逆襲

 数日ぶりの、なんの心配もしなくていいシャワーの時間。

 それだけでも充分なのに、そこにはアジュバンのシャンプーとコンディショナー、それにドゥ・ラメールのアイテムがフルラインで揃っていた。

 びっくりした。こんな所でドゥ・ラメールに会えるとは思えなかった。女がいちばん喜ぶ物を的確に渡してくる、彼らはいったい何者なんだろう。

 ……まあ、とりあえずは素直に喜ぼう。欲しいけれどまだ今の自分には手が出せないな、なんて思っていた高価なブランド。それをこんな所でフルラインで使えるなんて夢みたいだ。

 洗面台の鏡の前で肌を整え、いつもの自分に戻れるように顔に化粧を施していく。

 憧れていたブランドの、うっとりするような香りが漂い、私はほう、と息をつく。


 でも、キカ、休み時間はもう終わり。ここを出ればあとはきっと地獄だけ。


 そう、鏡の中の自分に言い聞かせながら。

 やっぱり女にとって化粧の効果は絶対だ。鏡への独り言はまるで魔法のように私の中に染み渡り、背筋が伸びる。わずかにあった怯えも消え、燃えるような感情が全身に満ちる。

 それは、この理不尽な『鬼ごっこ』への怒り。

 ああもう。行く先が地獄でもかまわない。奴らが私を殺そうとするなら殺し返してやるだけだ。私の腕は細いけれど、それを使うことにためらいがあるなんて思うな。


「負けない。私は絶対に負けない」


 彼らが用意してくれていた服に袖を通しながら、私は一人きりの宣戦布告をした。

 逃げるのはもうおしまい。私は戦ってやる。



                    ※※※



「シャワー、ありがとうございます」

「いいえ。女性の好みはよくわからなくて心配だったのですが、アメニティはいかがでしたか?」

「最高でした!」


 私が思わず笑顔で答えると、ヘイとイェンがなぜかハイタッチした。え?


「やった! よかったね、ワンくん」

「ワンくん、なんとか知恵袋で『女の人が初めて家に泊りに来ますが、どんな化粧品を用意すれば喜んでもらえますか』って質問したんだもんねー」

「で、解答欄が『おめでとう!』コメントで埋め尽くされちゃってさ、ワンくん頭抱えてんの。『わたしが知りたいのは化粧品の銘柄なのに……』って」

「あ、こら!ヘイ、イェン! それは言わない約束でしょう!」

「いいじゃん、ワンくんが頑張った証拠だもん。なー、ヘイ」

「だよ、イェン」

「あの……今のは聞かなかったことに」


 うつむいたワンさんの頬がかすかに赤い。

 私は笑いを堪えながら「はい」とうなずく。


「とりあえず、用意してくださったものは、女なら誰でも喜ぶものだと思います」

「ならばよかった。知恵袋に見切りをつけて百貨店に行った甲斐がありました」

「仕方ない、ワン。ここに女性が来るのは初めてだからな」


 それまで黙っていたダミアヌスが助け船を出す。

 私はそこにかすかな違和感を覚えた。


「初めて……? ずっと暁財団と戦ってると……」

「でも、ここまでたどりつけた女性は井原さんだけですよ」


 え?


