第8話 水城蒼依は振り向かない

 時刻は夜の九時。蒼依は独り自室で机と向き合っていた。

 机に広げられているのは、苺が書いた小説の原稿用紙。


「よしっ、誤字とかは大丈夫そう」


 家に帰って来てから、もうすでに三度は見返している。


 というのも、明日はいよいよ苺の小説を母に読んでもらう日。その為に、図書室に保管していた原稿を持ち帰ったわけだが。


 そもそもなぜ、蒼依が苺の原稿を持ち帰る必要があったのか。

 それは考えうる最悪を考慮してのことだった。


 苺本人が持ち帰って、また以前のように捨てられてしまったら。そうなってはいけないので、今日一日、蒼依が原稿を預かり、明日無事に苺へと届けるという流れになったわけだ。




「蒼依、帰ったよ」


 念には念を入れて、四度目の読み返しをしようとした蒼依。突然聞こえたその声で振り返ると、部屋の入り口にはスーツ姿の千夏がいた。


「遅くなってごめんね」


「ううん、平気だよ」


「お腹空いたでしょ。お惣菜買ってきたからご飯に……」


 すると千夏は、驚いたように目を丸くした。


「勉強でもしてたのかい?」


「ううん、そういうわけじゃないんだけどね」


 机に座っている蒼依が珍しかったのか、千夏はとてとてと部屋に入ってくる。

 そして蒼依のすぐ後ろに立つと、興味深そうに机を覗いた。


「原稿?」


「そう、友達が書いたんだけどね」


「友達って……」


「長内さん。長内苺さんだよ」


「ああ……」


 蒼依が言うと、千夏は何かを察したのか苦笑いを浮かべる。


「話したんだね、あの子と」


「というよりも、元々図書委員で一緒だったんだよね、僕たち」


 すでに知り合っていた事実を前にしても、千夏に驚いた様子はなかった。ただじっと、苺の書いた原稿を見下ろしている。


「物語が好きなのかい? 苺ちゃんは」


「うん、ずっと本を読んでるよ。お母さんには怒られちゃうみたいだけど」


 続けて蒼依は、思い立ったように言った。


「この間、長内さんの家に行ったんだ。でも、部屋には参考書しかなかったよ」


 これを千夏に言ったところで、何も変わらないのかもしれない。


 でも、蒼依は共感してほしかった。

 好きなことを好きでいさせてもらえない環境が、どれほど辛いことなのかを。


「どうして蒼依は、苺ちゃんの原稿を持ってるんだい?」


「読んでもらうんだよ、長内さんのお母さんに」


「美由紀に……?」


「みゆき……?」


 蒼依が繰り返せば、千夏はハッとして目を泳がせる。


「ああいや、実はあたしら職場一緒なんさ」


「えっ、そうなの?」


 そして誤魔化し笑いを浮かべると、驚きの事実を口にしたのだった。


「美由紀とは高校からの腐れ縁でね。似た境遇だからってよく話すんだよ」


 そういえば以前、苺も母と二人暮らしだと言っていた。

 そういう意味では、確かに蒼依と苺の家庭は似ている。


「だからお母さんは、長内さんのお姉さんが亡くなったこと知ってたんだ」


 事情は会社の同僚から聞いたと言っていた。

 職場が一緒で尚且つ高校の同級生ともなれば、耳に入るのも納得が出来る。


「ごめんね、別に隠してたつもりはなかったんだよ」


「うん、わかってるよ。全部僕の為を思ってだよね」


 林檎が亡くなったという事実も、千夏は自分からは言い出さなかった。


 それはきっと、彼女なりの気遣いなのだろう。

 きっといろいろなことを考慮してくれたのだ。

 母はそういう人だと、蒼依はちゃんと理解していた。


「蒼依は偉いね。逃げずにちゃんと向き合えてさ」


「お母さんだって、ずっと独りで向き合ってきたはずでしょ?」


「あたしは違うさ。助け合うって決めたのに、美由紀を見捨てちまった」


 そう溢す千夏の表情は、珍しく落ち込んでいた。


