第17話
その後、キャンパスを出るまで高岩と二人きりだったのに、彼は結局最後まで何も言わなかった。駐輪場の前で別れるまで、彼は黙々と歩き続け、駐輪場の前で僕が「じゃあ」と声をかけると、小さく頷くだけで姿を消した。
本当は、根掘り葉掘り聞きたいことは山ほどあったけど、彼の方から切り出さない限りは追求しないでおく。僕は何も見なかったし、僕だけが知っていることなど何もない。次に顔を見合わせることがあっても、そのつもりで貫き通さねば。
地味に負荷は大きいけど、幸い彼はしばらく出て来ない。アイツが休みの間に、完全に忘れてしまえばオールオッケーだ。
僕はそのつもりで、翌日曜日の練習にも朝から参加した。とはいえ、大会前の公式練習のため、普段は運動部が使うグラウンドはチームごとに使える時間が決まっていた。割り当てられた時間は、蜂須賀さんのリハビリを兼ねた実践練習に利用される。
そこへ、僕みたいなド素人が混ざってもチームにはマイナスにしかならない。蜂須賀さんの組み手は早苗さんが務めることになっているし、僕にできるのはジャケットやマスクに慣れることと、着用しても動けるだけの基礎体力をつけることの地味な訓練しかなかった。
首から上までフルセットで着けてしまうと圧迫感、閉塞感が強く、そこばかりが気になってマトモな訓練になりにくい。まずは首から下、マスクなしのジャケットのみで慣れること、動けるようになるところから始めることにした。
マスクが揃わなければ機能は半減らしいけど、元は船外活動服なだけあって、激しい運動をしなければそこまで不快な着心地ではない。むしろ、快適さすらある。ジャケット自体の重みや、着用することから来る動きにくさもあるにはあるが、意識しすぎなければ少し厚手の上着を着ているようなもので、ゆっくり慣らしていけば日常的な動作はほぼ問題なくできそうな気がしてきた。
ただ、着用して階段の上り下りをしたり、軽いジョギングや坂道をランニングするような動きを挟むと、勝手が違ってくる。体温調節等は全く問題ないが、プールの中で歩いたり、泳いだりするような全身への負荷が、微妙な時間差で効いて来る。この負荷に慣れれば、もっと楽に動けるのだろうか。それとももっと、根本的な部分で動かし方を間違えているのか。この辺りはもう少し試してみないと掴めそうにない。
試合間近で忙しそうな先輩たちの邪魔をしないように、とりあえず僕は午前いっぱいはジャケットを着て過ごすことにした。無理のない範囲で身体を動かし、適度に休憩と栄養をとって、ジャケットに適合した身体作り、最適な動かし方の模索に時間を費やした。
流石に昼休憩は着用を解除して、激しい筋トレを終えたような鈍い疲労を全身に感じながらも、食堂で昼食を摂った。食堂では、先に着いていた竹内、押川が席を確保してくれていて、全員が別のチームながら、和気藹々と食事を楽しんだ。
「お前のところは、まだ練習があるんだっけ」
竹内は手元のスケジュール、割り当て表を見ながら言った。午後から、他のチームより少し広めに黄色が塗られていた。赤と青は、午前中までで終了している。
「蜂須賀さんのリハビリってのは分かるけど、優遇されてない?」
押川は、素直に思ったままを口にする。
「それぐらい別に良いんじゃない? 調整不足だろうし」
竹内が、こちらの肩を持ってくれた。自分たちで働きかけてこうなったとも聞いていないし、運営側の好意が現れただけだろう。ただ、他のチームからしたら、不満を持つのも分からなくはない。
「おかげでオレたちは早く帰れるし」
竹内の補足に、不意に「えっ?」と声が漏れた。押川もそれには同意して、「それは言えるな」と楽しそうに笑う。
「早く帰れたところでバイトなんだけど」
「オレもだわ」
さっきまで笑っていた二人は、午後からの仕事を憂いているようだった。それでも、二人とも、なんだか楽しそうに見える。
「今年度一発目の大会だけど、新人の仕事なんて、そんなにないしな」
