ふたり 2

 思い切って唇に出した端から、その言葉は溶けていくようだった。

 それを聞いたダミアヌスが、今まで見たこともない、鮮やかな笑みを浮かべていたからかもしれない。


「どちらでもあり、どちらでもないですよ」

「え」


 予想外の返事に私は固まる。

 いくつかこの問答の先についての答えは想定していたけれど……こんな返し方をされるのは考えていなかった。


「これからは、俺とコスマスは2人で1つの人生を生きます」


 ダミアヌスの目がちらりとクーラーボックスに注がれる。


「コスマスが移植されれば、俺はダミアヌスでコスマスになります。『龍』を守るためにも、俺たちが二人で生きることを守るためにも」


 そして、ダミアヌスが立ち上がり、私の肩に手をかけた。


「だから俺のことは、ダミアヌスでもコスマスでも、あなたがそうだと思う方でお好きなように。どちらも、俺です。ただこれを許すのは、依頼人なのに俺を助けてくれたあなただけです。それから『龍』の人間の前ではできるだけ『ダミアヌス』と」

「たたた助けたなんてそんなっ。私何もしてませんっ」

「あの女の前に立ちふさがり、銃を撃ってくれましたね」


 ダミアヌスの手が私の指を撫でた。


「事前にレクチュアを受けていたとしてもあなたは普通の女性です。衝撃は指を痛め、轟音はあなたを怯えさせたでしょう。それでもあなたは撃ち続けた。そして、イェンの頼みに応じて戦場の真っただ中に飛び込んできた。ジャムを怖がりもしなかった。本来なら依頼人の方にあんなことをさせてはいけないんです。なのに……。……それに、失礼ながら、俺はあなたがイェンの頼みに答えるとは思っていなかった」


 最後の台詞は小さな呟きだった。でも、それは私の耳に届いた。


「井原さん、あなたはもう、依頼人ではなく、大切な戦友ですよ」


 ダミアヌスが私に向かって手を差し出してくる。

 一瞬、虚を突かれて、一歩遅れて気づいた。


 あ、握手、してくれようとしてるんだ。


 それに気づいた私は、彼の手を握った。

 これまでの、依頼人向けの笑顔とは違う顔でダミアヌスは私を見つめていた。

 大きな手だな、と思う。

 これから先も大きな組織を支えていくのにふさわしい。


「ダミアヌスさん」


 私がそう口に出すと、ダミアヌスは嬉しそうに歯を見せた。


「はい」

「私にとってあなたはダミアヌスさんです。それでいいですか?」

「いいも何も。お任せすると言ったはずですよ。それにもうすぐ、コスマスも俺の所に帰ってきますからね。そうすればもう俺は本当に2人になります。その前に決めてくださってよかった」


 私は黙って首を振る。

 ダミアヌスは笑っていたけれど、私の心にはどこか棘のようなものが残っていた。

 私は自分が自分でなくなるのなんて耐えられない。もしそうなら、その前に死んでやろうかと考えていたくらいだ。

 この人は、その棘をずっと背負っていくのだろうか。

 それともそれは彼にとっては聖痕のような誇らしいものなのだろうか。

 それは狂気なのか、愛情なのか、わからない、わからない。

 きっと、わたしにはずっとわからないままだろう。


「さて、人質を解放しなければなりません。銃を使うので少し離れていてくれますか? ああそうだ、あの馬鹿兄弟の話し相手でもしてやってください。かなりきつい痛み止めを入れてはいますが、それでも痛いものは痛いはずです」

「あっ、はいっ」


 ノゾミの顔を見る前、初めて出会った時のような優雅な仕草でダミアヌスは檻へと向かっていく。

 そして、中国語で何事か言いながら、檻を閉ざしていた南京錠へ銃口を向けた。



                   ※※※


「なーんーぱー」

「ぱー」

「何よ、急に」


 唇をとがらせたヘイとイェンにじっとりした目で睨まれて、私はすこし後ずさる。


「キカ、ダミアヌスくんにナンパされてた」

「た!」

「あーもう、あれのどこがナンパに見えたの?」

「手を握ってた。話してるのは聞こえなかったけど、ダミアヌスくん、超イイ顔で笑ってた。キカも嬉しそうだったー」


 ヘイの頬が膨らむ。イェンは自由になる腕で、私のジャケットの袖をつかむ。


「うん! 俺たちあんな顔のダミアヌスくん見たことない。でもね、キカ、俺たちの方が絶対いいからね! ダミアヌスくんより若いから長生きするし、高い服も買わないよ! そのかわり、余ったお金はキカに使うよ!」

「そうだよ。ダミアヌスくん、たくさん稼ぐけどたくさん使うよ!」

「俺たち堅実!」

「つー!」


 ふっと思わず私は吹きだした。

 それを見て、ますます2人の頬が膨らんでいく。


「笑うなよー。キカ、俺たち本気なんだからねー。守られるだけじゃなくて一緒に戦ってくれる子なんか初めてだったんだ」

「キカとだったらどんなとこでも一緒に行ける! サイコー!」

「おー!」


 なぜかヘイとイェンが肩を組む。

 でも、その顔は真剣そのものだ。


「違うわよ。ダミアヌスは私を褒めてくれただけ。もう依頼人じゃなくて戦友だって。私の顔が嬉しそうに見えたのなら、ダミアヌスに戦友だって言ってもらえたから。手を握ってたのもこれから私は依頼人ではなくて戦友ですよって握手。それに、私、恋なんかしてる暇ないの、わかってるでしょ?」


