第10話 長内苺と水城蒼依
帰り道の蒼依たちに目立った会話はなかった。
見晴らしのいい河原を並んで歩く。
その二人の間を心地の良い風が通り抜けて行って、立ち並ぶ木々がさわさわと音を立てる。この瞬間だけは、夏の暑さを忘れられた。
「ありがとう。水城くん」
やはりこの町は、とても静かで過ごしやすい良い場所だ。
蒼依が景色に夢中になっていたところ、隣を行く苺が不意に呟いた。
「お母さんと話せたのも、小説を認めてもらえたのも、全部水城くんのおかげ」
「そんな、僕は大したことはしてないよ」
微笑みながらそう語る苺に、蒼依はそんなことないと手を振る。
「お母さんの心を変えるに至ったのは、長内さんの作品があったからこそだよ。僕はほんの少し手伝っただけだから」
「それでも、あなたが居なかったらあの作品は完成しなかった」
ここで苺は、足元に視線を落とした。
「だからありがとう」
そして、とても朗らかな笑みを浮かべそう言った。その笑みは、何となく懐かしいような、初めてではない、そんな不思議な雰囲気を纏っていた。
でも、蒼依の記憶の中で重なったそれは、苺の笑顔ではなく。彼女の姉――長内林檎がよく見せていた優しい笑顔。
もしかしたら苺は、まだ迷っているのかもしれない。
ありのままの自分であることに、躊躇いを感じているのかもしれない。
「そういえば、水城くん」
蒼依の脳裏で様々な思考が渦巻く最中、苺は思い立ったような顔で言う。
「水城くんは、なぜ私があの場所に居るってわかったの?」
「あの場所?」
「ほら、さっき公園の遊具に隠れていたところを見つけてくれたでしょ?」
「ああー」
そこまで言われて、ようやくピンときた。
公園のとある遊具の中に隠れていた苺を、蒼依が見つけ出せたそのわけ。それは蒼依の中に鮮明に残っていた、あの頃の記憶が導いてくれたからこそだった。
「前にもあったよね、長内さんがあの遊具の中に隠れてたこと」
「前にって……」
「あの時は確か、かくれんぼの最中に急に雷が鳴り始めたんだっけ」
「……っっ‼」
記憶を頼りに蒼依が語ると、なぜか苺はハッと驚いたような顔をした。
「思い出したんだね、あの時のこと……」
そして視線を斜め下に避けた彼女は、困惑した様子で呟いた。
今思えばあの頃の話を、今の苺とするのは初めてだった。
「あの時の僕と林檎ちゃん凄い焦ってたんだよ?」
「焦ってた?」
「ほら、苺ちゃんって落ち込んだりすると髪の毛抜いちゃう癖があるでしょ? だから早く見つけないと、苺ちゃんが禿げになっちゃうーって」
「し、仕方ないよ! 苺あの時すんごく怖かったもん!」
ようやく枷が外れたのか、苺はポッと顔を赤く染める。
そして、グッと蒼依に詰め寄ると、本来の彼女らしい口調で弁解した。
しかし、すぐにハッと我に返った苺は、普段通りの落ち着いた面持ちに。
「ごめんなさい、つい気が緩んでしまって……」
「やっぱりまだ、ありのままの自分を出すのは怖い?」
蒼依が聞けば、力ない笑みで頷いた。
「私はずっと姉のようになろうとしてきたから。今さら自分を出すなんて……」
「でも、お母さんは、ありのままの君を書いた作品で泣いてくれたよ?」
「お母さんだって、小説を書くことを認めてはくれたけど、それ以外は今まで通りって言っていたし。やっぱり本心では、姉のような娘になることを求めているんだと思う」
そこまで言うと、苺は諦めたような笑みを浮かべて俯く。
「本来の私を求めている人なんて、誰一人としていないのよ……」
美由紀に小説を書くことを許してもらえた。
それは親子関係を改善する上で、とても大きな一歩だと言える。
