第5話 長内苺と小説
翌日、教室には一週間ぶりに苺の姿があった。
学校に来たとわかるなり、苺ロスで苦しんでいた人たちが一斉に苺の元へと駆け寄る。
「苺ちゃーん! 凄く心配してたんだよ!」
「ご、ごめんね! でも苺はもう大丈夫!」
突然クラスメイトたちに囲まれて、少し困ったような笑顔を浮かべている苺。
「一週間分ほっぺたぷにってするまで離さないから!」
「ちょっとぉー、くすぐったいよぉー」
そんな久しぶりな光景を前に、蒼依はひとまずホッと息を吐いた。でもやはり、彼女が見せるその笑顔の裏には、後ろめたい何かがあるらしい。
「今日の苺ちゃん元気ないよ? まだ具合悪い?」
「え、あ、ううん。具合はもう大丈夫……!」
それはクラスの人にも悟られるほど、顕著に表に現れていた。
「それよりも、苺はみんなと会えて嬉しいな!」
「もぉー、苺ちゃんマジ天使すぎー」
「えへへー」
必死になってそれを隠そうとする彼女の姿は、正直見ていて辛かった。
「早く何とかしてあげないと……」
一日は思いのほかあっという間に過ぎ去った。
今日は久しぶりに苺と二人での委員会活動。
喜び、不安、緊張、様々な感情を胸に、蒼依は一足先に図書室へと向かう。
受付で独り本を読んでいると、やがて入口の扉が開かれた。
「ごめんね! 遅れちゃった!」
やって来たのは確かに苺だった。
でもそれは、図書室に居る時の大人な彼女じゃない。今まで蒼依と二人きりでは決して見せることのなかった、クラスで妹を演じている時の長内苺だった。
「今日は図書室でもそうなんだね」
蒼依は開いていた本を置き、普段と違う苺にそう尋ねる。
すると苺はハッとして、愛らしさに溢れたその表情を消した。
「ご、ごめんなさい。水城くんの前ではこっちじゃなかったわね」
こっちじゃなかった。
それは一体どういう意味だろう。
つまり今のはわざとではなく、無意識ということだろうか。自分でも気づかないうちに子供らしい姿を演じていた、ということだろうか。
「仕事を押し付ける形になってしまってごめんなさい。本棚の整理は……」
「昨日やっておいたから大丈夫だよ」
「そう……」
小さく言うと、苺は受付の横に荷物を置いた。
そしていつものように、読む本を探しに本棚へと向かう。
「今日は何を読むの?」
「今日はこれよ」
「あっ、それ。僕が昨日おすすめした本だ」
苺が手にしていたのは、昨日蒼依が彼女の家に行った際に、話題として取りあげた恋愛小説だった。蒼依が既読している本の中で、数少ない苺が未読の本でもある。
「じゃあ今日の帰り道は感想会だ」
「ええ、そうね」
そうして苺は受付の席に着いた。
いつもながら、本を借りに来る人はほとんどいない。
蒼依たちの高校には、図書室で勉強をするという習慣もないので、苺と二人きりの空間は普段通りとても静かだった。
静かで何もなくとも、蒼依はこの時間が好きだった。
でも今日ばかりは、どうしても心が落ち着かない。
(長内さん……大丈夫かな……)
本を開いたところまではよかった。
でもそれ以降、なぜか苺はずっと険しい表情を浮かべている。
蒼依の知る限り、その小説にそこまで重い描写は無いはず。
だとすると今の彼女の表情は、本の世界に連動してのものじゃない。
プチッ――またしても苺は自らの手で髪を抜いた。
癖のない長い黒髪が一本、ゆらゆらと揺れながら床へと落ちていく。
「長内さん、髪……」
蒼依は慌てつつも冷静に、苺に声を掛けた。
彼女が本の世界に居るのなら、返事が無くてもおかしくはないと思った。
でも苺はすぐにハッと我に返ると、力のない声音で言った。
「ごめんなさい……私また……」
それはあまりにも見るに堪えない姿だった。
やはり母親に書いていた原稿を捨てられてしまったことが、彼女をこうさせている原因なのだろうか――いや、そうとしか考えられない。
彼女にとって原稿は、それくらいに大切なものだったのだろう。
『本の中の世界だけは私が私でいられる気がするから』
どうして本が好きか。
いつしか蒼依が口にした質問に苺はそう答えた。
その時は『カッコいい』なんて、言葉の表面だけを見た感想しか言えなかった。
でも今の蒼依にはわかる。
きっと長内苺という人間にとって、本こそが自分の居場所のようなものなのだ。物語の中でこそ、彼女は自分自身を感じることが出来る。ありのままの自分でいられる。
