第9話 それぞれの一歩

 ついにこの日が来た。

 翌日、蒼依は原稿の入った分厚い茶封筒を手に自室を出た。


「よろしくね、蒼依」


「うん」


 ちょうど仕事に出ようとしていた千夏から、想いを預かる。

 そして少しの緊張を覚えながら、蒼依は晴天の下へと飛び出した。


 向かうのは、苺と約束したオフィス街近くの河原。千夏と同様に、ほとんど休みなく仕事をしているという美由紀は、土曜日の今日も出勤しているらしい。


 忙しいのを承知で、苺には美由紀のアポを取ってもらった。

 快くではないのだろうが、その返事はOK。どうやら昼休憩のタイミングで、少しだけ職場を抜け出してきてくれるのだとか。





「お母さん、来てくれるかな……」


 やがて苺と約束の場所で合流した蒼依。

 隣で不安を漏らす彼女を、蒼依は優しく元気付ける。


「大丈夫。きっと来てくれるよ」


 蒼依も蒼依で、千夏に今日のことを相談していた。

 来る来ないに関しては、きっと彼女が上手くやってくれると思う。


「それよりも、長内さんはもっと堂々としてなきゃ」


「堂々と……」


「こんなにも凄い作品書けたんだから。絶対上手くいくよ」


「う、うん」


 緊張と不安が入り混じる中、蒼依たちが待つこと数分。

 やがて二人の正面から、スラっと背の高い綺麗な女性がやってきた。


 きっとあれが苺の母なのだろうと、蒼依はごくりと息を飲む。

 やがて目の前で立ち止まったその女性に、苺は少し怯えたように言った。


「ごめんなさい、呼び出してしまって」


「別にいいわ。それで用事ってなにかしら」


 開口一番にそう言った美由紀は、とても冷たい表情をしていた。


 まるで感情そのものが欠落してしまっているような、自分たちではなく、まるでどこか遠くの物を見ているかのような。表情もさながら、向けられたその視線も冷たかった。


(この人が苺ちゃんのお母さん……)


 ある程度、覚悟は出来ていたはずだった。

 しかし、蒼依は一目で悟った。この人は想定以上に手強いと。


「で、そちらの子は……」


 ここで、不意に蒼依と美由紀の視線がぶつかった。

 その瞬間、美由紀は一瞬ハッと驚いたような表情の変化を見せたが、またすぐに元の感情希薄な顔に戻ってしまう。


 今のは、一体何だったんだろう。


「あまり時間がないから手早く済ませてほしいのだけど」


「う、うん。それなんだけどね」


 ここで、苺から目で合図を受け取った。

 それにうんと頷いて応えた蒼依は、手にしていた茶封筒から原稿を引っ張り出し、それを直接美由紀に渡した。


「どういうことかしら」


 原稿を手にした美由紀は、希薄だった表情をほんの少し歪ませた。


 たった一言なのに、そこから感じる圧は凄まじい。それは苺も感じているようで、蒼依から見る彼女の横顔は不安の色に染まっていた。


「お、お母さん」


 重く張り詰めた空気の中、遂に苺は口を開く。

 しかし、それに続く言葉がなかなか出てこない。


(頑張れ、長内さん)


