第3話 長内苺の苦難

 長内家の食卓には静寂がとり憑いている。

 それは決して複雑な何かではなく。とてもシンプルで、でも決して解決し得ないもの。


 二人で使うには大きすぎるテーブル。

 そのすぐ傍にテレビはあるものの、つけることはほとんどない。だからと言って会話があるかと言われたら、そういうわけでもない。


 怖いくらいの静寂が苺と苺の母――長内おさない美由紀みゆきの間にはあって、もはやそれは食卓と呼んでいいのかわからないほど、酷く空虚な時間だと言えた。


 かろうじて聞こえるのは、ナイフと食器がぶつかる乾いた音くらいのもの。

 でもそれはむしろ不快で、完全な静寂である方が苺にとっては有難かった。


 この歪な空間こそが長内家の全貌。

 いつもと違う部分があるとするなら、今日の晩御飯は少し豪華だということくらい。


 それ以外はいつも通りの食卓。

 この静寂こそ、苺にとって唯一の帰る家だった。


 七月四日。

 今日は苺の姉――長内おさない林檎りんごの十八回目の誕生日である。


 でも主役であるはずの林檎は、苺たちと同じテーブルにはいない。


 最初はその事実が耐えられないほど悲しかった。

 料理が喉を通らないほどに、自分自身を憎んだ。


 でもいつしか母と二人での食事が日常になった。

 姉が居ない七月四日が当たり前のようになっていた。


「三年ね」


 無言で手を動かしていた美由紀が、独り言のように呟いた。

 多分深い意味はないのだろうと、苺は上辺だけの返事を口にする。


「そうだね」


 去年も、そして一昨年も、美由紀はこうして意味もなく数字を口にした。


 それを耳にする度に思う。

 あと何度数えたらこの静寂が終わるんだろうと。結末の見えない思考が苺の脳裏に浮かんで、そして料理を咀嚼する間に消えた。


「ごちそうさまでした」


 そう呟いた苺は、美由紀よりも先に席を立った。

 食器を重ねて洗い場に運んで、美由紀が食事をしている姿を横目に片づけをする。


 長内家は基本、苺が食事の用意と片づけをすることになっている。

 美由紀は毎日残業で帰りが遅い。だから苺自らがこうすると決めた。


「ケーキ買ってきたよ」


 洗い物を終えて苺が言うと、美由紀は感情希薄な顔のまま呟いた。


「ええ、頂くわ」


「じゃあ、用意するね」


 美由紀からの返事を受けて、苺は冷蔵庫を開いた。

 そこからケーキの入った箱を取り出し、一つずつ丁寧にお皿へと乗せる。


「ごめんなさい。今年はショートケーキにしたから」


「どうして。フルーツケーキは?」


「売り切れで買えなかったの。ごめんなさい」


「……そう」


 何か言われるかもしれないという覚悟はあった。

 だが意外にも美由紀は、何も文句は言わなかった。

 でもその代わりに、ほんの少し目尻を下げると、


「やっぱり、あとで頂くことにするわ」


 まるでケーキに興味が無くなったかのように、冷たい声音でそう呟いたのだった。


「そっか。それじゃ冷蔵庫にしまっておくね」


「ええ」


 やがて美由紀は静かに席を立つと、食器を洗い場に置いてリビングを去った。

 苺はそれを見送った後、美由紀のケーキにラップをして冷蔵庫にしまう。


 フルーツケーキ以外は食べない。

 もしかしたら美由紀の中で、譲れない何かがあるのかもしれない。


『あと何度数えたらこの静寂が終わるんだろう』


 よくない思考がまた浮かんで、苺は咄嗟に頭を振った。

 今日はあくまで姉の誕生日。そこに自分の意志なんかは必要ない。


「ごめんね、お姉ちゃんの好きなフルーツケーキじゃなくて」


 リビングの横にある小さな小さな仏壇。苺はそこに立てかけられた写真の横に、大きなイチゴの乗ったショートケーキを置いた。


「十八歳の誕生日おめでとう」


 そう呟いて、苺は立てられたその写真をじっと見つめる。

 そこには、満面の笑みで笑うセーラー服姿の林檎がいた。


 この写真は、まだ中学生だった頃の林檎のもの。

 姉とはいえ、今の苺とは二つほど歳が離れているはずだった。


 それなのに、どうしてだろう。

 今の自分よりもずっと大人っぽく見えてしまうのは。


 自分と林檎、一体何が違うというのか。

