キカのいちばん長い日 4

 びくんとダミアヌスの肩が揺れた。

 彼のかなり後ろにいる私にも、その荒い呼吸音が聞こえてくる。

 そこにあるのは怒り。それも途方もない怒りだった。


「何を言う……! おまえらが……おまえがコスマスを殺したくせに! 俺の半身を奪ったくせに!」

「おっと、撃つのはやめておくれ。こちらには人質がいるんだよ」


 金井が檻に向かって大きな銃を構えた。ノゾミもクー・ファンの頭に銃を押し付ける。


「それに、あたしを殺したら、おまえにダミアヌスはもう死んでることを教えてやれなくなるよ。おまえは最期まで真実を思い出せないかわいそうなコスマスのままだよ。かわいそうに、かわいそうに。狂ってるのはあたしじゃなくておまえだよ。そう、おまえなんだよ」


 ノゾミが、着ていた服をブラごと大胆に引き下ろした。心臓の上あたり、そこには明らかに彼女の元の肌の色と違う皮膚と、流麗な筆記体で刻まれたタトゥーがあった。


「ほら。ここにダミアヌスはいる」


 銃を構えていたダミアヌスの腕が、わずかな間だけ、ゆらりと揺れた。


「クソ!殺してやる! 殺してやる!! おまえらはどこまでコスマスを苦しめれば――!」

「まだ思い出せないのかい? それほど辛かったのかい? それとも逃げたかったのかい? ……自分のせいで弟が死んだことから」


 ニンマリとノゾミが笑った。

 邪悪というのはこういうものだと思う笑い方だった。

 ダミアヌスの腕が小刻みに震えている。

 荒い息と一緒に、コスマス、コスマス、コスマス、と小さな声で言葉が吐き出される。

 冷静で、優雅なほど紳士的なダミアヌスの姿はもうそこにはなかった。

 私は困って視線をうろうろと動かす。相変わらず、ノゾミの顔には勝ち誇った笑みが乗っていて、金井はそんなことどうでもいいように檻に銃を向けたままだ。


「キカ、気を付けて。ダミアヌスくん、変だ」


 こそりと、イェンが私に話しかけた。


「何かあったら俺たちが盾になる。そしたら急いでワンくんの所に戻って」


 ヘイも振り返らないまま、小声でそう話す。


「道わかる? ワンくんのところに直接行くより、中華街に行った方がいいかな。行くなら横浜の中華街のドンロンて会員制の店だよ。ヘイとイェンの紹介って言えば入れてくれるから、そこからワンくんに連絡を取って。いい? ドンロンだよ」


 イェンの声には緊張の色が濃かった。

 私がこれだけダミアヌスを頼りにしていたのだから、彼らはもっとだろう。

 そして、そのダミアヌスの急な変貌に恐れをいだくのももっとに違いない。


「何かあったら近くのチャイニーズに声をかけるといい。関東のチャイニーズはだいたい俺たちのことを知ってるから、キカの手助けをしてくれる」

「ヘイ……イェン……盾になんかなっちゃ駄目……! 私より、私より、2人の方が必要としてる人がたくさんいるんでしょ? 『龍』の幹部なんでしょ?」

「でも俺たちの朋友のキカはこの世に1人きりさ」

「可愛い女の子1人守れないなんて男じゃないね」

「お、たまには気が合うな。イェンイェン」

「俺はラオヘイの弟だからね。そういうわけだから」


「「キカは逃げるんだよ」」


 前後に分かれて立っているのにきれいにハモる声。

 それが二人にもおかしかったのか、くすりと笑い声が聞こえた。


「どうせ俺たちはダミアヌスくんに拾ってもらった命だ。ダミアヌスくんについてくよ」

「檻の中の人質もみんなそう言ってる。『自分たちなんかどうでもいい』『助けるな』って。本当だよ。キカが中国語がわからないからって嘘ついてるわけじゃないよ」

「それくらい俺たちは」

「ダミアヌスくんを信じてるんだ」


 二人の声に、少しだけ、いつものような明るさが戻る。

 そして、お互いの間に挟むようにしてくれていた私の体を、強引に後ろに下げた。


「いやっ!」


 私は抗うけれど、もちろん二人の力には敵わない。

 一瞬だけ、二人は私へと振り向き、ぱちんと同時にウインクをした。


「お客様、劇場ではお静かに」

「ただいまより、本編が始まります」


                 ※※※


「……違う! 俺はダミアヌスだ! おまえを殺してコスマスを剥ぎ取ってやる!」

「威勢がいいねえ。ここに証拠があるのにおまえはそれより自分が正しいと? 目の前にあるものを否定すると? ノゾミさんはいろんな哲学を聞いてきたが、そんなのは初めて聞いたよ。シュレディンガーの猫よりひどいじゃないか。いいかい? 箱を開けなくても、ここにダミアヌスはいるんだよ?」