しかしこれは、苺が抱える根本的な問題の解決にはなっていない。
彼女は姉にとらわれている。
これをまず解決しないからには、これ以上の進歩は難しいと蒼依は思う。
「この先も私は、姉の代わりとして生きていくしかないから……」
きっと苺の中で、母の存在はとても大きなものなのだろう。
その気持ちは蒼依もよく理解できる。
なぜなら蒼依や苺にとって、母の存在は残された唯一の家族なのだから。そんな母に求められるような人間に――そう思って我慢する苺の生き方は、多分間違ってはいないのだろう。
でも、これだけは伝えたかった。
「一人いるよ。ありのままの君を求めている人」
蒼依はそう言うと、自分自身を指さして見せた。
そして困惑する苺を真っ直ぐに見つめ、こう告げる。
「少なくとも僕は、ありのままの苺ちゃんで居てほしいと思ってる」
今語ったこれは、紛れもない蒼依の本心。
同情でも慰めでも何でもない。ずっとずっと温めていた蒼依だけの気持ち。
「どうして……?」
突然の告白に、苺は困ったように首を傾げた。
どうして。
必然のように返ってきたその疑問に対しての応えは、もう決まっていた。
「だって、好きだから」
「……っっ⁉」
「あの頃からずっと、苺ちゃんのことが」
ありのまま全てを打ち明けると、苺はその愛らしい瞳を丸めた。そのまましばらく見つめ合ううちに、彼女の顔が見る見るうちに赤くなっていく。
「苺ちゃんは、僕の初恋の人だから。でも、この町を離れて会えなくなって、僕は何とかして君を忘れようとしたんだ。そしたらまた会えて、僕は凄く嬉しかったんだよ」
蒼依はあの時の記憶を忘れてしまったんじゃない。
自分の意志で忘れようとした。
もう二度と会えないと思っていたから。大好きな人だったからこそ、思い出す度に辛かった。だから蒼依は自分の意志で、大切な思い出に蓋をしたのだ。
でも、もう一度会えた。
大好きな人と再会できたことは、蒼依にとってこれ以上にない喜びだった。
「少なくても僕は、ありのままの君でいてほしい」
正直な気持ちを伝えると、苺は頬を赤らめたまま俯く。
「どうして、どうしてお姉ちゃんじゃなくて苺なの……」
そして、絞り出すようにそんな問いを口にした。
「お姉ちゃんは泣かないし、落ち込んだりしないし、雷だって怖がらない。それに比べて苺は凄く子供で、臆病で……どうして大人なお姉ちゃんじゃなくて、子供の苺なの……?」
そう語る苺の横顔は不安に満ちていた。
きっとまだ、全てを信じ切れてはいないのだろう。
悟った蒼依は、その不安や疑念を晴らすくらい純な笑顔を浮かべた。
「それは苺ちゃんがたくさん泣いて、時には落ち込んだりして、雷を怖がる素直な子だからかな」
林檎がしっかり者の大人だったように、苺にも同じくらい良いところはたくさんある。
それに蒼依が惹かれてしまったのは、紛れもない事実。
これこそが蒼依の正直な思いだった。
「例え他の誰かが君を否定しても、僕だけはそんな君を肯定するよ。だって僕が好きなのは、他の誰でもない苺ちゃんなんだから」
未だ不安の色が抜けない苺の手を、蒼依はそっと握った。
「だからもう我慢なんてする必要ない」
蒼依が優しく笑いかけると、苺の瞳から大粒の涙が零れた。
色々な物を背負って、今までずっと独りで頑張ってきた。
辛かっただろう。心細かっただろう。でも、もう大丈夫。
「ずるいよ……昔から君は同い年なのに大人で……」
「こう見えても僕は、水城家の長男ですから」
「蒼依くんは一人っ子でしょ? 全然、これっぽっちも理由になってないよ……」