竹内の言葉には僕も同意する。年度末で卒業した最上級生の穴を補いつつ、新入生を取り込んだ新体制で迎える新シーズン。即戦力でもない限り、先輩の活躍を邪魔しない、見守るのが関の山だ。
僕も、蜂須賀さんの件がなければ竹内や押川のような関わり方だったはず。なぜかどっぷり関わって、プレイヤーでもメカニックでもオペレーターでもないのに、大会前日も丸一日付き合っている。
押川は自販機でスポーツドリンクを購入して、僕に差し出した。
「午後も頑張れよ」
「おお。そっちこそ」
僕はそう言いながら、ペットボトルを受け取った。竹内と押川は、「じゃあな」と笑顔で言って、二人で楽しそうに喋りながら遠ざかって行った。僕は二人の背中を見送って、食べ終えた食器を返却口へ運んだ。運動部の活動もない日曜日の食堂、多少離れたところで、誰かに取られることもない。
僕は少し広くなったテーブルで、押川にもらったスポーツドリンクで一息ついた。賑やかな二人がいなくなった分、とても静かで落ち着いている。食堂のおばちゃんが食器を片付ける音まで、なんだか心地良い。お腹も満たされて、程よい疲労感もあって、瞼がだんだん重くなってくる。
「ーーやっぱり、ここに居たか」
椅子の上で舟を漕いでいると、頭の上から声を掛けられた。聞き覚えのある声にハッとして目を開けると、視線の先には高岩がいた。僕は思わず、「なんで?」と呟いた。
「先輩が、食堂にいるんじゃないかと言ってたからな」
「いや、そうじゃなくて」
高岩は顔の傷は目立つものの、いつも通りの姿でそこに立っていた。普段と異なるのは、今日はジャージ姿、スポーツウェアに身を包んでいることぐらいか。
「しばらく、というか今日ぐらいは休むんじゃなかったのか?」
「半日、十分休んださ」
半日休んだ程度で何とかなるとは思えないが、彼がそういうなら問題ないのだろう。
「それで、何?」
「お前のトレーニングに付き合ってやれって言われてな」
高岩がいるなら、蜂須賀さんのスパーリング、組み手に動員すれば良いのに、そこは最終調整も兼ねて早苗さんが担うということか。しかし、アレだけ傷ついて半日しか休んでいない人間に、コーチングされねばならないとは。みんなと彼の好意だろうけど、その親切が逆に辛い。
「もうちょっと、食休みを挟んでからでもいい?」
「ああ、構わない。お前のタイミングで始めよう」
高岩は食堂のカウンターの方へ行き、コップを手に取ると給水機で水を汲んで戻ってきた。近くの席へ座り、水を飲みながら僕が動き出すのを待っている。そんな近くで黙ったままこちらを見られては、動かざるを得ない。
「分かった、分かった。今すぐやろう」
僕が席を立つと、「本当に良いのか?」と高岩は言う。
「ダメだって言ったら、中止になるのか?」
「中止はない。絶対に」
高岩が「絶対」とか断言するなんて珍しい。僕がジャケットを着こなせるようになる、動けるようになるのはそんなに重要なことなのか。それこそ明日からの試合には「絶対に」間に合わないというのに。
僕は椅子に腰を下ろしたままの高岩に、「ホラ、やるんだろ?」と声を掛けた。彼は水が入ったままのコップを持って、返却口へそれを持っていく。僕はゆっくり食堂の出口へ向かって、高岩が側へ来るのを待った。
「すまない、待たせた」
小走りにやってきた彼と合流して、食堂の外へ出た。昨日もそれなりに暑かったが、今日の日差しも、初夏にしては少々強い。これでは、皮下の無機物ユニットが故障しても仕方ない。表皮の有機質も炎症やむなしだ。
僕が日差しを睨みつけていると、高岩は「まずは、どこまで出来るようになったか、着てみせろ」と淡々と言った。どうやら中々スパルタなコーチらしい。それならそれで、やってやろうじゃないか。
僕はまだ疲労が若干残る身体で、ジャケットに身を包んだ。
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