第7話 水城千夏と長内美由紀

 新築の建物ばかりが並ぶオフィス街、その一角。


 ひと昔前から外見変わらず残っているそのビルは、とある広告代理会社の地方支部であり、蒼依の母――千夏の職場でもあった。


 会社全体を通した社員数は約千人ほどであり、この地方支部にはその中の百人ほどが在籍し、主に所属する地域に向けた事業を手掛けている。


「たはぁ、やっぱこっちのPCポンコツだわさぁ」


 デスクで作業に追われていた千夏は、頭を抱えながらぼやいた。


「本社のはもっと快適だったのにさ、結局田舎は田舎ってことなんかねぇ」


「PCに都会も田舎も無いでしょう」


「いやいや、本社のPCすんごかったのよ。これの三倍は処理が速かった」


「単純に新しいものだったってだけよ。ここのはもう十年は使ってる」


 文句を垂れる千夏を諭すように、デスクが隣の美由紀は言った。


「確かあなたが転勤したすぐ後だったわね。PCを一新したの」


「十年かぁ。随分と早いもんだねぇ」


 千夏は背もたれに寄りかかり、オフィスの天井を仰いだ。


 十年、それは長いようで驚くほどにあっという間だった。

 まだ蒼依が小さかった頃、上司の頼みで本社に転勤することになったあの時。まだ若かった千夏は、ここを離れて都会に住むことに何の躊躇も迷いもなかった。


 蒼依が生まれて間もなくして夫が死に、二人きりになった家族。あの頃の千夏にあったのは、蒼依さえ居てくれればいいという母親として当然の、でも少し身勝手な願いだった。


 だからこそ住む場所にこだわりなどはなかった。

 でもいざ転勤を決めると、一度もわがままを言わなかった蒼依が、駄々をこねるように泣いたのだ。理由を聞けば、友達と別れたくなかったのだという。


 蒼依に友達が居るのは知っていた。

 でも、きっと都会に出ても友達くらいまたできるだろうと、心のどこかで思っていた。


 だから蒼依を言いくるめて、千夏は本社への転勤を選んだ。

 生きてさえいれば、またその子たちとも会える。

 何度も何度もそう言い聞かせて。


 しかし、その言葉は嘘に変わった。

 亡くなったのだ。蒼依の友達だった女の子が。


 それを会社伝で聞いた時、千夏はこれ以上にない後悔をした。

 後悔して、後悔して、後悔して……蒼依に真実を伝え、謝ろうと思った。

 でも、どうしても伝える勇気が出なくて、結局は真実を言えないままだった。


「林檎ちゃん……だっけ、美由紀のとこの長女」


「……何よ、いきなり」


「話を聞いた時は本当に驚いたさね。まさかこんなにも身近な子がって」


 地元である地方支部に戻って半年。

 何かと避け続け触れようとしなかった話題を、千夏は意を決して口にした。


「辛かったろうねぇ……」


「いきなり何を言い出すの」


「あたしだってこんなに辛いんだ。母親のあんたはもっと――」


「いい加減にしてちょうだいっ!」


 天井を見上げながらの千夏の言葉を、美由紀は大声で上書きした。それは静かなオフィスの隅まで響き、作業していた社員たちが一斉に振り返る。


 一瞬ハッとしたような顔をした美由紀は、小さく息を吐いて席に着いた。

 そして何事もなかったようにPCへと視線を戻す。


「今は仕事中よ。関係のない話題は避けて作業に集中しなさい」


「仕事で気を紛らわしながらでもなければ、こんな話題、面と向かって話せないさ」


 千夏の心には、ずっと引っ掛かっているものがあった。

 それは蒼依に対する後悔とはまた違うもの。


「妹の、苺ちゃんだっけ。あの子は大丈夫なのかい」


「……」


 続けて聞いたが、美由紀からの返事はなかった。

 きっと本人も触れてほしくない話題なのだろう。


 千夏とて、それは重々承知の上だった。

 高校からの付き合いで、尚且つ同じシングルマザーでもなければ、ここまで深入りはしなかったと思う。


「まあ、これ以上話したくないなら無理には聞かないけどさ」


 千夏はそう言って、当時の姉妹のことを振り返る。


 とても仲がいい姉妹だった。

 それは今でもはっきりと覚えている。


 姉の林檎は歳の割に大人びていた。

 それに対して妹の苺は、どこか見ていて不安になる子だった。


 いつか転んでしまうんじゃないか。

 うっかり頭をぶつけてしまうんじゃないか。

 公園で遊ぶのを眺めていていた時は特に、ついついその動向を目で追ってしまっていた。


 だからこそ、姉である林檎が亡くなった今、苺が大丈夫かと気が気でならない。


