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 さしあたっては、手掛かりが必要だ。しかし、これには心当たりがある。彼が――正確には、彼のドッペルゲンガーが飛び降りる前に何かを書いていた、あのクシャクシャの紙である。あそこに人はなかなか寄り付かないし、ある程度時間が経っても、残っている可能性が高い。


 放課後を知らせるチャイムが鳴った瞬間、私は颯爽と教室を飛び出した。運動音痴の私なので、颯爽という言葉から想像できるほど、颯爽とはしていなかっただろうけれど。


 本来、今日は浪風堂でおでんパーティーをする予定だったけれど――あの古書店のどこに鍋を置く余裕があるのか、甚だ疑問ではあるものの――しらばっくれてしまおう。あの二人にしてみても、二人っきりというのは満更でも無いはずだ。


 いや、やはり、連絡くらいはしておこう……。初期アイコンに、「人述」としか書かれていないつまらないアカウントにその旨を送った。因みに堂主はスマホを持っていない。


「あの二人ってどういう関係なんじゃ」

「さぁ。恋人にも見えるわよね」

「でも、番いにしてはあっさりしている気がするのう」

「んー」

 

 実際の所、私もよく知らないのだ。


「まあ、妾はあやつら嫌いじゃからどうでも良いがのう」

「ツンデレ?」

「違うわい。ツンツンじゃ」


 なにかしら、ツンツンって。ちょっとかわいい。


 天八咫高校はかなり迷いやすい構造をしているように思う。私がまだ不慣れというのも大きいかもしれないけれど、それを差し引いても迷宮のようだ。特に新校舎の方は、明らかにデザイナーの自己満足という感じが強い。特に移動教室の際、その影響が顕著だ。もういい加減うんざりしている。


「お嬢、今のは右ではなく左じゃ」

「え、嘘……」

「妾が思うに、うぬが方向音痴なのではないか」

「方向なんて、人が勝手に作っただけの身勝手な概念よ。それに振り回されている私は被害者とさえ言えるわね」

「最悪じゃな、我が主様は」


 その後もこの調子で迷い続け、漸くのことで、私は外に出ることが出来た。


 夕暮れは、放課後を象徴している。実際、放課後というのは、夕暮れのように実像と影がはっきりと差別される時間だ。グラウンドの方から聞こえる、賑やかな喧噪。音楽室の方からする吹奏楽器の音色。美術室から香る絵の具の匂い。それぞれの青春が、色濃く顕れる。しかし光があれば、影もある。それらの何処にも属せない、影の私たちは、亡霊のように校内を彷徨うのだ。居場所を求めて。


 よよよ……。


「鬱陶しいわね」

「もうちょっと日の光を浴びたいのじゃが」

「ダメよ。人に見られたら終わりなんだから」

「しみったれじゃー! やーい、けーちけーち」


 タマモの「けちけち」コールを背景に、旧校舎へと練り歩く。その道中には、ピサの斜塔のように、天へと聳える巨大な塔状の建築がある。この学校には、図書室とは別に、図書塔と呼ばれる場所がある。それがこれである。七不思議によれば、妖精が住んでいるとか、いないとか。


 しかし実際に、私がここへ入ったことは無い。理由は不明だけれど、何時行っても閉鎖されているのだ。


「ここは寂れているのう。どこかの古書店みたいじゃ」

 

 石の壁面には苔すら生えている始末である。気味悪い雰囲気もあるし、そもそも人が寄り付かないのだろう。


 と。


「お客様ですか?」


 不意に、背後から透き通った声。今の今まで、全く気配を感じ取れなかった。


 振り返ると、一人の少女が立っていた。黒の魔女帽子を被った、不思議な女の子である。ボサボサの真っ黒い髪。血色の悪い肌。光を一切取り入れない闇のような双眸。猫背は不気味な出立ちを演出する。片手には、実にそれらしき、藁の箒を持っていた。


「お嬢」


 タマモが私を呼んだ。しかし、いつも彼女の声を聞いている私は直ぐに理解できた。彼女の声色がいつになく、真剣なもので——それでいて、若干の怯えを含んでいることに。


。こやつは——


 その警告が、合図となった。


 後退りしたその瞬間——先まで私が立っていた場所に、目を疑うような大きな穴が空いた。いや、実際に私がその空く瞬間を観測した訳ではない。いつの間にか出来ていたのだ。音すら無かった。


 何が起きたのだろう。その答えを求めて、魔女の如き彼女を見る。彼女は今、その箒を大地へ叩きつけるようにして、上から下へと振りかぶっていた。しかし、次には何も起こらない。どうなっている。


 いや。

 

 もしかすると、何も起こらなかったのではなく——もう起きたってことなのか?