 心でそう呟いた蒼依は、震えていた苺の手をそっと握った。

 すると苺は一瞬ハッとした顔で蒼依を見やり、やがて決心したように頷く。


「お母さん、これ、私が書いた小説なの」


「それで」


「以前お母さんに捨てられてしまったものを、もう一度書いてみたの」


「それで」


「それで思ったの。私はやっぱり本が好きだって。物語が大好きだって」


 苺の言葉には確かな熱を感じた。

 そこに先ほどまでの不安や緊張の面影はない。


「他の何を諦めてもいい。だけど物語だけはどうしても諦められない」


 今の苺はありのままの自分をさらけ出している。

 自分自身の力で一歩前に踏み出そうとしている。


「これが私の正直な気持ち」


 ずっと我慢していたのだろう。

 少なくとも蒼依は、苺がそうしていたことを知っている。


 姉のようにならなければと本来の自分を押し殺し、周りに求められる長内苺であろうとし続けてきた彼女には、ありのままの自分を感じられる何かが必要だった。


 そして、その何かが物語なのだろう。

 どうかそれだけは、彼女から奪わないであげてほしい。たった一つの心の拠り所として、彼女の元に置いてあげてほしい。





 悠久かと思えるほど、長い長い沈黙が場を満たす。

 苺が最後に言葉を発してから、どれくらいの時間が過ぎただろうか。


 美由紀からの返事はまだない。

 だからと言って、原稿を読んでいる様子もない。


 苺の想いは無事届いたのだろうか。

 それに対する返事は……


 焦りから生まれた思考が脳裏に浮かび、やがて根拠のない期待と変わった。


 しかし――それら全ては、美由紀から出た一言により呆気なく消えたのだった。


「またこんなくだらないことを」


 それは、あまりにも冷たい言葉だった。

 さては呆れているのだろうか。険しい顔でため息まで溢している。


「言ったはずよ。あなたにこんなものは必要ないと」


 そして、次の瞬間だった。

 ビリッと、紙を割く不快な音が鳴り、苺が書いた原稿は瞬く間に真っ二つに。


 真っ二つだけでは済まされない。

 美由紀は原稿を破り、破り、破り、やがてはばら撒くようにして宙に投げ捨てた。


 破かれて小さくなった原稿の破片が、ひらひらと宙を舞って――そして吹き抜けた風によって、決して手の届かない場所まで飛んで行ったのだった。


 一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 目の前で起きた映像だけが事実として脳に飛び込んできて、そのあまりにも衝撃的な光景に言葉を失った。何も理解できないまま、蒼依はゆっくりと苺に目を向ける。