「今日だって美由紀の前で泣いちまってさ」


「泣いた……? お母さんが……?」


「ほんと情けない話さね。泣きたいのは美由紀のはずなのに」


 あの母が人前で泣いた。

 それは蒼依にとって、想像すらできない出来事で。同時に千夏が抱えている物が、どれだけ大きなものなのか、今、少しだけわかってしまったような気がした。


『助け合うって決めたのに、美由紀を見捨てちまった』


 千夏は弱った声音でそう言った。

 その言葉から感じたのは後悔。きっと千夏は何かを悔いているからこそ、美由紀の前で涙を流した。そしてその後悔の原因は、林檎の死に関係しているに違いない。


 蒼依と苺、そしてその母である千夏と美由紀。

 今まで何の関係もないと思われていた二つの家族は、蒼依が想像していた以上に、大きな何かで繋がっているのかもしれない。


 大切な親友が家族を失った。

 これは蒼依だけの痛みじゃない。千夏もそうなのだろう。


 つまり今の蒼依と千夏の想いは同じ。

 林檎の死で大きく変わってしまったあの二人の関係を、どうにかして元に戻したい。その為に、自分のできることを精一杯やりたい。


「大丈夫だよ、お母さん」


 これまでずっと、蒼依は強い母に守られてきた。

 でもその母は今、何か大きな後悔に苛まれている。


「僕が何とかしてみせるから」


 だったら今度は、自分が母を守る番だ。

 もし失敗してしまったら、という不安が無いと言えば噓になる。


 でも、それ以上にやらなければいけないと思った。


 ここまで来て引き返す気は更々ない。

 覚悟はもうとっくに出来ている。


 ここにある苺の原稿を最高の形で美由紀に届ける。

 それが蒼依のやるべきことだ。


「この原稿は僕たちで精一杯作った原稿なんだ。まあ、書いたのは長内さんなんだけど」


 蒼依は広げた原稿にそっと手を置いて、千夏に笑いかけた。


「だからきっとこれを読めば、長内さんのお母さんだって納得してくれる」


「そう上手くいくもんかねぇ……」


「いくよ。きっと上手くいく。少なくとも僕はそう信じてる」


 前向きに語る蒼依だったが、それでも千夏は不安げだった。


 それもそうだろう。

 付き合いが長いならば、苺の母がどんな人物なのかよく知っているはずだから。母親にしかわからない何かが、きっとそこにはあるのだと思う。


 それに一度、原稿を捨てられてしまったという事実もある。

 読んでもらえる可能性は五分五分、いや、もしくはそれ以下かもしれない。でも、ほんの僅かでも読んでもらえる可能性が在るのだとしたら、それに懸けたい。


 読んでもらえさえすれば必ず上手くいく、と、蒼依には確かな自信があった。

 だって苺の書いた小説には、人の心を動かす力があるのだから。


「わかった。そこまで言うなら信じるさね」


 蒼依の想いが伝わったのか、千夏は朗らかに笑った。


「息子がここまで言うんだ。親なら信じなくてどうするさ」


 そう言うと千夏は、蒼依の頭にポンと手を乗せる。


「蒼依の好きなように、やりたいようにやってみなさい」


「うん」


 千夏の思いやりに溢れたそれは、不安と隣り合わせだった蒼依の心を優しく包み込んだ。


 優しくて強い自慢の母だと、改めてその人間性に感銘を受ける蒼依だった。


「でも、一つだけあたしの助言を聞いてくれないかい」


「助言?」


「そうさ。勝負に勝つための備えみたいなもんさね」


 そう言うと千夏は、蒼依の耳元にグイっと口を寄せた。

 そしてニヤリと悪戯な笑みを浮かべ、小さく耳打ちする。


「実は美由紀は高校時代ね――」


「えっ」


「だから何かを渡す時には――」

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