じゃあ、もしその居場所が無くなったとしたら――。
蒼依はふと、昨日行った苺の部屋を振り返る。
そういえばあの部屋には、小説と言える本がなかった。あったのは小難しい参考書ばかりで、そこには彼女が好きなはずの物語はない。
「ねぇ、水城くん。一つ聞いてもいいかしら……」
今にも消えてしまいそうな、弱弱しい声が蒼依に届く。
恐る恐る隣を見れば、そこに居た苺の顔は不安に満ちていた。
「あなたから見た今の私は、いつもの私……?」
何かに怯えるようにしながら、彼女は言葉を紡ぐ。
小説の無い部屋。そして破られてしまった原稿。そして苺から出た、悲痛な問い。
きっと彼女は、わからなくなってしまっているのだろう。自分らしくあれる場所を失ったことで、自分がどうあるべきかを見失っているのだ。
「今の長内さんはどこか迷っているように見える」
「迷ってる……そう、かもしれないわね」
蒼依が正直に言うと、苺は納得したように呟いた。
彼女は今日、一週間ぶりに登校した。もちろんこの図書室に来たのも一週間ぶりだ。
じゃあその間、大好きな読書はどうしていたのだろう。
彼女の部屋には物語がない。もし休んでいる間、一冊も本を読めていないのだとしたら、今彼女が手にしているその本が、久しぶりに触れる物語ということになる。
つまり苺は、自分らしくあれる居場所を一週間も失っていた。
一週間も、本のない世界を彷徨い続けていた。
「……っっ」
この時、蒼依はようやく、今起きている事の重大さを知った気がした。
たかが一週間、読書から離れた。
それが苺にどれだけの影響を及ぼすのかはわからない。わからないけど、決して小さくはない苦痛が、そこにはあったはずだ。
蒼依は心配から苺を見た。
やはりその様子は変わらない。
必死に何かに抗っているような、とても険しい表情だった。
「その小説の内容、今読めたところまででいいから説明できる?」
「それは……」
思いついたまま、蒼依は尋ねた。
本当はすぐに答えてほしかった。
でも苺は下唇をグッと噛みながら、ただただ黙っているだけだった。
おそらく今、彼女は必死に思い出そうとしている。
でもその姿はあまりにも悲痛で、蒼依はつい目を逸らしてしまいそうになった。
「……ごめんなさい」
やがて、苺は諦めたようにそう言った。
その瞬間、蒼依の中に計り知れないほど大きな不安が生まれ、それは今まで前向きだったはずの心を容赦なく蝕もうとした。
どうしていいのかわからない。
わからないからこそ怖い。
そんな恐怖に一度は囚われてしまいそうになったものの、それでも蒼依が折れなかったのは、もう迷わないという強い決意があったからこそ。
きっと彼女は自分よりも、もっと大きな恐怖を感じているのだろう。
泣きたいのに、叫びたいのに、ずっとずっと我慢しているのだろう。
「長内さん」
様々な感情が渦巻く最中、蒼依はおもむろに席を立った。
そして、小刻みに震える彼女の手を取る。
「み、水城くん……?」
「僕なんかに出来ることはちっぽけかもしれない。でも、君の力になりたい」
自分には母のような強さはない。誰かを救える自信だってない。
でも……それでも、助けてあげたいと思った。
「本当の君を知っている一人として、君の力になりたいんだ」
もうこの世には居ないあの子に代わって、今度は自分が彼女を守ってあげたい。
あの子に比べたら力不足かもしれない。でも、苺の為に少しでも何かしてあげられるのなら、その少しに持ちうる全てを捧げたい。
「もしよかったら僕を頼ってくれないかな」
* * *
苺には二つ年上の姉がいた。
名前は長内林檎。
夏に生まれたことから、果物が大好きな母がそう名付けた。
林檎はいつも明るくて人当たりが良く、近所でも学校でもいい子だと評判だった。
友達も多く人望も厚い。たくさんの人に好かれる林檎の存在は、苺にとっての自慢で、林檎もまた、自分を慕ってくれる苺が大好きだった。
世界で一番仲のいい姉妹。
そんな根拠のない自信すら、当時の苺にはあった。
それほど姉妹関係には恵まれた。
しかし、家族全体となるとそういうわけでもなく。長内家にはそれなりの苦労があった。
苺が生まれて間もなくのこと、父は家族を残して家を出た。
理由はわからない。母は価値観の相違だと言っていた。
それ以来、苺たち姉妹は、母である美由紀の女手一つで育てられた。
美由紀は素晴らしい母だった。