 だとすれば。


 タマモの言う通り、これはダメだ。無理。理が無い。不可能。


 その恐るべき事実に気が付いた私は、直ぐにその場を逃げ出した。


 刹那、私の立っていたその場所から、蒼い火柱が噴き出した。飛び出していなかったから、今頃丸焦げだ。魔女の方は、火柱が鎮んだ頃に、箒を逆さまにして、柄の先端でとんとんと大地を二回叩いた。


 間違いない。現象そのものと、魔女の動作の不可解な時差。これを合理的に説明できるものが、一つだけある。


 因果の逆転だ。


 原因と結果を、彼女は丸ごと入れ替えている。


 原因と結果は一方通行的なもののに見えるけれど、実態はかなりあやふやで、人の捉え方次第であると言える。主観に依存しているのだ。例えば、机から一つの林檎を落としたとしよう。これを人は「手を離したから、林檎が落ちた」と考える。しかしどうだろう。「林檎が落ちた」という事象を先に観測していた場合、「林檎が落ちたから、手を離した」という推論が立つはずだ。ならばどうして、人が大抵前者の方で認識するのかといえば、時間という一方通行な概念の上に私たちが普段住んでいるからであろう。


 ——という何処かで耳にした話が、瞬時に頭を過った。しかしそれは机上の空論に過ぎない。現実として観測できるものでは、無いはずだ。


「にげろおお、にげるんじゃお嬢!! 死にたくない!!」

「あれ、なんなのよ……。怪異は死んだはずなんじゃ……」


 しかし、その疑問はどれだけ考えても氷解しない。今の私に出来ることは、ただ我武者羅に逃げ回るだけだ。


「お嬢、右じゃ、右に避けろ!!」


 言われた通りにする。次には、空間がぐにゃりと歪んだかと思えば、私のいた位置には無数の氷柱が突き刺さった。


「……タマモ、もしかして、攻撃のタイミングが、解るの?」

「うっすらとじゃがな。人には認知出来ない、怪異特有の超常的な感覚じゃから、お嬢は妾の言う通りにせい」


 しかしながら、魔女の方が速い。これでは追いつかれるのも時間の問題である。


 どうしよう……。何か手を打たなければ、私の命の保証は無い。


「タマモ、食べることは、出来ない?」

「無理じゃ。大抵食える妾でも、あれは食えん類のものじゃ」


 どうする。堂主ならきっと、あの万年筆で本にして終いだろうが、私にそんな力は無い。


 何か、何かあるはずだ。あの魔女は何と言っていた。「お客様ですか?」と言っていた、そうだ、そうだった。そこからどんな推論が出来る? あの時、私は図書塔の前に立っていた。それだけだ。しかしあの魔女にとって、それこそ重要だったのだろう。「お客様」と私を表現したということは、彼女はきっと、図書塔の主なのだろう。ともすれば、彼女は私が不法に領域を侵害したと認識しているということか。縄張り争いみたいな。そんな動物的なものでは無いのかもしれないけれど、方向性は当たっているはずだ。それじゃあ、私はどうするべきだ……。


 いや、待て。この思考には余り意味が無い。考察すべきは、因果の逆転という現象についてだ。どうやら疾走による酸素の欠乏で、思考が纏まっていないらしい。


 因果は人の捉え方次第だ。つまり、あの魔女は望みの結果を原因として認識し、原因を結果として認識しているということだ。換言すれば、原因の後付けである。更に言えば、魔女は私に、彼女の主観を押し付けているのだ。それが恐らく、この『魔法』のからくり。ならば、どうだろう、その逆は不可能だろうか。私の主観を、魔女に押し付けることは。


 試してみる価値はあるか。しかし、並大抵のことではないだろう。これは言ってしまえば、空想を具現化する行為だ。それが現実であると信じて、疑ってはならない。一抹の疑心すら許されない。実のところ、あの箒にそこまでの意味は無いのかもしれない。この因果の逆転という行為は、意識が根強く関係している。だから究極、「そんなことはあり得ないのだ」という疑心を一切合切捨てることに成功したのならば、誰だって出来ることなのだ。けれど実際は不可能だ。だから、あの箒が必要なのだ。あの箒そのものが現象を引き起こしているのではなく、あくまでもその役割は、疑心の除去とか、その程度の補助的な役割に留まっていると考えた方が腑に落ちる。しかし、私にあの箒はないし、疑心を一切合切捨てるなどという悟りの境地に、この刹那で逢着できるとは到底思えない。


 いや。


 あるじゃないか。私には、ある。私にしか出来ない方法が。


「タマモ、今から私はある空想をするわ。その際に生じる、私の疑心を全て食べなさい」

「あくを取り除くということかのう?」

「ええ、今日はおでんの予定だったし、丁度良いわ」

「がっははは、承知じゃ」


 頭にとある光景を思い浮かべる。そしてそれは、酷く鮮明だ。今日見たばかりの景色だから、空想が巧くいく。しかし、これは空想だ。空想でしか……。


 私に並走する猫の影が、二次元から三次元になったかと思えば、私の頭めがけて飛びかかってきた。がばっと、覆いかぶさるような形になる。


 やがて、私の心は不純の一切混じらない、明瞭なものになった。行き過ぎた空想は、現実との差異を見つけ出すのが酷く困難だ。何せ我々が常に現実として認識している光景ですら、視覚聴覚嗅覚味覚触覚の情報を脳が処理し、さながら映画のように、目の前へと投影された虚像に過ぎないのだから。


 魔女が、自分の作った穴に落ちていく。仰向けに、真っ逆さまだ。


 そうして私は、とんと、誰かを押すような動作をした。


 十九世紀フランスの作家、ジュール・ヴェルヌは言った。


 人が空想できる全ての出来事は起こりうる現実である——と。

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