第3話 長内苺の苦難
長内家の食卓には静寂がとり憑いている。
それは決して複雑な何かではなく。とてもシンプルで、でも決して解決し得ないもの。
二人で使うには大きすぎるテーブル。
そのすぐ傍にテレビはあるものの、つけることはほとんどない。だからと言って会話があるかと言われたら、そういうわけでもない。
怖いくらいの静寂が苺と苺の母――
かろうじて聞こえるのは、ナイフと食器がぶつかる乾いた音くらいのもの。
でもそれはむしろ不快で、完全な静寂である方が苺にとっては有難かった。
この歪な空間こそが長内家の全貌。
いつもと違う部分があるとするなら、今日の晩御飯は少し豪華だということくらい。
それ以外はいつも通りの食卓。
この静寂こそ、苺にとって唯一の帰る家だった。
七月四日。
今日は苺の姉――
でも主役であるはずの林檎は、苺たちと同じテーブルにはいない。
最初はその事実が耐えられないほど悲しかった。
料理が喉を通らないほどに、自分自身を憎んだ。
でもいつしか母と二人での食事が日常になった。
姉が居ない七月四日が当たり前のようになっていた。
「三年ね」
無言で手を動かしていた美由紀が、独り言のように呟いた。
多分深い意味はないのだろうと、苺は上辺だけの返事を口にする。
「そうだね」
去年も、そして一昨年も、美由紀はこうして意味もなく数字を口にした。
それを耳にする度に思う。
あと何度数えたらこの静寂が終わるんだろうと。結末の見えない思考が苺の脳裏に浮かんで、そして料理を咀嚼する間に消えた。
「ごちそうさまでした」
そう呟いた苺は、美由紀よりも先に席を立った。
食器を重ねて洗い場に運んで、美由紀が食事をしている姿を横目に片づけをする。
長内家は基本、苺が食事の用意と片づけをすることになっている。
美由紀は毎日残業で帰りが遅い。だから苺自らがこうすると決めた。
「ケーキ買ってきたよ」
洗い物を終えて苺が言うと、美由紀は感情希薄な顔のまま呟いた。
「ええ、頂くわ」
「じゃあ、用意するね」
美由紀からの返事を受けて、苺は冷蔵庫を開いた。
そこからケーキの入った箱を取り出し、一つずつ丁寧にお皿へと乗せる。
「ごめんなさい。今年はショートケーキにしたから」
「どうして。フルーツケーキは?」
「売り切れで買えなかったの。ごめんなさい」
「……そう」
何か言われるかもしれないという覚悟はあった。
だが意外にも美由紀は、何も文句は言わなかった。
でもその代わりに、ほんの少し目尻を下げると、
「やっぱり、あとで頂くことにするわ」
まるでケーキに興味が無くなったかのように、冷たい声音でそう呟いたのだった。
「そっか。それじゃ冷蔵庫にしまっておくね」
「ええ」
やがて美由紀は静かに席を立つと、食器を洗い場に置いてリビングを去った。
苺はそれを見送った後、美由紀のケーキにラップをして冷蔵庫にしまう。
フルーツケーキ以外は食べない。
もしかしたら美由紀の中で、譲れない何かがあるのかもしれない。
『あと何度数えたらこの静寂が終わるんだろう』
よくない思考がまた浮かんで、苺は咄嗟に頭を振った。
今日はあくまで姉の誕生日。そこに自分の意志なんかは必要ない。
「ごめんね、お姉ちゃんの好きなフルーツケーキじゃなくて」
リビングの横にある小さな小さな仏壇。苺はそこに立てかけられた写真の横に、大きなイチゴの乗ったショートケーキを置いた。
「十八歳の誕生日おめでとう」
そう呟いて、苺は立てられたその写真をじっと見つめる。
そこには、満面の笑みで笑うセーラー服姿の林檎がいた。
この写真は、まだ中学生だった頃の林檎のもの。
姉とはいえ、今の苺とは二つほど歳が離れているはずだった。
それなのに、どうしてだろう。
今の自分よりもずっと大人っぽく見えてしまうのは。
自分と林檎、一体何が違うというのか。
疑問に思った苺は、すぐ横の窓に反射する自分の姿を確認した。そこに映る自分は、写真の林檎と比べても何もかもが幼い、ただの子供だった。