仕事や家事、あらゆる方面で苺たちを支え、片親だからと言って、娘に何か制限を設けるようなことはなかった。
それは親の勝手な都合で、子供たちの自由を奪いたくなかったから。苺たちには自分らしく自由に育ってほしかったからこそ、美由紀はたった独り家族の為に働き続けた。
そんな美由紀の苦労を知ってか、長女である林檎に反抗期などは無く、いつだって家族の為にしっかり者の姉であろうとしてくれた。
それに、苺は縋った。
縋ったからこそ自由だった。
母に支えられ、姉を信頼していたからこそ、妹である自分を素直に肯定できていた。
でもある日、林檎は死んだ。交通事故だった。
原因は車道への飛び出し。
でもその時、林檎が飛び出したのには理由があった。
翌日の新聞に、林檎の死はこう記載された。
『飛び出した妹を助けようとした姉、身代わりで死亡』
身代わり。
その単語を目にした時、苺はどうしようもないほどの罪悪感に心を蝕まれた。
自分の不注意が原因で、しっかり者だった姉が死んだのだ。
あの時、左右確認を怠ったことを酷く悔いた。
そして、こう思った――自分が代わりに死ねばよかったのにと。どうして出来損ないの自分が生きて、しっかり者の姉が死ななければならなかったのだろうと。
林檎が死んだのをきっかけに、母との関係は大きく変わった。
笑顔に溢れていた食卓は、重く険しい雰囲気が漂う居心地の悪い空間へと変わり、あれほど優しく温厚だった母からは、感情そのものが失われたかのように表情が消えた。
それに伴い、苺の性格までもが大きく変化した。
いや、変わらざるを得なかったという方が正しい。
今までは無邪気な妹のままでも許されていた。
でも林檎が居なくなってしまってからは、そうはいかない。
林檎がこなしていたことの全てが、残された苺に降りかかったのだ。
甘える暇などあるわけがなかった。
生活面、勉強面、全てを母の言う通りにこなす毎日。
その中で苺が何か失敗する度に、母である美由紀はこう言った。
「お姉ちゃんならそんなことはしない」
いつしか苺は、全てにおいて林檎と比べられるようになっていた。
林檎に劣る部分が表に現れれば、それに伴い苺の部屋から大好きだった物語が消えた。そして代わりに置かれるのは、難しい文字列が並んだ分厚い参考書。
嫌だった。でも、受け入れるしかなかった。
だって林檎を殺したのは、他でもない自分なのだから。
今感じているこの苦しみこそが報いなのだと、そう思った。
やがて苺は中学を卒業した。
ついに、林檎よりも年上になってしまった。
その頃には、苺の身の回りから物語は一つ残さず消え去り、部屋の中に自分自身を感じられるものは、何一つとして残っていなかった。
その頃からだろうか。
苺の中に姉にならなければならないという使命感が芽生えたのは。
これまでも林檎の背中を追いかけてはいた。
でも、まだ自分が長内苺のままであることを諦めきれないでいて、完全に林檎に成り代わるのを、心のどこかで拒んでいた節があった。
しかしそんな僅かな執着も、部屋から物語が消えたと同時になくなった。
この世界で唯一、長内苺であれる居場所を失ったのだ。
だからこれ以上、ありのままの自分に執着するのも馬鹿らしくなった。
そこからの苺は、まるで林檎の分身のように振舞った。
食べ物の好みも林檎と同じであろうとした。
本来の子供な自分を出さない為に口調も変えた。
姉が辿るはずだった道の上を、苺はただひたすらに歩き続けた。
そこに自分の意志はない。
そんなものはとっくの昔に捨てたと、そう思っていた。
でも、最近になってふと迷ってしまうことがある。
今の自分は誰なのか。本当の自分は一体どんな形をしていたのか。
その迷いの原因は、クラスでの自分の役割にあった。
クラスメイトは、自分のことを妹のように可愛がってくれている。
そしてそれに、苺自身も素直に甘えるという形で応えている。
みんなの為に意図して妹を演じている。自分ではそのつもりだった。
でもいつからか、その自分こそが本当の自分の形のような気がしてきて。みんなに可愛がられるその瞬間だけは、枷が外れたように心が軽かった。
でもそれは、決して引きずってはならない感情。
自分はあくまで林檎の分身。大人な自分であり続けなければならない。その葛藤が、心の奥底に押し殺していたはずの何かを刺激し、やがて世界を覆った。
