第1話 長内苺と感想会

 いつしか空は夕焼け色に染まっていた。

 窓越しにある町の景色が、昼間とはまるで別な世界のように見える。


「もう六時だね」


 蒼依は壁に掛けられた時計を見上げながら呟いた。


「今日は誰も本借りに来なかったね」


 そのまま言葉を続けたが、苺からの返事はない。

 不思議に思った蒼依は、すかさず隣に居るはずの彼女を見た。

 だが、そのあまりの真剣な表情を前に、それ以上話しかけるのは辞めにした。


 そこには確かに苺が居る。

 でも、きっと彼女はここには居ないのだと思う。


 長内苺を知らない人からすれば、これを無視されたと捉えるのかもしれない。


 でも蒼依はちゃんと理解していた。

 苺は今、本の世界に入り込んでいるのだと。


 何か物語を大きく動かす事件が起きたか。もしくは謎を解決したか。あるいはその過程か。理由はわからないけれど、すぐ隣の蒼依の声が聞こえないくらい、苺は本に集中している。


 淡々とページを捲るその様子を、無言でしばらく眺めていた蒼依。

 やがて苺が本を閉じたタイミングで、ようやく声を掛けた。


「長内さんって本当に本が好きなんだね」


「ええ」


 今度はちゃんと返事があったことにホッとしつつ、蒼依は続ける。


「どうしてそんなに本が好きなの?」


「どうして?」


「うん、どうして」


 この問いで生まれたのはほんの少しの間。

 これを跨いだ後、苺は顎に手を添えながら言った。


「本の中の世界だけは私が私でいられる気がするから、かしらね」


 それは蒼依の想像からは大きく逸脱した理由だった。

 でも本が大好きな苺らしい趣のある理由だとも思った。


「私が私でいられるって、なんかカッコいいね」


「それは褒めてるの?」


「褒めてる褒めてる、べた褒めだよ」


 細い目を向けてくる苺を、蒼依は慌てて宥める。


「でも珍しいよね。この歳で本が好きだなんて」


「そう言う水城くんも本好きではなくて?」


「僕も本は好きだけど、長内さんほどじゃないよ」


 蒼依が本を読むのは、こうして苺と図書委員の仕事をしている時くらい。一日中本を手にしている彼女とは、そもそも読書に対する熱が違う。


「そんなに本が好きってことは、将来は小説家にでもなりたいとか?」


「どうかしらね。一応自分でも書いてみたりはしているけれど」


「えっ⁉ 書いてるって小説を⁉」


「ええ」


「読みたい!」


 蒼依は本能のままに勢い良く席を立った。

 そしてキラキラとした眼差しを苺に向ける。


「素人だし、内容は保証できないわよ」


「そんなの読んでみないことにはわからないよ」


「それに私パソコンを持ってないの。だから原稿用紙に手書きよ?」


「いいじゃん手書き。なんだか昔っぽくて」


「水城くんには合わない作品かもしれないわよ」


「長内さんが書いた作品だもん。きっと僕は好きだと思う」


 蒼依は決して適当を言っているわけではなかった。

 苺が言うように、仮にもその作品の内容が自分に合わないものだとしても、そこにあるのは紛れもない、長内苺の作り上げた世界だ。


 自分とは全く違う価値観、違う思考を持った人間が、一体どんな世界を作り上げるのか。そういった純粋な興味から、蒼依は苺の作品を強く読みたいと思った。


 とはいえ、人に読ませたくないという可能性もある。


「いつか気が向いたら読ませてよ」


 もしそうなら強要するのは失礼に値する。

 そう思った蒼依が補足すれば、苺は一瞬驚いたように目を丸くした。

 そして小さく頷いては「その時はぜひ」と、微笑みながら呟いたのだった。


「そろそろ帰ろっか」


「そうね。付き合わせてしまったようでごめんなさい」


「全然大丈夫。おかげで僕も面白い作品に出会えたし」


 蒼依は隣でひっそりと読んでいた本を掲げて苺に見せる。


「これ凄く面白いよ。長内さんもいつか読んでみてよ」


「紹介して貰ったところ申し訳ないのだけど、その作品は既読よ」


「流石は長内さん! じゃあ帰り道で感想会しよう!」



 * * *



 帰り道の感想会は想像以上の盛り上がりだった。

 初めこそ蒼依が作品の良かったところを熱く語っていたのだが、どうやら苺もその作品のファンだったらしく、熱弁する彼女に、普段図書室で見せる平静さはまるで無かった。


「そういえば水城くんって転校生だったわよね」


 ひとしきり話し終えた後のこと。

 沈黙になるのを嫌ってか、苺は思い立ったように言った。


「うん、一年生の終わり頃にこっちに戻って来たんだ」


「戻ってきた?」


 蒼依が頷くと、苺は小首を傾げて質問を続ける。


「つまりは前にもこの町に住んでたことがあるということ?」


「一応この町の出身だからね。六歳くらいまでは住んでたよ」


 話しながら、蒼依は昔のことを振り返る。

 しかし、思い出せるのは、あくまで断片的な記憶のみだった。


 こうして思い返してみると、もう少し緑が多い町だった気もする。

 でも実際に周りを見渡してあるのは、建ち並ぶ家々と綺麗に整えられた道路。蒼依が目にしたはずの景色はどこにも見当たらなかった。


「流石に十年も経つと変わっちゃうね」


「この辺りは特に最近の物が多いから」


「てことは長内さんの家も新築?」


「いいえ。私の家は昔からあるわ」


 そんな会話をしているうちに、やがて蒼依の目に小さな公園が飛び込んできた。


 家の裏から突然顔を出したその場所は、見るからに錆びれた遊具ばかりが置かれていて華がない。新しさで溢れたこの一帯の中で、明らかに浮いてしまっていた。


「あ、ここ。僕ここだけは覚えてる」


 でも、そこには確かな懐かしさがあった。

 この公園のことだけは、今でもはっきりと記憶に残っている。


「変わってないね。遊具も全部昔のままだ」


「この公園を知っているの?」


「うん、昔よく遊んでた公園で間違いないと思う」


 見れば見るほど、忘れていたはずの思い出が蘇ってくる。


「確かその時は女の子も一緒だったんだ」


「女の子……?」


「その子たちは凄く仲のいい姉妹で、僕は二人との時間が大好きだった。だから引越しするってなった時は、凄く落ち込んだんだよね」


 置かれた遊具を順々に見やり、思い出に耽りながら蒼依は語る。

 何か大切なことを思い出したような気がして、自然と笑顔がこぼれた。


 たくさんの物が変わってしまった中で、この場所だけはあの頃のまま。それはとても些細なことだけど、蒼依にとっては大きな喜びだった。


「あの子たち元気にしてるかな」


 やがて込み上げてきたのは、あの姉妹に会いたいという思い。


「水城くんはその子たちの名前とか憶えてたりする?」


「うーん、昔は名前で呼び合ってた気もするけど……」


 しかしそれも十年も前のこと。

 思い出せる記憶にも限界があった。


「ごめん、思い出せないや」


「そう」


 蒼依が言うと、苺は少し悲しげな顔を浮かべ公園を見た。

 その一角をじっと見やりながら、やがて小さく呟く。


「いつかまた会えるといいわね」


 それに蒼依は、「うん」という短い返事で応えたのだった。

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