「パニック、発狂、自殺、あるいは俺たちの指示を聞かずに奴らに殺される。女性はそんなのばかりだったんです」


 ダミアヌスがなんでもないことを言うような口調で、怖気が立つことを訥々と話す。

 そうか。私はとても幸運な一人だったのか。

 でもそれは、宮野やそのほかの、裏の世界の男に慣れていたおかげかもしれない。

 私は、フォンファを紹介してくれたのとはまた別の意味で、宮野に感謝をした。


「だから俺たちはキカが来るのをすっげ楽しみにしてたー!」

「たー!」

「わたしもですよ。あの暁財団に銃を突きつけ、ここまで逃げ切った冷静な女性はどんな方かと期待して待っていました」

「だからさ、俺はさ、もっとゴリラみたいな女が来るのかと思ってたけど、キカ、可愛いから嬉しい! 守るんならゴリラより美人!」

「うん!美人! しかも強い! 俺、キカ、好き!」

「あー、ヘイ、ずるい。俺もキカ好き! 強くて可愛い子、タイプなんだ。俺さ、普通の日本のパスポート持ってるからイギリスとか行くの超簡単だよ?」

「俺だって持ってるじゃん、普通の日本のパスポート。ね、キカ、イェンより俺の方がいいヤツだよ?」


 ヘイとイェンが私に向かって、子犬のようにわちゃわちゃと群がってくる。その頭にまたダミアヌスの拳が落ちた。

 これがチャイナマフィアの武闘派? その無邪気さと、ダミアヌスが告げた二人の役割がどうしても繋がらない。

怖くもなんともないし、それどころか、その無垢さに目を細めたくなる。――親しみやすい、なんて、そんなことまでも。


「いてっ」

「痛いよダミアヌスくん!」

「俺の客をナンパするな。いま大事なのはあのキチガイどもの手から井原さんを逃がすことだ。個人的なコンタクトはそれから取れ」

「「はーい」」


 二人の声が綺麗にハモった。

 恋とかそういうのは抜きにして、確かにこの二人といれば退屈しないだろうとは思う。犯罪者? それがなに? 背骨のないような普通の男より、ずっとヘイとイェンの目の方がいきいきしてるわ。


「だが、いい案かもしれませんね。井原さんには『龍』の英国支部の足掛かりになっていただく。暁財団も国外にまでは……特に戦勝国には手を出せませんし、井原さんのように、一見、若くて綺麗なだけの女性なら交渉ごともうまく進むでしょう。出国した井原さんをわたしたちが守り続ける口実もできます」

「ほらー、ワンくんもこう言ってる」

「るー」

「まあ、考えておく。井原さんの意思もあるしな。それになにより、そんな話は井原さんがイギリスについてからだ。……井原さん、突然こんな話になってしまって申し訳ありません。どうもうちの若いのは頭の中身も若すぎるようで」

「いいえ。私が役に立てるなら。料理教室と兼業できるなら、ですけど」

「かっけー! キカ!」

「うん、かっけー! アクション映画の人みたいー!」

「……本当に、すみません。馬鹿ばかりで」


 ダミアヌスが神妙な顔で頭を下げる。なんだか妙におかしい。

 こみあげてくる笑いをせき止めるために、私は唇を手で覆った。


「ところでおまえら、用意はできたか?」

「だいたい!」

「ほとんど!」


 ヘイとイェンが色違いのリュックサックをダミアヌスに見せる。


「すぐ手を突っ込める側面のポケットにはちっこい銃が入ってます! まずこれで威嚇射撃して」


 イェンがだぼっとしたジャンプスーツのパンツをまくり上げた。想像していたよりも筋肉質の足には、細い銃身の銃がホルダーに収まって固定されていた。


「これでポンコロ撃ちます!」

「その間に俺がリュックから荷物を全部出して一斉掃射します! だよね、ヘイ」

「おう、イェン」

「どれ、見せてみろ」


 ダミアヌスが二人のリュックサックの中身を改め始める。

 私もそっと後ろから覗いてみたけれど、わかったのは銃やナイフ、それに見たこともない形のものがぎっしりと詰まっていることだけだった。


「ナイフはベストにも装備してるよ! 油断してたら至近距離から首を掻っ切ってやるんだ」

「俺はアイスピック! 心臓を突き刺してやる!」


 物騒な言葉とは裏腹に、遠足に持って行く準備を話しているような、楽しそうなヘイとイェン。

 これならば、この二人が武闘派のトップだというのも、けして誇張ではないのだろう。

 しかも、作り物ではない無邪気な表情のおかげで、薄手の黒いベストの上にカーキ色のジャンプスーツを着たヘイも、ネイビーのジャンプスーツを着たイェンも、ミリタリーの好きなただの若者に見えた。