まるで靄がかかったように、歩いていた道の先が見えなくなった。見えなくなって、ずっとずっと彷徨い続けて、そしてある日、唐突に目の前の世界がクリアになった。
その時、苺に道を与えたのは一冊の本――つまりは大好きな物語だった。
物語の世界でだけは、遠くまではっきりと進むべき道が見えた。
図書委員となり久しぶりの物語に触れたことで、やがて苺の中に忘れていたはずの自分らしさが蘇り、それは一つの目標へと繋がった。
自分だけの物語を書こう。他の誰でもない、自分だけの物語を。
こうして、苺の創作活動は始まった。
執筆作業はとても楽しく、毎日が充実していた。
ペンを走らせるその時だけは、背中にのしかかっていたものを忘れられる気がして。いつしかそれは、苺にとって唯一の心の拠り所のようになっていた。
でも、それすらも母は許してくれなかった。
朝起きると、苺が書いていた原稿はゴミ箱の中にあった。
それもビリビリに破られた状態で。
母は何食わぬ顔で朝食を食べていた。特に会話はなかった。
あまりにも普段通りの光景を前にした苺は、全てを諦め呟いた。
『体調が悪いから休みます』
唯一の拠り所を奪われた苺は、今度こそ行く先を失ってしまった。まるで終わりの見えない迷路に迷い込んでしまったような、そんな感覚だった。
「作ろう、長内さんの物語」
「えっ」
俯くしかなかった苺は、その一声で顔を上げた。
優しく手を握る蒼依は、あの時と同じ真っ直ぐな瞳を浮かべている。
「それが長内さんの唯一の居場所なら、もう一度作ってみよう」
もう一度作る。
それが小説の原稿のことを指しているのはすぐにわかった。
「原稿、本当は最後まで書きたかったはずだよね?」
「それは……出来ることならそうしたかったけれど」
「なら書こう!」
瞳だけではなく、蒼依から出た言葉は驚くほどに真っ直ぐだった。
あまりの真っ直ぐさに、苺は少しの戸惑いを覚える。
「仮に完成させても、お母さんに見つかったらまた捨てらえてしまうだけよ……」
「見つからなければいいんだよ。この図書室で書いてここに保管すればいいんだ」
それなら確かに、母に見つかって捨てられることはないとは思う。でもそんな自己満足で小説を書いたとして、一体何になるというのだろう。
「もういいのよ……私は――」
諦めから、苺は全てを投げ出そうとした。
しかし、そんな苺の想いを蒼依の言葉が上書きする。
「物語が完成した時、お母さんに教えてあげるんだ」
「教えるって何を……」
「これが自分のやりたいことだって、ありのままの君を証明するんだよ」
力強い声音でそう語る蒼依は、とても真剣だった。
それはまるで、終わりのない迷路に立つ自分を導く光のようで。蒼依の発した言葉の一つ一つが、諦めに満ちた苺の胸の奥深くに響いた。
「でも、私には最後まで書き切れる自信がないの……」
それでも、苺から漏れるのは後ろ向きな言葉。
原稿を完成させる。
それはつまり、長内苺のままでありたいと主張するのと同意。例え自分自身がそれを望んでいようとも、過去の記憶が、それを許してはくれなかった。
姉を殺した自分に、願望なんてあってはならない。
俯きながら胸の内でそう唱える苺には、もはや自分らしさなど無かった。
「僕がいる」
でも、やがて聞こえたその言葉で、苺はゆっくりと顔を上げる。
諦める。
そう決めた苺に対し、視界の中の蒼依は、未だ希望を捨ててはいなかった。
「僕が精一杯手伝う。何が出来るかわからないけど、君の傍に居てあげることくらいは出来るから」
どうしてそこまで優しくしてくれるのか。
蒼依の気持ちがわからなかった。
わからないけど、蒼依のその言葉は、冷え切った苺の心を優しく包み込んだ。
「だからもう一度、物語を書こう」
彼が言葉を重ねる度に、溢れ出てくる懐かしい感情。
それは、決して表に出してはならない感情のはずだった。
でも、苺は思ってしまったのだ。
もし、まだ自分が長内苺でいられるのなら、ありのままの自分でいることが許されるのなら、もう一度物語を書きたいと。
「僕たちで君の居場所を、君だけの物語を作ろうよ」
「……うん」
堪えたくても堪えられない。
誰かの前で涙を流したのは久しぶりのことだった。
でも不思議とこの涙は、嫌な涙じゃなかった。
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