 とはいえ、彼女だってもう高校生。

 ある程度は自立できているとは思うが。


「あの子にはもうあんたしかいないんだから、ちゃんと見ててやるんだよ」


 心にある不安から、どうしても言葉にせざるを得なかった。

 千夏が横目で美由紀を見れば。そこに居た彼女は、感情希薄だった顔を歪ませた。


「そんなの言われるまでもない」


 そして、吐息のように冷たい声音でそう呟く。

 やけに力の入ったその言葉からは、彼女の心をまるで感じない。


「あの子は、苺は、昔とは違う」


「それは成長したってことかい?」


「そんな悠長なものに頼るわけがないでしょう。あの子は私が変えたのよ」


 美由紀のマウスを握る手にグッと力が入る。


「今のあの子は子供じゃない。子供のままなんて、私が許さない」


 その言葉からは、強い信念のようなものを感じた気がした。


 でも、相変わらず情はない。

 まるで機械が生み出した子育て文句のようだった。


「具体的にはどこをどう変えたんだい」


「全てよ。あの子の全てを完璧にした」


 千夏はほんの少しだけ、今の二人の関係がわかったような気がした。


 きっと彼女も母として、何としても苺だけは守りたいのだろう。

 自分だって、彼女と同じ立場だったらそうするのかもしれない。


「二度と同じことを繰り返さない為に、私があの子を大人にしたのよ」


「まあ、それも一つのやり方なのかもしれないけどさ」


 でもそれで、子供の自分らしさまで奪ってしまったとしたら。

 果たしてそれは、正しい教育と呼べるのだろうか。


「少しは自由にさせてあげてもいいと思うけどね」


「そんなのダメに決まってる」


 何を言おうと、美由紀の意志は揺るがなかった。

 娘を一人失っているのだから、当然と言えば当然だが。


「私はもう間違えない。絶対に」


「美由紀……」


 彼女の意志が確固たるものだからこそ、千夏はこう思ってしまった。


 あまりに不憫だと。

 厳しくせざるを得ないくらいに、美由紀は追い込まれているのだろう。


 彼女をここまで追い込んでしまったのは、間違いなく林檎の死だ。

 しかし、それだけに収まらないことは、千夏も痛いくらいに理解していた。


「ごめん、美由紀」


「えっ……」


 千夏の腹の中で後悔が増幅し、押し出された謝罪の言葉が口から洩れた。

 急な謝罪の言葉に、美由紀は呆気にとられたように目を丸くする。


「一人にして、ごめん」


「なぜ、あなたが謝るの」


 大切な娘を亡くし、千夏が戻ってくるまでのこの数年、美由紀はずっと独りだった。


 心が張り裂けるほど辛いはずなのに、本当は声を上げて泣きたいはずなのに。苺だけは守らなければならないと、きっと心を鬼にして教育をしたのだろう。


 娘を失った痛みも、苺を守るという責任も、美由紀は全てを独りで背負ったのだ。


「せめてあたしが、あんたの傍に居られれば……」


 それは決して簡単な覚悟で務まるような役目じゃない。美由紀のした苦労が痛いくらいにわかるからこそ、千夏は自分のした選択を悔やむしかなかった。


 軽い気持ちで決めた本社への転勤が、まさかこれほど大きな後悔を生むだなんて。もし叶うのならあの時に戻りたいと、千夏は何度も何度も願った。


 でも、過ぎてしまった時間はもう戻らない。

 美由紀は娘を失ったという事実を一生背負って生きていくのだ。


「なんて愚かな選択をしたんだろうね、あたしは……」


 オフィスの天井を仰ぐ千夏の瞳から、意図せず涙が零れ落ちた。


 それは止めようと思っても止まらなかった。

 後悔が生んだ悲しみがどんどん溢れてきて、頬を濡らす。


「息子を泣かせただけじゃなく、あんたとの約束まで破っちまった……」


「……」


「辛い時は互いに助け合うって、あたしから言い出したのにさ……」


 千夏と美由紀には、それぞれ夫という存在が居ない。

 共に家庭を支えられる相手が居ない分、お互いがお互いの力になろうと。困った時には支えあって、二人で幸せな家庭を築こうと。そんな約束を交わした。


 親友としてその言葉に偽りはなかった。


 でも千夏は、美由紀が一番苦しい時に傍に居てあげられなかった。

 美由紀に全てを背負わせてしまった。


「別にあなたは悪くないでしょ」


 後悔に苛まれている千夏に、美由紀はあくまで冷静に言った。


「娘を亡くしたのは私の責任よ。それ以外にないわ」


