第16話

 高岩は、医務室の簡素なベッドの上で横になっている。傷だらけで発見された彼だが、選手として登録されていない彼は、蜂須賀さんのように例の附属病院へ搬送されることはなかった。

 彼の容態を見た保険医は、本校の医務室で問題ないと判断した。体表の傷こそ目立つが、深刻な怪我はなく、命に別状もないらしい。ここで安静にしていれば、そのうち目を覚ますのではという説明だった。その説明に、偽りはないのだろう。傷さえなければ、ただ寝ているだけにも見える。

 固唾を飲んで見守っていると、高岩はゆっくり目を開けた。

「お前一人か?」

 彼はこちらを見て、ベッドの中で上体を起こそうとする。

「無理に起きなくてもいいよ」

 僕は「まだ寝てろって」と、半ば無理矢理、彼を寝かせた。

「皆、忙しいんだってさ」

 白倉委員長の威光も借りた騒動は、意外とあっさり打ち切られた。居なくなった高岩は割とすぐに見つかったし、同時に姿を消していた岡元さんも、フラッと建物の影から姿を現したらしい。

 本ボシは結局捕り逃したそうだが、そもそもが大会直前ということもあり、懇親会が終わった後はどのチームも目が回るような忙しさに見舞われているようだ。

 傷だらけの高岩を見つけた当初は、蜂須賀さんや早苗さんらも心配して駆けつけてくれたが、医務室へ運び込んで別状がないと分かると、最も戦力にならない僕だけを残し、最後の調整や手続きに全力を投じていた。

 少し冷たいんじゃないかと思う反面、僕らにはその方が都合が良かった。

「お前だったんだな」

 僕は周りに誰もいないことを確かめてから、話を切り出した。彼は否定も肯定もせず、「幻滅したか?」とだけ言った。僕が首を振ると、彼は「そうか」と呟いた。

「じゃあ、あっちはやっぱり」

 高岩は、布団の中で頷いた。何から考えればいいか分からないぐらい、思考や理解が追いつかない。高岩が元気なら首根っこを掴んで揺さぶりでもしただろうに、その衝動すらぶつける先がない。

 高岩はベッドの上で身体を起こすなり、乱れた衣服を整え始めた。ベッドの下にある靴も、すぐ履ける場所へ移動させる。

「先生呼んでくるから、まだ寝てろって」

 僕は高岩をベッドへ押し返すべく手を添えたが、彼は即座にそれを払い除けた。彼は靴を履きながら、「オレの荷物は、研究室だな?」と顔も上げずに言う。

 目覚めたばかりにしては、機敏な動きで医務室を出て行こうとする。

「無事なのはよく分かったから、そこの椅子でちょっと座ってろよ。先生に一言ぐらい言わないと」

「オレに構うな。バレたらもう、オレの居場所はない」

 保険医を呼ぶために診察用の椅子に座らせようにも、高岩は聞く耳を持たない。大人しく待っていてくれれば、すぐ終わるのに。

「バレてない。誰にもバレてないから、ジッとしてろ」

 僕は彼を落ち着かせるべく、彼の懸念を取り除く。彼は「そんなはずは」と首を振る。

「本当だ。僕以外の誰にも、正体はバレてない。僕はこのことを、誰にも漏らさない」

 高岩は鋭い目で、僕を値踏みするように見つめる。口先だけで信用しろなどと、僕だって信じない。彼は僕の目をジッと見つめ、僕も目を逸らさぬように見つめ返した。

「分かった。今はお前の言う通りにしよう」

 彼は自分で、背もたれのない診察用の椅子を引き寄せ、そこに座った。僕がポケ〜っとそれを見ていると、「どうした? 早く行け」と顎で出口を指した。「ああ、分かった。今、呼んでくる」と僕は医務室を飛び出した。

 保険医の居場所なんて、僕には分からない。隣の職員室へ駆け込んで、校内放送で呼び出してもらうことにした。僕は受け付けてくれた職員に礼を告げると、医務室へとんぼ返りした。僕がいない間に高岩は姿を消しているかと思ったが、疑うだけ無駄だった。彼はさっきから微動だにせず、保険医が戻ってくるのをジッと待っていた。

