笑している。キュッ。水の音が止まる。


 我に返ると、目の前には誰もいない空間が広がっているのみだった。ランプの明かりは端まで届かないから、寒々とした薄闇に溶け込んだ家具やベッドはみんな死んでいるようだった。動くたびに起こるドレスの衣擦れも、耳鳴りのするような静寂に吸い込まれて消えてしまう。


「帰りたいな……」


 無意識に呟いていた。あの顔合わせから怒濤の毎日を送っていたから思いを馳せる暇がなかったけれど、こうやって足を止めてしまうと、息もできない郷愁にどうすればいいのか分からなくなる。


「お母さん……」


 懐かしい響きの言葉に崩れ落ちてしまいそうだ。


「お父さん、おばあちゃん、ユキ……」


 しゃがんで膝を抱えると、ますます静けさに押しつぶされそうで、迷子の子供のように小さく身体をたたむ。


「帰りたいよ。うちに帰りたい。帰る……」


 あの時、事故が起きなければ。後ろから追突されていなければ。車が橋の下に落ちなければ。こんなところに来なくて済んだだろうか。


 涙が流れるまま苦しいほどしゃくりあげて、微睡みに似ただるさに頭が重くなる頃、上から声が降ってきた。


「ジゼル! あんたまた泣いてんの? 最近メソメソしなくなったと思ったのに」


 ミーナだった。つぐみのいないただのジゼルだった頃もこの部屋でよく泣いていたから、彼女には見慣れた光景だったらしい。それよりも、と話を進める。


「王子が大変よ。あのイジワル王妃に塔のてっぺんに閉じ込められちゃったの」


「え⁉ 塔ってあの池の近くの?」


 時計はもう十時を回っている。こんな夜に、誰も近寄らなくなったおどろおどろしい廃墟に一人でいるなんて。どんなに怖い思いをしているだろう。


「八歳なんてまだ小学二年生だよ⁉ あんまりじゃない⁉」


「ショウガク?」


「あ、こっちの話」


 必死で記憶を辿れば、塔の一番上に両開きの窓がついていた。きっとあそこに部屋があるのだろう。


「その部屋の鍵は?」


「古いドアだったから錠が壊れてたみたい。王妃が鎖でぐるぐる巻きにしてた」


「じゃあ、そこを破ったら王妃にばれちゃうわけだ」


 本当は今すぐ連れ出してあげたい。けれどこの国に虐待されている子供を預ける施設などないのだ。王子ともなれば特に保護は難しく、最悪こちらが誘拐の疑いをかけられかねない。


「悔しいけど、ルイス様への当たりがますます悪くなるかもしれないから……」


「じゃあこのまま放っておく? 別にいいんじゃないの、死にゃしないでしょ」


「何言ってんの! 今考えてるんだからちょっと待って!」


 せめて傍についていてあげたいが、ジゼルの魔力量ではとても――


「あ」


 拗ねたように顔を逸らしているミーナの腕を掴む。


「妖精って、一時的に魔力を増幅させることができるって前に言ってたよね」


「前にも言ったけどそれには相当な体力が要るの。そう易々とするもんじゃないのよ」


「ねえ、それって何回くらいできる?」


「人の話を聞きなさいよ、ったく……この私を以てしても一日にせいぜい一、二回よ。月の出ていない晩は使えないし」


 カーテンを開く。丘の向こうに煌々と満月が輝いている。


「ねえ、お願いミーナ。緊急事態なの。歳上として私放っておけない」


「いや歳下でしょあんたは……ああそうか、前の人生の記憶が戻ったとかなんとかよく分からないこと言ってたわね」


 私もお人好しね、のぼやきがため息と共に吐き出される。


「じゃあジゼル、そこにまっすぐ立って。そう、魔力を中心に集めるイメージで――」


 涙はすっかり乾いて頬にひりとした痛みを残している。立ち止まったら優しいあの音に呑み込まれてしまう。それが愛しければ愛しいほど、ジゼルの無音を際立たせてしまうから、今は耳を塞いで歩き続けるしかないのだ。


 ジゼルは望郷の念を振り払うように力強く絨毯を踏みしめた。

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