「井原さんもこれを」


 ダミアヌスが私に、白いスタンドカラ―のジャケットを渡してくる。仕立てもデザインもいい上に、生地が柔らかくて着心地もいい。


「ダイラタンシージャケットという防弾ジャケットです。あそこの馬鹿兄弟がきているベストと同じ素材でできています。ただ、弾は防げても衝撃は防げません。着弾すれば骨が折れたりする場合もあるので過信はしないでください。それから、至近距離からの大口径銃撃も防げない場合があるので、指示なしにはむやみに敵には近寄らないこと」

「はい」

「前のジッパーは完全に上まで上げてください。首を守るため、襟を上げても不自然でないような形に作られていますから」

「わかりました」


 私はその場ですぐにジッパーを上げる。ダミアヌスが満足げに微笑んだ。


「よく似合っています。女性のことならダミアヌスくんの方が向いていますね」


 お世辞だろうが、ワンさんもそんなことを言ってくれる。


「ありがとうございます」

「いいえ。あなたのような女性に会えてよかった。あなたの眼には炎が燃えているように見えますよ。今まで奴らに追い詰められてきた人間の、諦めに濁った眼とは違います」

「や……なんか、そんな褒めてもらえると照れます」

「真実ですのに。井原さんは謙遜の美徳までお持ちなんですね」


 相変わらず、柔らかく笑うワンさんを見て、本当に女性に強いのはダミアヌスやヘイとイェンの兄弟よりこの人だと思った。

 こんなセリフをさらりと言える男はなかなかいない。しかも無意識なのがよけいに性質が悪い。


「井原さん、念のためあなたにも銃をお渡ししてもいいですか?」

「あ、はい」


 ダミアヌスに問われ、私はてのひらを差し出した。そこに乗せられた小ぶりの銃。

 それは金属の冷たさと重さを持っていて、これから私が向かうのがどんな場所かを示唆しているようだった。

 でも、フォンファに銃を渡されたときのように、私はその重さにはひるまない。

 だって、これが必要なんでしょう? 今ならもう、そうざっくりと割り切れる。


「フォンファの用意したようなプラではなく本物なので多少重いのですが、これでも銃の中では軽い方です。何しろ、通称、『レディ・スミス』ですからね」


 私を安心させるように、銃から私に視点を移し、ダミアヌスが微笑む。


「ダブルアクションなので難しいことを考えずに引き金を引いてください。ただし、撃つときは狙いがつけづらいので相手の腹部を狙って」

「あ、それはフォンファに教わりました。おまえは銃の腕なんかないんだからって」

「そんなもの、ない方がいいんですよ。銃の腕がある人間は人をたくさん殺した人間です。でも……やむを得ず撃つときは、銃を持つ手はまっすぐ伸ばして、銃を持っている方の手の肘から手首の間をもう片方の手で支えて撃つことをお勧めします。九mmパラベラムという反動の少ない弾を使っていますが、それでも初めての時はきっと音と衝撃に驚くはずです」

「わかりました」


 私のてのひらの銃の上に、さらにダミアヌスの手が載せられる。

 金属の冷たさが、すこしだけ和らいだ。


「大丈夫。あなたならできますよ」

「あー、ダミアヌスくん、キカといい雰囲気になってる! ずるいー!」

「ずるいー!」

「銃の撃ち方のレクチュアをしてただけだ! それよりおまえたち、プランは頭に入ってるんだろうな?」


 ダミアヌスがコンコンと自分の側頭部を叩く。


「任せてよ、ダミアヌスくん。俺たちは『龍の太歳』だよ」

「俺はイェンがいれば一個中隊だって怖くない」


 ヘイとイェンが、互いに顔を見合わせてにやりと笑ってうなずいた。

 私ははじめて、彼らの素顔を見た気がした。


                    ※※※


「さて、『龍狩り』をはじめようか」


 俺と一緒に煙草を吸っていたノゾミさんが、煙草をもみ消して、ゆっくりと立ち上がる。

 二人の間に流れていたなまぬるい空気を断ち切るように、頭上から、ジャコッと銃の動作を確かめる音が聞こえた。


「ノゾミさんはあいつらを狩り立てる。そう、狩り立てるんだよ。だから金井くん、今度こそノゾミさんにきみのいいところを見せておくれ」


 そして、俺の返事を待つでもなく、ノゾミさんの真っ赤な唇がニンマリと笑ったのが見えた。

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