28日目(日曜日 仮)薪ストーブの部屋の午後「記憶なき過去」②
「わかりました。私は、これから、あなたが失っている過去の記憶についてお話することになります。そして、それは、あなたが経験した辛い過去のお話にも触れることになりますけどよろしいですか?」
と、黒井さんが言った。
そういえば、今日の黒井さんは、いつもの黒ずくめの服ではなくて、紺色の上下スーツに紺色のネクタイをしていた。
「はい… と言うほど、自信はありませんが、記憶が無い今の私なら、きっと、他人事のように聞けるかもしれません。よろしくお願いします」と私は答えた。
「まずは、私は、こういう者です」
私の前に出された名刺には、国立国際医療研究センター パインフォレスト院長 松嶋隼人と印字されていた。
「まつしまはやとさん、でよろしかったでしょうか」と私が尋ねると、「そうです。松嶋と言います」と黒井さんが言った。
「国立国際医療研究センターって書いてありますが、というと、お医者さんで?」
「いかにも。此処、パインフォレストの院長をしております」
「ということは、私は病院の患者、ということでしょうか?」
「その通りです。あなたは、此処に入院して、今日で182日目になります」
「ひゃくはちじゅう… って、半年くらいじゃないですか。確か… 今日は28日目だったと思うんですが…」
「そうですね。あなたの意識が完全に回復してから今日で28日目になりますが、それまでのしばらくの間は、ずっと意識不明の状態だったんです。141日目に、目が開いて、意識が回復されて、簡単な応答もできるようにもなったのですが、すぐに目を瞑って眠ったり、覚醒したりがしばらく続きました。そこで、一般病棟から、この病棟に移して回復を待っておりました」
「なんと、私がそんな状態だったとは…」
「無理もありません。あなたは、一命こそ取り留めましたが、記憶の一部が失われておりましたし、何より、完全に覚醒した後も、不安定な精神状態が予想されましたので、このような特異なお部屋に移させていただいた次第です」
「私が、一命を取り留めた、んですか?」
「そうです。この病院に担ぎ込まれたのは、あなたがご自宅のマンションの8階のベランダから飛び降りたことによります。8階の高さですと、普通であれば、即死状態ですが、あなたは運良く階下の常緑樹の植え込みに落ちたことで死を免れました。しかし、頭部の損傷は酷く、手術は難航しました。その頭の大きな傷がその証拠です」と黒井さん、否、松嶋医師は言った。
「そうだったんですか。私も、洗面所の鏡を見た時に、なんでこんなに目立つ縫い跡みたいなのがあって、髪の毛もまだら生えなんだろうとショックでしたが、なんといっても、過去の私の顔を覚えていませんでしたので、受け入れるしかありませんでした。で、私は、その~ なんで飛び降りなんかを…」
「そちらの話になる前に、もう少し話をさせてください」と松嶋医師が言った。
「あなたが意識を回復した後に治療の方針をいろいろと決めていったのですが、この部屋での入院生活のポイントを4つにしました。ひとつは、“外部からの情報遮断”、二つめとして、“低刺激” 三つめが、“緩やかな記憶の回復を目指す”、 そして、最後に“適度な運動”でした。なにせ、あなたは、8階から飛び降りる前に、すでに、何回も自殺未遂をしていましたので、治療方針も綿密に協議を重ねました」
「私が、何回も自殺未遂を…」
「そうです。その左手首にあるいくつかの傷がその跡になります。したがって、万が一のことを考えて、この部屋から、刃物類を撤去させてもらいました」
「なるほど… では、私に毎日、薪割りをさせたり、白い部屋へ入室させたり、難解な本を読ませようとした意味ってなんだったんでしょう」と私は率直に尋ねた。
「薪割りや長い廊下を歩かせたことは、体力が落ちないように適度な運動をしていただくという意味がありました。青いペンキの入ったバケツの置いてある白い部屋への入室の意味は、ひとつは、気分転換。ひとつは、清掃に来ていただくお二人、そして、往診に来る私がこの部屋に来るためのいわば時間稼ぎ。で、もうひとつの意味が『謎めかせる』ということでした」
「謎めかせる?」
「そうです。なぜに、白い部屋に行かねばならぬのか、なぜに、青いペンキが入ったバケツがあるのか、なぜに、難解な本を読まねばならぬのか、といった『謎』が暮らしの中にあると、一種のスパイスになろうかと思った次第です」
「なるほど… そうだったんですね。とはいえ、私にとっては、謎は謎のままでしたが」
「おとうさん…」
スミエさんがそう言うと、脇に置いてあった小さなバッグからハンカチを取り出して目頭に当てた。
「お、おとうさん、って…」
「
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