 僕が医務室へ戻ってからものの数分で、保険医も医務室にやって来た。診察用の椅子へ座っている高岩を見て、彼は驚きの表情を浮かべる。

「もうしばらく寝てていいんだぞ? 本当にいいのかい?」

 彼は検温が済んだ体温計を高岩から受け取ると、今度は聴診器を当てる準備に移った。高岩は素直に指示に従い、聴診器の後は口腔内や目を診られていた。

「痛いところは、どこにもない?」

 保険医の問診に、高岩も機械的に回答する。側から見ると痛みしかなさそうだが、彼ぐらいになると、この程度の傷はどうってことないのだろうか。

「まぁ、もし何かあれば家にある痛み止めとか、解熱剤で対処して下さい。念の為、どこかの病院できちんと検査されることをオススメします」

 保険医は時々首を傾げながらも、本人の申告を信じ、それ以上の診察は続けなかった。高岩が礼を告げると、「お大事に」と決まり文句を述べた。僕らは背中を丸めてカルテに何かを書き込んでいる彼に、頭を下げて静かに医務室を出た。

 医務室を後にすると、高岩の要望通り、研究室へ荷物を取りに行く。そうでなくとも、もう日が暮れている。大会が近いとは言え、土曜日のこんな時間ならそろそろ下校する頃合い。上級生らは、大会が終わるまで帰宅することなく最後まで戦い抜くのだろうか。

 緩いはずがないとは思っていたけど、実際に関わってみると想像以上だ。更にそれを上回る情報が押し寄せてくるなんて、入学前には思いも寄らなかった。まさか彼が、白の彼だとは。誰にも秘密を漏らさないと言いながら、つい変な目で高岩のことを追いかけてしまう。

「なんだ?」

 流石に彼も視線に気がついていたらしく、こちらを軽く睨みながら言った。

「いや、痛そうだなと思ってさ」

 僕の咄嗟のウソも、彼は「そうか」と受け流す。ウソを吐くにしても、もっとマシなウソは吐けなかったのかと、僕は自分の無能ぶりを責めた。

 二人で黙々とキャンパスを歩いていると、さっきまでいた中庭や食堂が見えてくる。懇親会を中断して、高岩等を探す騒動も落ち着いてから、そろそろ二時間。この辺りには、もうそれほどの活気はない。食堂の営業時間も、とっくに過ぎている。

 一堂に介していた各チームも研究室へ分散し、月曜日に向けた最終調整や、本番も想定した訓練に勤しんでいるのだろう。そこは、ウチのチームだって変わらない。

 高岩と二人で研究室へ入ると、忙しそうにしていたメンバーは一時的に手を止め、僕らというか、高岩を温かく出迎えてくれた。

「もう良いのか?」

 隣の部屋にいた蜂須賀さんが、早苗さんと共にこちらへやって来た。高岩は声には出さず、頷いた。蜂須賀さんは満面の笑みで、「そうか、そうか。そいつは良かった」と高岩の背中をバンバン叩いた。流石に直接の打撃は痛かったらしく、高岩は顔を歪めた。それを見ていた早苗さんは、蜂須賀さんに「ちょっと」と注意していた。

 早苗さんのお酒はいつの間にか抜けたらしく、アルコールで赤くなっていた頬も元通りになっていた。タガが外れた感じの彼女も可愛らしかったが、後輩を気遣ういつもの先輩も、かなり素敵だ。

 高岩は、自分の荷物をエンジニア担当の先輩から受け取った。蜂須賀さんは彼を手頃な椅子へ座らせ、自分も向き合うように椅子に座った。

「新入生二人は、今日はここまで。高岩くんは、動けそうなら月曜日からで良い。明日は一日ゆっくり休んでくれ。富永くんも、明日は休んでも構わないけど、身体が動かせるならトレーニングに参加するように」

 蜂須賀さんは最後に、「ユーコピー?」と確認してきた。僕と高岩はほぼ同時に「アイコピー」と返事をした。

「じゃ、解散」

 蜂須賀さんの号令で、僕らは「お先に失礼します」と研究室を後にした。周りの研究室も、新入生はもう下校したらしく、薄暗い構内を歩いているのは僕らだけのようだった。

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