 ノゾミが、長く尖ったネイルでタトゥーを指さす。


「それは俺がコスマスに彫ったタトゥーだ。互いにこの名前を付けた時に。ここからでもそれがコスマスと彫ってあるのが見える。それに何より……俺の胸にはダミアヌスのタトゥーがある」

「だからそれがいちばんの証拠なんじゃないか。ああもう。チノは本当に馬鹿だから嫌いだよ」


 呆れたようにノゾミが首を振った。


「おまえたちは互いに互いの名前を彫ったんだ。どんなときでも2人が一緒にいられるように。ダミアヌスの心臓の上にはコスマス。コスマスの心臓の上にはダミアヌス。それくらい、ノゾミさんが知らないと思ってたのかい? 敵のことを調べないと思っていたのかい? かわいそうに。おまえたちは世界に2人きり。だから1人になっても2人でいられる仕組みを作ったんだよ。……初めは演技だと思ってたが、まさか本当に記憶を書き換えてたなんてね。いくらノゾミさんでも信じられなかったよ。でもそうでもしなきゃおまえはダミアヌスになれなかったんだろう? 憐れなコスマス。罪悪感? 責任感? どちらにしても、自分を殺して狂わなきゃ戦うこともできない弱い男」

「違う……違う……」

「新宿にダミアヌスが戻ったと聞いたときにはノゾミさんは心から驚いたよ。頭を潰されて、脳みそをはみ出させながら生きていられる男なんかいるのかとね。いたら今までの遺恨を流して暁財団に就職してくれと頭を下げてもいいと思ったくらいだ」


 うくく、とノゾミが笑う。


「でもそんなことありえないのはノゾミさんはわかってた。わかってたんだよ。ダミアヌスはノゾミさんが挽肉機にかけたし、ノゾミさんの胸にはあいつの皮がくっついてる。何度も何度も何度も! 財団の邪魔をしたノゾミさんの邪魔をした憎い憎い男が! ノゾミさんが生きてきた中で最高のトロフィーが! ノゾミさんの血肉で生かされてる! ああもう、ゾクゾクするじゃないか!」


 銃を構えていたダミアヌスの手が少しずつ下がっていく。

 鋼のようにピン、と力の籠っていた体も、どことなく緩んだように見えた。


 どうしたの?どういうことなの?大丈夫?……大丈夫?ダミアヌス?


 私はもう、自分が逃げ切れるかなんてことより彼の心の方が心配だった。

 ダミアヌスの動きはすべて、ノゾミの言うことが真実だと言うことを表しているように見えたからだ。


「どうやら思い出してきたようだね。よかった。本当に良かったよ。もう一度ダミアヌスを殺したってノゾミさんの気はちっとも晴れやしない。晴れやしないのさ。あいつが命がけで守った兄を殺してようやくダミアヌスに勝ったことになるんだからね。なにしろノゾミさんは負けるのなんか大嫌いなんだ。特におまえらみたいな腐れチノにはね」


 服を元に戻しながら、うくく、うくく、と愉快そうにノゾミは笑い続ける。


「おまえはコスマス。正義感しかない弱い男。弟に守られなければ生きることもできなかった男。思い出したらもう銃なんか撃てないだろう?怖くてあたしの前に立つことなんかできないだろう? ……あのときだって、泣きながら逃げ出したんだからね!」


 叩きつけるようなノゾミの言葉。

 両腕をだらりと垂らし動かなくなったダミアヌス。


「さあ、これでおしまいだ!ノゾミさんの長い復讐もやっと終わるのさ!」


 ノゾミが叫ぶ。

 威嚇するように、何発か銃弾がダミアヌスの足元に打ち込まれた。


 どうしよう、どうしよう。私がそんな益もないことを考えた瞬間、ヘイとイェンが見事にシンクロした動きで飛び出した。


 そして、2人ともが、構えていた銃の引き金に指をかける――。

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