歳は二つも上のはずなのに、どうしてか、今の自分の方が数段歳下に感じられる。
その理由は一体なんだろう。
林檎にあって、自分にないもの。決定的な違いは……
「……笑顔」
そう口にした苺は、慌てて笑顔を作りそれを窓に映した。
「違う……」
でもそれは、写真の林檎とは全くと言っていいほど別物だった。
硬い。とにかく笑顔が硬かった。
それはきっと姉のように心の底から笑えていないから。
もう一度。写真をよく見て、もう一度笑顔を作ってみよう。
「また違う……」
違うのならもう一度。もっとよく見てそしてまた別な笑顔を。
三度ほどそんなことを繰り返した苺は――ハッと我に返った。
「わ、たし……?」
完全に無意識の中の出来事だった。
無意識で林檎の真似を、いや、苺は確かに林檎になろうとしていた。
自分の不出来な笑顔を、林檎の笑顔で上書きしようとしていた。
苺は慌てて自分の顔に触れる。
今ここにあるのは自分の顔だろうか。
それとも姉である林檎の顔だろうか。
両手で触れて、そして窓に映る自分を見てやっと――今の自分が長内苺であることを確かな事実として受け入れる。
「はぁ……」
その時苺からは、安堵とも違う長い長いため息がこぼれた。
林檎が居なくなってから、苺はいつも彼女の背中を追っていた。
長内苺という人間のままじゃいけない。
心のどこかで別な自分がそう訴え続けていたから。
『そういえば長内さんは、どのケーキが一番美味しそうだと思った?』
様々な思考が渦巻いた末に、帰りの蒼依の質問が苺の脳裏に浮ぶ。
その質問に苺は、フルーツケーキが一番だと答えた。
今思うと、なぜそう答えたのか。あの時の自分がわからない。
だって本当に好きなのは、好きだったはずのケーキは……
「……いてっ」
突然針に刺されたような痛みを頭に感じた。
遠くなっていた意識をはっきりさせた苺は、妙に不快感のある右手を見る。
「……っっ‼」
すると右手には、まだ若いはずの髪の毛が何本も絡まっていた。まさかと思い足元を見れば、そこには手にある以上の髪の毛が散らばっている。
「……」
言葉を失った。こんな自分に恐怖さえした。
苺にとってこの黒髪は、唯一の自分らしさだった。ずっとショートカットだった林檎に対して、苺は物心ついた時からずっとこの髪型。
特に思い入れがあるとか、そういうわけでもない。
ただ何となくこの黒髪だけは、変えてはならない気がしていた。
でも苺には、幼いころからのとある癖があった。
それが今の無意識に髪を抜いてしまうという癖。
「また私、こんなに抜いて……」
苺は落ちた髪を一本一本拾い集める。
集めれば集めるほどその量に驚愕するしかない。ざっと三十本は抜けていた。
これで頭の一部が薄くなってしまうとかはないとは思う。
それでも無意識でこんなことをしてしまう自分に、呆れるほかなかった。
やがて苺は集めた髪をゴミ箱に捨てた。
髪を手から離したその瞬間――胸の辺りに気持ちの悪い感覚が芽生えた。
それはまるで自分という人間が薄れてしまったような、心臓の辺りからじわじわと湧き出る不快な何か。
怖い。苺は咄嗟にそう思った。
心の御置き所がないまま、ふと、苺は手放した自分の髪を見た。
大量のティッシュゴミの上に横たわるそれら。元々それらは自分の髪のはずなのに、今はもう自分じゃない別の何かでしかない。これは元自分であって、今の自分じゃない。
「……っっ」
そう心で唱えた瞬間、苺は逃げるようにしてリビングを飛び出していた。
ただひたすらに階段を駆け上がり、そして自室へと駆け込む。
「うるさいわよ。静かにしなさい」
「ごめんなさい……」
ドアの前に座り込んだ苺は、残された僅かな自我で呟いた。
こうして母に叱られたのは、随分と久しぶりのことだった。
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