「……っっ」


 そこに居た苺は、もう先ほどまでの前向きな彼女じゃなかった。


 絶望。

 そう捉えざるを得ない姿を前に、蒼依はようやく現状を正しく理解する。


 苺が一生懸命に書いた原稿を美由紀は破り捨てた。

 しかも、一切の躊躇いもなく。


「何やってるんですかっ‼」


 いつしか大声を出していた。

 一度は真っ白になっていた蒼依の頭に浮かんだのは、怒り。それも自制が効くほど小さなものじゃない。沸き上がる怒りが言葉となって、蒼依の口から次々と飛び出す。


「苺ちゃんが一生懸命書いた原稿なのに! どうして!」


「苺にこんなものは必要ない。だから捨てたのよ」


「必要ないわけがない! 苺ちゃんは本が大好きなんですよ⁉」


「好きだから何だと言うの。そんなものは勉強の邪魔になるだけよ」


「……っっ‼」


 蒼依がいくら訴えかけようとも、美由紀は表情一つすら変えなかった。


 まるで鉄のお面でも被っているかのようだ。

 この人には感情がないんじゃないだろうか。そう思ってしまうほどに美由紀は無慈悲で、ここまで積み上げてきた蒼依たちの努力を、容赦なく踏みにじったのだった。


「長内さん!」


 ずっと俯いていた苺は、いよいよ逃げるようにどこかへ行ってしまった。


 きっと耐えられなくなったのだろう。

 当人じゃなくとも、その苦しみは痛いほど理解できる。


「酷いじゃないですか、破くなんて……」


 蒼依はグッと拳を握りながら、地面に向かって呟いた。


 千夏は言っていた。

 本来の美由紀はとても優しい良い人なんだって。でも、大切な娘に先立たれてしまったことで、自ら悪人を演じているんだって。今は千夏のその言葉を信じるしかない。


「こんなこと……本当は望んでないんじゃないですか?」


「何を、言っているのかしら」


 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ鉄の仮面が歪んだ気がした。


 でもやはり根本は変わらない。

 感情希薄で冷酷。向けられたその目は虚無で、そしてあまりに不憫だった。


「僕は苺ちゃんを追いかけます」


「そう」


「お母さんはどうするんですか」


「そんなの仕事に戻るに決まって――」


「これが最後かもしれませんよ」


「……っ」


 どれだけ冷たい人でも、蒼依は引くつもりはなかった。だって母に頼まれているから。ここで引いたら一生後悔すると、わかっているから。


「必ず苺ちゃんを連れて来ます。これからどうするか、どうするべきか、あなたが決めてください」


 そう言い残して、蒼依は苺の後を追った。




 *  *  *




 ようやく前向きな気持ちになれたはずだった。

 それは全部、蒼依のおかげ。蒼依が居たから、自分に正直になる勇気が湧いた。蒼依が居たから、もう一度自分だけの物語を作りたいと、そう思えた。


 それくらい苺は、あの作品に懸けていた。

 もはや自分の分身と言っても過言ではない作品だった。


 でも、それはもうない。

 また捨てられてしまった。


 原稿を破る美由紀に、迷いや躊躇いは無かったように思う。

 つまりはそういうことなのだろう。


 美由紀にとって、長内苺とはその程度の存在なのだ。

 きっと彼女が求めているのは、長内林檎であり自分じゃない。そんな事実が脳裏に渦巻いてごちゃごちゃになって、気づけば苺は逃げるようにして走り出していた。


「……」


 慌てて逃げ込んだそこは、妙に懐かしい場所だった。

 公園のドーム型の遊具の中。その薄暗い場所で、苺は独り蹲っている。


 蒼依のおかげで、ずっと書けなかった結末をようやく書き上げることが出来た。作品の中であの双子の王女は、どちらも命を落とすことなく、幸せな結末を迎えたのだ。


 それは、『ヒーロー』の存在があったから。


 対立していた帝国の王子が、争いを収める為にと覚悟を決めて王国へとやってくる。そして姫と婚約することで、激化する民の暴走を収め、同時に二つの国の国交を受け持った。


 一見ご都合主義で、作品として完成されているとは言えない結末なのかもしれない。


 でもこの結末は、ハッピーエンドが大好きな苺にとって、一番納得のできる幸せな結末だった。


 双子の姫の妹は、やって来た帝国の王子と結ばれ王国の女王に。

 双子の姫の姉は、友好の証として帝国に嫁ぎ帝国の王妃に。


 妹が王国に残る中、姉は帝国へと旅立つ。離ればなれになってしまった姉妹だが、生きてさえいればきっといつか、また会うことが出来る。そう信じた二人は、笑顔で別れの時を迎えた。