 あ、と2人が口を開ける。

 だからどうしてそんなところまでシンクロしてるの? 笑っちゃいそうで困るじゃない。

 そのとき、ガン、ガン、と銃声が何度か響いた。それからがしゃりと扉が開くような音。

 聞こえてくる賑やかなざわめき。言葉はわからないけれど、それがみんな嬉しそうだというのはよくわかった。

 どうやら檻の扉が開いたらしい。

 そこにいた人々と中国語で何か話してから、ダミアヌスがこちらへ向かってくる。


「ダミアヌスくん!」

「くん!」


 さっきまでのヤキモチはどこへやら、ヘイとイェンはにこにこと笑み崩れながらダミアヌスを迎える。


「お疲れ様です!」

「です!」

「ああ。お疲れ。おまえたち、出血は増えてないか? 痛みは?」

「血は大丈夫。痛いのも我慢できる!」

「る!」

「ならいい。おまえたちが無事で本当に良かった。井原さんには何度礼を言っても足りないな」

「わかってるよ! だから俺たちいっぱいキカを褒め褒めしたよ!」

「よー!」

「そうか」


 素直すぎる二人の言葉にダミアヌスが苦笑した。


「じゃあ、もう十分だな」

「え?」

「えー?」


 ヘイとイェンがきょとんと首をかしげた。

 私も意味がわからなかった。


「井原さん、船が出ます。乗ってください」

「あ……そっか……キカ……逃げるためにここまで来たんだもんね……」

「お祝いしなきゃいけないんだろうけど、したくないや。ごめん……」

「私も……」


 したくないよ、と言いかけて、私は、血で錆色に染まった服を着たクー・ファンが近くに立っていたことに気付いた。


「聞いてみたんですが、やっぱり免許を持ってるのも日本語をしゃべれるのも俺だけです。人質の中の怪我人を運ぶ車は俺が運転するしかないですね」


 クー・ファンが言葉を綴るたび、唇を縫い合わせていた糸を抜いた穴から滴り落ちる血。眼帯をしてもその下から血がにじむ右目。


「そうか……。こっちも足が使えるのは俺だけだ。きついだろうが、頼む」

「はい」


 唇が動くたびに苦しげに歪められるクー・ファンの顔。

 その上、あのズタズタの腕でハンドルを動かしたらどれだけの痛みが彼を襲うんだろう。そんな痛みに苦しみながら片目だけで運転するなんてできるんだろうか?

 それより、意識を失わずに病院までたどりつけるんだろうか?

 想像したら怖気が立った。


「本当にすまないな。おまえは運び屋だから怪我には慣れてないだろうに。こいつらがやられたのが足じゃなきゃ、引っぱたいてでも運転させるんだが」

「えー、クー・ファンがかわいそうだよ!」

「だよ! 痛いよ! 俺たちだって痛いのに!」

「だが、俺たちのバンには怪我人が乗り切れないんだ。人数超過でデコに捕まるのは避けたい。俺がバンを、クー・ファンが自分の車をそれぞれ運転して怪我人を病院まで運ぶ。それしか……ない」

「大丈夫ですよ。同胞は助けるものです」


 クー・ファンが歪んだ顔のまま、笑おうとした。

 ……見てられない……!!


「クー・ファンさんは休んでいてください。車は私が運転します」

「は? 井原さん、船はもうすぐ出るんですよ。こいつらを運ぶのに付き合わせたら間に合いません。申し訳ありませんが、最初に話した通り、ここにいる人間にも船に乗る奴がいる。運ぶ人間はあなた以外にもたくさんいるんです。あなたのためだけに船を待たせるわけにはいかない。それに、今なら俺たちは奴らを完全に出しぬける。でも、このあとにこんなチャンスがまた来るかどうかは……」

「そんなのいいです! どうせ皆さんがいなかったら私は死んでました! もし次の船に間に合わなくてこの国から出られなくても、後悔したりしませんから! それより、助けてくれた人を見捨てる方が後悔します。私たち、戦友なんでしょう? それに、かっこいい男の子2人守れないなんて、女じゃないわ」


 最後のセンテンスを聞いたあと、ヘイとイェンが顔を見合わせた。何分か前に自分たちが私に投げた台詞を思い出したのか、くすくす笑いながらハイタッチをしてる。

 その私たちの会話の意味の分からないダミアヌスだけが、苦い表情で立っていた。

 そして、血をしたたらせているクー・ファンと私を交互に何度か見、ため息をついた。


「確かに……戦友だとは言いましたが……」

「ええ。言いました。だから最後まで一緒に戦います。それが戦友なんじゃないですか?」


 ダミアヌスの口から、もう一度、ため息。

 それから、どれだけ説得しても無駄だと諦めたのだろう。私にまたバンの鍵を渡した。


「デコに止められたときのために、そちらには日本語のわかる人間だけを乗せます。ヘイ、イェン、クー・ファン。もし何か聞かれたら、工事現場で事故が起きて至急病院に向かう所だと。救急車は重傷者で手一杯だったので、事務員の自分が命に別状のない怪我人を運んでいると言ってください。それならばデコも長い間拘束できません。……クー・ファン、傷に包帯を巻け。おまえの傷はどう見ても工事現場でできた傷じゃない」

「はい!」

「でも……本当に、いいんですか、井原さん」


 ダミアヌスが私に聞く。

 だから私は極上の笑みを浮かべて答えた。


「もちろん」と。

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