キカのいちばん長い日 3

 私は息を呑む。


 その女の言葉通り、確かにその男の人は喋れなくされていた。

 ……上下の唇が太い糸で乱暴に縫い合わされてる……。

 そしてそれでもまだ何かを伝えようと必死に開かない口を動かしてる。


 それだけじゃない。

 右目はえぐられたみたいでからっぽ、そこからは血の涙。体からも血が滴り……。

 切り裂かれた服から露出した男の人の手足には縦横に細い傷が走り、まるで碁盤のように見えた。


 その顔に浮かぶのは、痛みなんか越えたような、苦悶に満ちた表情。

 彼がどんな拷問を受けたのか見当もつかなかった。

 吐き気が込み上げてくるのを必死で抑える。

 いやだ……こんなの、いやだ……。


「本当に喋らない男でね、苦労したよ。ただ一言、おまえらが安心するようなことを喋ればいいと言ったのにちっとも口を開きゃしない。困ったね。ノゾミさんは本当に困ったよ。だから、使わない口ならいらないだろうって縫ってやったんだ。優しいね。ノゾミさんは本当に優しいんだよ」

「この……キチガイ女め」


 ダミアヌスがようやく搾り出したような声で応じた。

 ヘイとイェンの顔は明らかに凄まじい怒りを堪えていた。

 ダミアヌスもそうだろうけれど、そこまでの表情を出さないのは組織のトップとしてさすがだと思う。


「おやおや、きみはよく喋るね。クー・ファンとは正反対だ。まったく、おかげでノゾミさんは面倒くさい仕事をする羽目になったよ。ノゾミさんは、あたしたちの記録からクー・ファンを探して、声を探して、パソコンの中に再現したのさ。ああ本当に面倒だったよ」

「そんなことができるわけがない」

「暁財団がなんのために優秀な科学者たちにたくさんの金をやってると思ってるんだい? 各省庁、各団体のトップに人材を送り込んでるんだと思うんだい? 財団の理念に賛同する政治家はなんのためにいると思うんだい? 今の首相だって財団の支援者の一人だ。ただ、おまえが知らないだけなんだよ。まあ確かに長い言葉は合成には不向きだがね、あの程度ならわけないさ。特におまえらみたいな馬鹿なチノを騙すにはね。本当に馬鹿だよ、おまえらは。70年前からちっとも変っちゃいない。あのくそったれで陛下に不敬な国の中ですら、遺伝子プールの最下層に落とされ、繁殖も許されない腐れチノ」


 女がまたニンマリと笑う。

 私には、馬鹿にされているというニュアンス以外、よくわからない内容だったけれど、ダミアヌスたちには意味が通じたみたいだ。


「……それはおまえらも同じだ、小日本シャオリーベン。俺たちは同じアメリカから拒否された奴隷以下どうしだろう?」

「このチノは何を言ってるんだか。かわいそうに劣等人種は字も読めないんだろうね。総統は我々を認めた。我々は神聖な現人神を頭上にいただく東洋の純粋アーリア。二重の名誉を持つ人間なのさ」

「キチガイ女、字が読めないのはおまえも同じだ。一度原語で「我が闘争」を全部読んでみろ。俺もおまえも、みんな同じ穴の黄色い猿だ。おまえの大好きな総統がそう書いてる」


 ダミアヌスのそれは、怒りを底に湛えてはいたけれど、静かな声だった。

 それを聞いて金髪の女が目をカッと見開く。

 真っ赤な唇から、すごい声量の怒声が溢れた。


「黙れ! 一緒にするんじゃないよ腐れチノ! あたしたちがおまえらなんかと!」

「ノゾミさん」


 水郡線で会った男が、女の肩に手をかけた。

 この男の目はからっぽで、あのときはとても怖かったけれど、今はこの女の狂った目の方が怖い。

 だから、敵だとわかっていても、女を落ち着かせてくれて、すこしほっとした。


「ああ、金井くん、ありがとう。つい感情的になってしまったよ。動物に理を説いても無駄だというのにね」


 くふん、と女が鼻を鳴らす。

 そして、また、ニンマリとした笑い。


「さあ、これを見ても同じことが言えるかい? 腐れチノ」


 女の手が低く垂れた鎖を引いた。

 すると、コンテナの山の上の方から、人が詰まった狭い檻が下りてくる。

 彼らはみな、私にはわからない言葉で口々に何かを叫んでいた。

 でもあのリズムはたぶん中国語。

 ということはあれはみんな、私と同じ船に乗るはずだった『龍』の仲間たち……?


「クー・ファンだけじゃないさ。あたしたちはここにいたおまえらの仲間を全部捕まえた」


 ギリリ、とダミアヌスの歯ぎしりが聞こえた。

 ヘイとイェンも見たことがないような険しい顔をしている。

 銃を持つ二人の手にもさっきよりずっと力が入っているように見えた。


 そうなんだ。やっぱりそうなんだ

 私はもう、どうしていいかわからなかった。


「さっきも言ったけどね、ノゾミさんは優しい。とても優しい。劣等民族に慈悲をやるほど優しい。井原とおまえ。それだけでいいよ。それだけで、こいつらと」


 女が自分の後ろの檻と、目の前のクー・ファンの体を指さす。

 そして、信じられないことに、その指が次にさしたのはヘイとイェンだった。


「後ろの二人は助けてやる。まあ、次に会った時には殺すかもしれないがね。今回は、今回だけは、無事に帰してやるよ」

「……ふざけるな……っ」


 ダミアヌスの足元からジャリっと音が聞こえた。

 きっと、怒りを抑えるため、足先にまで信じられないほど負荷をかけているんだろう。


「何を言うんだろうね、このチノは。ノゾミさんはいつも真面目さ。真面目だからここにも二人だけで来たんだ。ここには財団の奴らは誰もいないよ。音声合成をやらせた科学部も帰らせた。ここにいるのはノゾミさんと、ノゾミさんのいい子の金井くんだけだ。おまえを処分するのが組織なんかじゃあノゾミさんは満足できないんだ。ああ、できないんだよ。ノゾミさんが自分でおまえを始末したいのさ。あのとき逃げられた屈辱はそれでしか晴らせないんだよ……!チノごときにこのあたしが……!」


 また、女の目が見開かれた。

 青い瞳はきっとカラコンだろうけど、もうそれでも目の中の空白の範囲をカバーできず、白い巨大な丸に青い点が浮いたような異様な目つきになっていた。


「逃げられた? とうとう本気で頭がイカれたか、キチガイ女。俺はおまえと直接やりあったことはない。だからおまえから逃げたことなんかない」


 きっぱりとダミアヌスに言い切られ、女の目が元に戻る。そして、愉快そうに細められた。


「ふむふむふむふーむ。ここまでとはね。そうだ。あたしのことは名前で呼んでおくれよ。いつまでもキチガイ女じゃあんまりだ。あたしはノゾミ。中垣ノゾミさ。後ろのいい子は金井ヨシトくんだよ。そのかわり、あたしもおまえをちゃんと名前で呼んでやるから」


 女が笑う。今までのニンマリとした狂った笑いとは違う、花のような笑顔だった。

 悔しいことに、すこしだけ、綺麗だと思ってしまった。

 女の赤い唇がゆっくりと動く。

 そして、信じられない名前でダミアヌスを呼んだ。


「コスマス」

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