 結局最後まで彼女たちは、争いを収めるために利用される政治の道具だったかもしれない。


 でも、同じく平和を謳う相手国の王子の登場で、命を落とさない結末を迎えることが出来た。


 ヒーローが現れたから、物語の王女たちは幸せになれた。

 姉は姉として、妹は妹として生きることを許されたのだ。


 しかし――苺には、自分を救ってくれるヒーローはいない。自分らしく生きることは許されないし、それはつまり幸せになることもないということ。


 事実として、美由紀はそんな長内苺を求めてはいない。

 そこにハッピーエンドな結末なんて、存在しないのだ。


 突然、頭に針で刺されるような痛みがはしった。

 また自分は、髪の毛を抜いてしまっているのだろう。このまま髪を抜く手を止めなかったら、いつかは自分という存在が消えて、林檎になれるのだろうか。


 いや、きっとなれないだろう。

 自分が消えた先にあるのは、林檎ではない。そして自分でもない別な何か。そこにあるのは、美由紀が求める娘の姿でも、苺のなりたい自分でもない。


「もう疲れたよ……お姉ちゃん……」


 嘆くような声が遊具内に小さく響いて、そしてすぐに消えた。

 このままここでじっとしていたら、この辛い現実から逃げられるだろうか。


 もし逃げられるのだとしたら、その結果、自分という人間が消滅してしまっても構わない。


 そう思ってしまう今の苺は、中身がスカスカで何もない、ただの抜け殻だった。






「……さん、いこう! 長内さん!」


 暗闇に落ちかけていた意識の中に、自分を呼ぶ声が聞こえた。


「いこう! 長内さん!」


 俯けていた顔を上げると、そこには懐かしい人影があった。

 太陽の光と重なるその人は、真っ暗な世界に居た苺にとってはあまりにも眩しくて、ついつい目を細めてしまう。


 徐々に徐々にはっきりしていくその輪郭。

 やがて苺の手を取ったその人――必死な表情を浮かべる蒼依は力強く言った。


「戻ろう! そしてもう一度、お母さんに素直な気持ちをぶつけるんだ!」


「でも……」


「さあ、行くよ!」


 グイっと蒼依に手を引かれて、苺は浮かぶように立ち上がる。

 さっきまで暗闇だったはずの世界は、一瞬にして明るく色づき。それに伴い心を蝕んでいた負の感情が、見る見るうちに薄れていくのが自分でもわかった。


「君なら大丈夫! やれるよ苺ちゃん!」


「……っっ」


 慰めと共に力強く手を引く蒼依の背中は、まるで王子様のようだった。



 * * *



 先ほどの場所に戻ると、なんとそこには美由紀の姿があった。


 どうせ仕事に戻ったのだろうと、そう思っていた。

 でも、未だに母はここに居る。

 その事実は、苺にとっては驚きでしかなかった。


 もしかしたら、自分が戻ってくるのを待っていてくれたのかもしれない。

 そんな根拠のない期待が心のどこかで湧いて、ほんの少しだけ嬉しかった。


「約束通り、苺ちゃんを連れてきました」


「そう」


 荒い息の中、蒼依は美由紀にそう言った。

 約束通り、ということはつまり……蒼依が母を引き留めたということだろうか。


 未だ状況が掴めていない苺。

 すると蒼依は、手にしていた茶封筒に手を入れた。


「はい、これ」


「えっ……これって」


「長内さんの原稿。もちろん本物だよ?」


 蒼依が茶封筒から取り出したのは、紛れもなく苺が書いた原稿だった。

 でもそれはついさっき、美由紀の手によって破り捨てられてしまったはずだ。


「よかった。代わりの原稿を用意してて」


「代わりの原稿……?」


 困惑から苺が首を傾げると、蒼依は小さく頷いて続ける。


「うん、うちのお母さんがね。美由紀は真面目そうに見えて、時々信じられないようなことをするんだって。だから本命を渡す前に、何があっても大丈夫な原稿を渡せって」


「水城くんのお母さんって……」


 まさかと思った苺は、美由紀の顔を見た。

 するとその顔には、普段はあまり見せない焦りがあった。


「千夏……」


 険しい顔で呟いたその名前。


 そういえば、美由紀本人から聞いたことがあった。

 似た境遇で、ずっと付き合いのある同僚が居ると。

 まさかそれが蒼依の母だった、ということなのだろうか。


「あとはお二人に任せます」


 そう言うと蒼依は、苺と美由紀を交互に見た。

 唐突に立たされた勝負の場。気持ちの整理が追い付かず、ついつい苺は後ずさりをしてしまう。


 でも、今しかないと自分を奮い立たせ、もう一度その原稿を美由紀に差し出した。


「お願いします」