「でも、あたしが居たら何かが変わってたかもしれない。事故は防げないとしても、あんたが背負わなくちゃならなかったことを、一緒に背負ってやれたかもしれない」


「あの事故は私の監督不行き届き、そして娘に対する教育方針の間違いで起きたことよ。故に責任は全て私にある。私が悪いのだから、あなたが何かを背負う必要なんてない」


 美由紀の言葉は恐ろしいほどに冷たく、落ち着いていた。


 やはりそこには人として、親としての感情がまるでない。

 ただ母親という使命を与えられた機械のような、そんな印象だった。


「美由紀、あんたも……」


 あんたも変わったね。

 そう言いかけて、千夏は慌てて言葉を切った。


 これは今の美由紀には、言っちゃいけない言葉だと思った。

 愛する我が子を失って、変わらない親なんているはずがない。


 美由紀は変わりたくて変わったんじゃない。

 変わらざるを得なかったから変わったんだ。


「とにかくさ、あたしも戻ってきたことだし、何でも頼ってよ」


「あなたにしてもらうことなんて無いわよ。この私が責任をもって、苺を一人前の大人にするだけの話なのだから」


「それでも、困ることくらいはあるだろうさね」


「困ることなんてない。あの子はもう手の掛かる子供じゃないの」


 もう二度と同じ過ちを繰り返さない為、という美由紀の苺に対する気持ちは痛いほどわかる。


 でもそれで、何もかもを変えてしまってもいいのだろうか。


 昔の美由紀はもっと笑えていたはず。

 じゃあ今、彼女は家で笑うことがあるのだろうか。


 美由紀が笑えていないのだとしたら、娘の苺はどうだろう。

 ちゃんと心の底から笑えているだろうか。


「ねえ美由紀。これで最後にするから聞いてほしい」


 最愛の娘を失った。

 それはとても大きく、親としては何よりも辛い事実だろう。


 だからこそ、もう一人の娘を何としても守る。二度と同じ過ちを繰り返さない為には、子供のままであることを許さない。


 美由紀が語っていたそれらは、きっと全て正しい。

 でも、確かに間違っている。


「もしあたしがあんたの立場なら、同じことをするかもしれない。だからこれはただの詭弁。聞き流してもらっても構わない。それでも親友として、同じ片親として言うけどさ」


 千夏には、子供を教育する上で気を付けていることがあった。

 それはとても単純で、だからこそ忘れがちな大切なこと。


「他の何を奪っても、その子の自分らしさだけは奪っちゃダメだよ」


 成績が悪いからと、子供からゲームを取りあげる。

 言うことを聞かないからと、自由な時間を取りあげる。


 そうして間違いを指摘し、子供が進むべき道を示してあげるのが、親としての役目だ。でもそれは一歩間違えば、子供が飛躍する可能性を奪う行為になってしまう危険がある。


 実の子供とはいえ、その子にはその子の人生、生き方がある。親にはそれを応援する権利はあれど、奪う権利はない。それが千夏の教育論だった。


「その子が一番大切にしていることくらいは、残しといてやるんだよ」


 微笑みながら千夏は美由紀に語り掛ける。

 しかし、しばらく待っても返ってくる言葉は無かった。


 自分の声は彼女に届いていないのかもしれない。

 そう思った刹那――美由紀はその重い口を開いた。


「もしそれが、正しい教育の邪魔になるとしたら」


「それでもさ。そうした未完の何かがあるからこそ、人ってのは成長できるんだ」


 そう言うと千夏は、得意げに人差し指を立てた。


「ほら、失敗は成功の元ってことわざがあるさね」


「そんなものはただの詭弁よ」


 きっぱりとそう言い切る美由紀。

 その態度は相変わらず冷たい。

 きっとここまでの言葉だって、本当の意味で美由紀の心に響いていないのだろう。


 でも、これでいい。

 冷え切ったその心の氷を、今すぐ解かすのは難しい。いつか彼女の中に考えを改めるきっかけが生まれた時、思い出してくれたらそれでいいんだ。


「あなたに何を言われようと、私は絶対に変わらない」


「そうかい」


 美由紀はそう言うと、静かに席を立った。


 トイレだろうか。

 そう思いつつ千夏は、壁に懸けられた時計を見た。


 時刻は十二時ちょうど。

 どうやら少し話過ぎてしまったらしい。


「今日はお互いに残業ね」


「今日『も』さね」


 去って行く美由紀の背中を、千夏は小さく微笑みながら見送った。

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