 疑問に思った苺は、すぐ横の窓に反射する自分の姿を確認した。そこに映る自分は、写真の林檎と比べても何もかもが幼い、ただの子供だった。


 歳は二つも上のはずなのに、どうしてか、今の自分の方が数段歳下に感じられる。


 その理由は一体なんだろう。

 林檎にあって、自分にないもの。決定的な違いは……


「……笑顔」


 そう口にした苺は、慌てて笑顔を作りそれを窓に映した。


「違う……」


 でもそれは、写真の林檎とは全くと言っていいほど別物だった。


 硬い。とにかく笑顔が硬かった。

 それはきっと姉のように心の底から笑えていないから。

 もう一度。写真をよく見て、もう一度笑顔を作ってみよう。


「また違う……」


 違うのならもう一度。もっとよく見てそしてまた別な笑顔を。

 三度ほどそんなことを繰り返した苺は――ハッと我に返った。


「わ、たし……?」


 完全に無意識の中の出来事だった。

 無意識で林檎の真似を、いや、苺は確かに林檎になろうとしていた。

 自分の不出来な笑顔を、林檎の笑顔で上書きしようとしていた。


 苺は慌てて自分の顔に触れる。

 今ここにあるのは自分の顔だろうか。

 それとも姉である林檎の顔だろうか。


 両手で触れて、そして窓に映る自分を見てやっと――今の自分が長内苺であることを確かな事実として受け入れる。


「はぁ……」


 その時苺からは、安堵とも違う長い長いため息がこぼれた。


 林檎が居なくなってから、苺はいつも彼女の背中を追っていた。

 長内苺という人間のままじゃいけない。

 心のどこかで別な自分がそう訴え続けていたから。


『そういえば長内さんは、どのケーキが一番美味しそうだと思った?』


 様々な思考が渦巻いた末に、帰りの蒼依の質問が苺の脳裏に浮ぶ。


 その質問に苺は、フルーツケーキが一番だと答えた。

 今思うと、なぜそう答えたのか。あの時の自分がわからない。


 だって本当に好きなのは、好きだったはずのケーキは……


「……いてっ」


 突然針に刺されたような痛みを頭に感じた。

 遠くなっていた意識をはっきりさせた苺は、妙に不快感のある右手を見る。


「……っっ‼」


 すると右手には、まだ若いはずの髪の毛が何本も絡まっていた。まさかと思い足元を見れば、そこには手にある以上の髪の毛が散らばっている。


「……」


 言葉を失った。こんな自分に恐怖さえした。

 苺にとってこの黒髪は、唯一の自分らしさだった。ずっとショートカットだった林檎に対して、苺は物心ついた時からずっとこの髪型。


 特に思い入れがあるとか、そういうわけでもない。

 ただ何となくこの黒髪だけは、変えてはならない気がしていた。


 でも苺には、幼いころからのとある癖があった。

 それが今の無意識に髪を抜いてしまうという癖。


「また私、こんなに抜いて……」


 苺は落ちた髪を一本一本拾い集める。

 集めれば集めるほどその量に驚愕するしかない。ざっと三十本は抜けていた。


 これで頭の一部が薄くなってしまうとかはないとは思う。

 それでも無意識でこんなことをしてしまう自分に、呆れるほかなかった。


 やがて苺は集めた髪をゴミ箱に捨てた。

 髪を手から離したその瞬間――胸の辺りに気持ちの悪い感覚が芽生えた。


 それはまるで自分という人間が薄れてしまったような、心臓の辺りからじわじわと湧き出る不快な何か。


 怖い。苺は咄嗟にそう思った。

 心の御置き所がないまま、ふと、苺は手放した自分の髪を見た。


 大量のティッシュゴミの上に横たわるそれら。元々それらは自分の髪のはずなのに、今はもう自分じゃない別の何かでしかない。これは元自分であって、今の自分じゃない。


「……っっ」


 そう心で唱えた瞬間、苺は逃げるようにしてリビングを飛び出していた。


 ただひたすらに階段を駆け上がり、そして自室へと駆け込む。


「うるさいわよ。静かにしなさい」


「ごめんなさい……」


 ドアの前に座り込んだ苺は、残された僅かな自我で呟いた。

 こうして母に叱られたのは、随分と久しぶりのことだった。

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