「……」


 美由紀は難しい顔を浮かべていたが、それでも原稿を受け取ってくれた。そして今度はちゃんと、中身を読んでくれているようだ。





 まるで無限のような時間だった。

 美由紀が原稿を捲る度に、そこはあの場面だと、頭の中で映像を思い描く。一枚、そしてまた一枚と原稿が捲られていくその間、一体何度息を飲んだかわからない。


 十分、十五分。

 無限かと思われたその時間は、思いのほかあっという間に過ぎていった。

 そして張り詰めたような沈黙に、等々終わりが訪れる。


「お母さん……?」


 困惑した苺が呼びかけると、顔を上げた美由紀と目が合った。


「どうして泣いてるの……?」


 指摘すれば彼女は、自覚のない様相のまま、おもむろにその指を目元に触れさせる。


「……っっ‼」


 そして、ハッとして小さく肩を弾ませたのだった。


 意味が、わからなかった。

 初めて目にする母の姿を、苺はただただ眺めるしかできない。


 どう声を掛けたらいいのだろう。

 その涙の理由は、一体何なんだろう。

 そうして苺が言葉に迷っていると、それを察したのか、蒼依は代わりに尋ねた。


「どうでした。苺ちゃんの作品」


 美由紀の頬を絶え間なく涙の雫が伝っている。ポツリ、ポツリと、それが三度ほど原稿に滴り落ちたその時――涙で歪むその瞳が、困惑する苺の瞳とぶつかった。


「どうって……」


 そして――美由紀は絞り出すようにこう呟いた。


「こんなの泣いてしまうに決まってるじゃない……」


 希薄だったはずのその表情は、溢れる涙と感情でぐちゃぐちゃに歪んでいる。


 林檎が亡くなった時も泣かなかった。そんな母が今目の前で泣いている。

 長内苺のありのままを記した作品で。あの冷たい母が涙を流してくれた。


「お母さん……」


 じんわりと目の上が熱くなっていくのがわかる。

 気づけば視界は歪んでいて、生暖かい何かが、苺の頬を絶え間なく伝った。




 *  *  *




 涙を流す二人に、それ以上の言葉は無かった。

 でも、そこには確かにあった。欠けていたかと思われた親子の絆が。


「ずるいわよ……」


 やがて美由紀は絞り出すように呟いた。


「こうなるってわかっていたから、だから目に入らないようにしていたのに」


 そう言ってチラリと蒼依に視線を向ける。


「あなたも、そして千夏も、どうしてここまでするのよ……」


 そんな美由紀の感情的な姿を前に、蒼依は思った。

 きっとこの人は、好きで苺を縛っていたわけじゃないんだと。

 彼女は彼女なりの考えがあって、そうしていたのだろうと。


「はぁ……まったく、親子揃ってお人よしなのね」


 長いため息を吐いた美由紀は、手の甲で零れ出る涙を拭った。


 そして浮かべるのは、先ほどと同じ神妙な表情。

 でも、その目はほんの少し腫れて、涙の後が伺えた。


「いいわ。今回は私が折れることにしましょう」


「それって……」


「書きたいなら書きなさい。事実あなたには物書きとしての素質がある」


 そう言うと美由紀は、手にしていた原稿を掲げる。


「ただし」


 そして安心したように顔を綻ばせた苺に、鋭い視線をぶつけた。


「それ以外は今まで通り。私の言うことを聞きなさい」


「……っっ」


「それが出来ないと言うなら、小説を書くのも読むのも許しません」


「わ、わかったよ、お母さん」


 どこまでも厳しい美由紀の言葉に、苺はしぶしぶといった様子で頷いた。


 一度は改善されると思われた二人の関係だが、どうやらそう簡単にもいかないらしい。


「ひとまずこの原稿は返すわ」


 原稿を差し出しながら、美由紀は続ける。


「どうせやるなら一番を目指しなさい」


「一番……」


「それでいつまでも結果が出ないようならきっぱりやめること。以上よ」


 提示されたその条件は、あまりにも厳しいものだった。

 でも、苺に屈する様子はなく、逆に食って掛かるような姿勢でこう呟く。


「やめない……私絶対にやめないから」


「なら、そうならないように頑張りなさい」


 ようやく、二人の会話が対等なものになった気がした。

 と、ここで美由紀の視線は蒼依の方へ。


「蒼依くん、だったかしら」


「は、はい」


 視線がぶつかってからしばらく、謎に無言な時間が続いた。


 一体何を言われるのだろう。

 蒼依が身構えたその時、美由紀はその口元を小さく緩ませた。


「大きくなったわね」

「えっ……」


 予想外の一言に全身の力が一気に抜ける。