あはは、と、蒼依は誤魔化すように笑う。
「それに僕だけじゃなくて、クラスの人たちも同じだと思う」
「クラスの人たち?」
「みんな可愛くて、無邪気に笑う君のことが大好きなんだよ」
自分の気持ち、クラスメイトの気持ち。ここまで蒼依は、知り得る全ての想いで、ありのままの苺であることを肯定してきた。
でも、実際にそれを決めるのは、他の誰でもなく彼女自身。母に求められた大人な姿を貫くか、それとも本来の子供らしい姿で在るか。どちらにせよ、蒼依には苺を受け入れる覚悟があった。
「振る舞いがどうであれ、もう既に苺ちゃんの心は立派な大人だと僕は思う」
誰かの為に気を遣い、我慢だってできる彼女が、子供のはずがない。
「君は君のやり方でちゃんと大人になれていると思うから。だからもう、無理に林檎ちゃんの背中を追う必要はないんじゃないかな」
きっと天国の彼女だって、蒼依と同じことを言うと思う。
苺には苺の人生がある。
どうか彼女には、後悔の残らない生き方を選んでほしい。
そう思い応えを待つ蒼依に、やがて苺は子供らしい姿で言葉を紡いだ。
「言っとくけど苺、すんごーい甘えんぼさんだからね?」
「うん、知ってる」
「寂しくさせたらすぐに泣いちゃうんだから」
「それも知ってる」
「だからね、傍に居てくれないと困っちゃうんだよ?」
「大丈夫。君には僕がついてる。これからもずっとそれは変わらない」
愛らしさの溢れるその問に、蒼依は次々と頷いて見せる。
すると彼女は安心したのか、ついに心からの笑みを浮かべた。
「蒼依くんのおかげでようやく踏ん切りがついた」
その笑顔は背中にある太陽のせいかとても眩しくて。
あの頃の彼女と重なる、無邪気で可愛らしい笑みだった。
「じゃあこれから苺は苺らしく、素直に気持ちを表すことにするね」
笑顔の中、苺はそう呟いた――その刹那。
急につま先立ちになった彼女の唇が、無防備だった蒼依の頬に触れた。
「両想いなら遠慮する必要ないよね?」
「え……えぇっっ⁉」
あまりに突然の事態に、蒼依は驚き固まるしかできない。
苺にキスされたことももちろん驚きだが、まさか両想いだったなんて。
「ありがと、私を見つけてくれて」
未だ困惑が抜けない蒼依に、苺は満面の笑みでそう呟く。やがて、そっと蒼依の胸に寄り添った苺。蒼依は少し緊張しつつも彼女の想いに応える。
ギュッと抱きしめた苺の身体は、とても小さかった。
それは平均よりも小さい蒼依でも、容易に抱擁できてしまうくらい。
苺の温もりに触れたことで、蒼依の中にまた一つ、懐かしい思い出が蘇った。
あの時――遊具に隠れていた苺を見つけた時も、同じく蒼依は苺を抱きしめた。そして胸の中で涙を流す彼女はこう言ったのだ。『見つけてくれてありがとう』と。
今鮮明に、目の前の彼女があの頃の苺の全てと重なって、不意に蒼依から笑みが零れる。
「変わらないね、苺ちゃんは」
「蒼依くんこそ」
もし、この光景を林檎が見ていたら、なんて言うのだろう。
早く大人になりなさいって、怒られてしまうかもしれない。
「帰ろっか」
「うん」
でも、もう少しだけ。
もう少しだけでいいから、あの頃の自分たちのままでいたい。
そう思ってしまう自分は、きっと子供だったあの頃のままなのだろう。
蒼依が今触れている苺の手。
そして視界の隅で捉えたその頬は、僅かに高揚していた。
蒼依と苺の関係は、あの頃と同じ。でも、あの頃には無かった不思議な温もりを胸に、蒼依たちは手を取り一歩踏み出したのだった。
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