キカのいちばん長い日 1
ダミアヌスがなめらかなハンドルさばきでバンを進めていく。
ヘイとイェンは私を守るため、と言って、私の左右を固めるように後部座席に席に座っている。
……私を挟んで指相撲をしながら、だけど。
「イェンまた負けた―」
「うっせー、ヘイがズルするからだろ」
「はあ? いつ俺がズルしたんだよ」
「いま。いーま! 変顔して俺が油断した隙に攻撃した!」
「俺は可愛い弟に人生の厳しさを教えてやってんの。俺の変顔ごときで集中力が切れるんならケンカのときはどーすんだよ」
「ケンカのときに変顔する奴なんていねーもん! 馬鹿兄貴。だよね? キカ?」
……そういう話題は私には振らないでほしい……。
「キカに聞くなんて卑怯だろ! 馬鹿イェンイェン!」
「馬鹿はおまえらだ。井原さんを困らせるな」
ぴしゃりとダミアヌスに会話を断ち切られ、ヘイとイェンが同時に肩をすくめる。
「……ごめんなさいー」
「さいー」
「中韓に渡りやすい北陸側の漁港にも俺たちのダミーをばらまいたが、あのキチガイ女ならたぶん俺たちの動きも読んでる。だから太歳のおまえたちを井原さんに同行させたんだ。おまえたちは井原さんを守るためにいる。その役目もまともにできないのなら、いますぐドアを開けておまえらを車から蹴り落とす」
「やめてよ! こんなスピードで飛び降りたら死んじゃうよ!」
「悪いのは俺だからヘイは助けてあげて!」
「……冗談に決まってるだろう。おまえらは変なところで真面目だな……」
「俺たちはいつだって真面目だよ!ねー、ヘイ!」
「そうだよダミアヌスくん! だから指相撲も真面目にやってたんだ!」
「……俺の前で金輪際、指相撲の話はするな。頭が痛くなる」
ハンドルを握ったままダミアヌスがため息をつく。
私の左右から小さな声で「怒られちゃった」「ダミアヌスくんは指相撲嫌いなんだろ、きっと」「そっか。じゃあここではもうやめよう」「ああ、やめよう」とこそこそっと聞こえてきて、ダミアヌスには申し訳ないが、私は笑いを噛み殺した。
たぶん、そういう問題ではないと思う。
※※※
車は昨晩の田舎の道路から一転して、馴染みのある都会の風景の中を走っていく。青い行き先文字盤には『千葉』の矢印が見えた。
「茨城には戻らないんですか?」
「はい。俺はあちらにはあまり馴染みがいないもので。それに、俺はフォンファと違って、木を隠すなら森に隠せと思う方なんです」
「森?」
「ここまで来たなら話しても大丈夫でしょう。井原さん、あなたが向かうのは銚子港です。ちょうど今日、そこから俺たちの同胞を南米に運ぶ船が出るんです。あなたもそれに乗れば安全に出国できる。大丈夫です。何人も乗る船です。一人ではありませんよ」
「お気遣い、ありがとうございます」
「いいえ、そんなこと。その方がこちらにも都合がいいですから。銚子港は巨大な漁港ですが、その分そこにいる人間の数も多い。暁財団でもあそこをくまなく探すのには手間取るはずです」
ダミアヌスが言葉を切った。ミラーに映る彼の唇には昏い笑みが浮かんでいた。後ろを振り返りもしなかった。そこにあったのはダミアヌスの顔ではなく、『龍』の代表の顔。
「だいたいあそこは中も外も人が多すぎる。もし俺たちを見つけられたとしても、奴らはあまり派手なことはできません。それに――」
そこから先に続くのは、今まで彼の口からは聞こえたことのない、底冷えのするような声。
「レーダーの前にジャミングのアルミ片を撒くようなものです。俺たち以外の人間の分母を増やせば、俺たちに弾が当たる確率は加速度的に減っていきます」
「それは、どういう意味……」
「言葉通りの意味ですよ。……井原さん、あなたは自分と他人、どちらが大切ですか? 自由になって水辺でよく冷えたビールを飲む夢を捨てるんですか?」
ぎゅっと胸が痛んだ。
戦うと決めたのに。殺しに来るやつは殺し返す決意もしたのに。
絶対に負けないと自分に誓ったのに。
なのに、私はダミアヌスの質問に即答できなかった。
自分に降りかかるものならば立ち向かえる。
でも、考えもしなかったのだ。私たちの争いに無関係な人間が巻き込まれることなんて。
頭の中で、壊れた時計の針が、カチン、カチン、と十二と一を行きつ戻りつしている音が聞こえた気がした。
「いや、すみません。答えなくて大丈夫です。非礼でした。ただ、俺たち以外にも被害が及ぶかもしれないことは許してください。あれは手加減して勝てるようなものではないんです」
「……わかりました」
仕方のないこと。仕方のないこと。
私はそう自分に言い聞かせる。
あ、でも、私はもう、私の生きたいという欲の前に、何人もの人間を死なせた。
李マユミと、私の旅行先で肉塊になって見つかる、私の身代わり。それに、フォンファ。
見えないところで殺されるのならOKで、見えるところで殺されるのがNGなんて二律背反だ。
「あの……心配しないでください。指示されればちゃんと撃ちますから。……誰でも」
ダミアヌスが少しだけ目を見開いた。きっと予想外の回答だったんだろう。
「ありがとうございます。できるだけそうならないよう気を付けます。――あと二十分ほどで銚子港につきます。井原さんはこれからのために体を休めていてください」
「はい」
「ヘイとイェンは銃器の最終チェックをしておけ。直前にやるような無様なまねはするなよ」
「「はーい」」
私はダミアヌスの指示通り、シートにゆったりともたれた。
そして、ヘイやイェンの体越しに道沿いの景色を眺める。
こんな平凡な日本の風景を見るのも、これが最後になるかもしれないのだから。
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