 今、蒼依の目に映る美由紀の姿は、これまでとは比べもにならないほどの優しい雰囲気を纏っていて、そこには確かに千夏のような、母親としての思いやりがあった。


「それじゃあ、私は仕事に戻るわ」


 蒼依が呆気に取られている中、美由紀は平然と言った。

 そして、蒼依の横を通過するその時――


「どうかうちの娘を傍で見守ってあげて」


 小さくそう呟いて、彼女は去って行ったのだった。




 *  *  *




 いつもはあっという間に過ぎ去る昼休憩だが、今日はやけに時間の進みが遅かった。


 デスクでカップ麺を啜っていた千夏は、チラリと壁掛けの時計を見やる。


「はぁ……」


 そして、何度目かもわからないため息を吐いた。

 昼休憩の初めに美由紀を見送ってから、ずっとこの調子。


「大丈夫かねぇ……」


 できる限りの助言はしたつもりだった。

 蒼依もやる気に満ちていたようだし、きっと大丈夫だとは思う。


 でも、相手はあの美由紀だ。

 この間腹を割って話して改めて、彼女には確固たる意志があることがわかった。何を言われようと変わらないのだと、ハッキリと言葉にもしていた。


「ったく、昔から頑固だよ、美由紀は」





 それからしばらくして、美由紀はオフィスへと戻ってきた。

 視界の隅でそれを捉えただけで、彼女の顔はまだ見ていない。


 少しの緊張を胸に彼女が傍に来るのを待ち、やがて隣のデスクに腰を下ろしたのを横目で確認してから、千夏は意を決して声を掛けた。


「どうだった」


「何の話かしら」


「とぼけなくてもいいさね。娘たちに会って来たんでしょ?」


「なぜあなたがそれを……?」


「うちの息子から聞いたんだ」


 声を掛けた側である千夏も、そしてそれに応える美由紀も、互いが互いに目を合わせようとはしなかった。


 千夏はオフィスの天井を、美由紀は目の前のPC画面だけを見つめている。


「で、娘が書いた原稿はどうだったさね」


「どうもこうも、別に普通よ。素質はあるけどまだまだ未熟ね」


「てことは、ちゃんと読みはしたんだね」


「……」


 美由紀からの返事に、とりあえずホッとする千夏。

 読まれない可能性を考えていたから、それは避けられたようでよかった。


「あなたも一枚噛んでいたのね」


「そりゃ、息子が頑張ってるんだ。母親なら当然応援するさ」


「そのせいで原稿を破り損ねてしまったわ」


「やっぱり破ったのかい……」


 平然とそう語る美由紀に、千夏は呆れたようにため息を溢す。


 彼女なら必ずやると思っていた。

 というのも美由紀は高校時代に、貰ったラブレターを容赦なく破るという、常人では考えられない行動を取ることで有名な生徒だった。


 そのくせ見てくれが良くモテるから、男子の間では、惚れたら負けの『魔性の女』なんて、良いのか悪いのかわからないあだ名まで定着していたりもした。


 そういう過去も踏まえて、蒼依にダミーの原稿を作らせたわけだが。どうやら正解だったらしい。


「変わらないねぇ、美由紀は」


「そういう千夏も相変わらずのお節介ね」


 懐かしさから小さく笑う千夏に、美由紀は淡々と続ける。


「でも、そのおかげで少しは理解したわ」


 ここで初めて、千夏は美由紀の方へと視線を向けた。

 その横顔を一目見たその瞬間――千夏の中にあった複雑な感情が一気に晴れる。


「美由紀……あんたその目……」


「……っっ‼」


 指摘すると、慌てて顔を逸らす美由紀。

 今、千夏が捉えた彼女の目は、明らか不自然に腫れていた。


 それはきっと――


「そうかい」


 美由紀を見送ってから、ずっと気が気じゃなかった。

 でも、彼女の普段とは違う感情に溢れた瞳を見て、ようやく心の底から安堵できた。


「よくやったよ、蒼依」


 椅子の背もたれに寄りかかり、真っ白な天井に向けてポツリと呟く。


 きっと、今ある問題の全てが解決したわけではない。

 相変わらず堅物な美由紀の態度を見てそれはわかった。


 だが事実としてあるのは、あの美由紀を涙させたということ。胸の奥底に隠されていた感情を引き出したということ。


 この事実は彼女にとっても、そして苺にとっても、きっと大きな変化を与えてくれると思う。


「やっぱり、子供ってのは凄いね」


「いきなり何よ」


「いいや、なんでもないさ、何でも」


 千夏の力では、どうすることも出来なかったこと。

 それを自分の意志で成し得たあの子は、やはり誇りだと、そう思う千夏だった。

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