『龍』の子供たち
少し変わった匂いが鼻につき、私ははっと目を覚ます。
もしかして、ガスオーブンでチキンを焼きすぎて……。
半分眠ったままの頭でそこまで考えたとき、私にはもうそんなものはないのを思い出した。
「おはようございます」
近くの椅子に座っていたダミアヌスが微笑む。
そして、読んでいたらしい本をテーブルに置き、私が寝かされていたソファベッドの所へとやってきた。
落胆と、安堵。
これまでの生活には戻れないこと、でも私を確実に守ってくれるはずの人がいること。
……悲しむよりは喜ぼう。
少なくとも、私はもう一人で逃げなくてもいい。
「よく眠っていたので起こしませんでした。安心してください。ここは俺たちのヤードです。いま、ツレのワンが食事を作っています。男所帯ですが中華料理だけは本場の味ですよ」
昨日とは違うスーツのダミアヌスがそんなことを言いながら、私が体を起こすのを手伝ってくれる。
「食事が終わったら着替えもシャワーも用意があります。何も心配しないでください。……食べられそうですか?」
「もちろん。何もかも、ありがとうございます」
「いいえ。お客さまは神様ですから」
日本人だとしか思えないダミアヌスの言葉に、テーブルにつきながら私が笑う。
それを見て、ダミアヌスも嬉しそうに目を細めてくれた。
「元気そうでよかった」
「それが取り柄です。食いしん坊は、強いんです」
「あなたが?」
こんなに細いのに? と目を細めたままダミアヌスが問う。
「ええ。食べることに執着する人間は生きることへの執着が強いそうです。……大学の先生の受け売りですけど」
「ああ……でも、確かにそうですね。何かあると食べられなくなる人間は、ほかの部分も弱いかもしれない」
「そうですよ。食はすべての源です」
そう言いながら、椀の乗ったお盆を持つ男が、私たちのそばに立った。
私の持つ中国人の服装のイメージそのものの、マオカラ―のゆったりとした紺の上着の上には、同じくゆったりとした笑みを湛えた顔が乗っていた。
細い穏やかな目、しゅっとした鼻筋、小ぶりな口。どのパーツも小さいので余白が目立ちそうな顔立ちなのに、それぞれが薄い白い皮膚の上に綺麗に調和していた。年は見た目からは図りづらいけれど、三十代くらい……ダミアヌスよりすこし若いくらいだろうか。
よく、中華料理店に飾ってある美人画の中にいそうな男だった。
「ザオシャンハォ。シャオジェ、わたしはワンです。よろしくお願いします」
大ぶりな器を男――ワンさん――がテーブルに置く。
たっぷりと粥が盛られ、レンゲが刺さっているそれは、ふわふわとした湯気とおいしそうな匂いを漂わせていた。
「いい匂い……」
「よかった。ワンはこのあたりの料理屋のまとめ役で、自分でも作るんですよ」
「朝と言えば粥なので。ありあわせのものですが。ダミアヌスくんもどうぞ。わたしは済ませたので大丈夫です」
「悪い。ありがとう」
「いいえ」
ことり、とダミアヌスの前にも椀が置かれる。ダミアヌスの指が軽くテーブルを叩いた。
レシピを増やすために中国に料理を習いに行った私にはわかる。あれは中華式の礼だ。
私も慌てて指先でテーブルを叩く。すっかり忘れていた。
「あ、我々のしきたりはお気になさらず。どうぞ、井原さん。お客さまからお先に」
ダミアヌスに促され、私はレンゲを手に取る。
「あ、ヨウティヤオ! これ私、大好きなんです。……わ、このお粥おいしい!」
声を上げた私に、一瞬、ワンさんが驚いた顔をする。
それに気付いてくれたのか、向かいで粥を啜っていたダミアヌスが顔を上げて説明をしてくれた。
「井原さんは料理研究家なんだ」
「ああ、それで。日本人でヨウティヤオをご存知の方はめずらしいので。実は……疲れたお客様がいらっしゃると聞いて金華豚と干し鮑で出汁を取ったんです。喜んでいただけてよかった」
ワンさんがお盆を胸に抱えてすこしはずかしそうに微笑う。
「えー! 高級食材じゃないですか!」
レンゲを持ったまま叫ぶようにする私がおかしいのか、ワンさんが今度は声に出してくすくすと笑った。
「ダミアヌスくんの大事なお客様はわたしたちの大事な同胞です。そして、同胞を大切にするのが異国で成功するコツです」
その笑い声に私の胸はなぜかあたたかくなる。
たった一日、しかも金を払っただけの客を『同胞』と呼べるだけの度量。
ダミアヌスは、自分たちは二つに引き裂かれたと昨日話していたけれど、『二つともを自分のものにした』の間違いではないかと思う。
ただそれは声にはならない。
私が言っていいことでもない。
「あー! もう! おいしい!」
代わりに私は粥の味への正直な感想を口に出す。
日本人以外のアジアンには謙遜より正直な物言いが好まれる。そう、いろいろな国の料理を食べ歩くうちに知るようになったから。
「それは本当によかった」
「ワン、ほかの奴らは」
「いますよ。ほら、
ダミアヌスに問われたワンは、背後の閉まったドアに声をかける。
その声を合図に、ドアから二人の小柄な男が飛び出してきた。
子犬。
それが私の彼らへの第一印象だった。
「はーい!」
「すげえ待ってた!」
短く刈られた黒い髪とくりくりした黒い目が可愛い。それにふくっとした唇も。
二人とも、シャツとジーンズだけという軽装のせいで、ダミアヌスやワンさんよりもずいぶん若く見える。
十代? 二十代? よくわからない。
「はじめましてー!」
「ましてー!」
その二人の目が私を見て本当に楽しそうに笑う。
まるで、これから一緒に遊びに行くみたいに。
「な、ワンくん、あれ、やろう」
「ダミアヌスくんに怒られますよ」
「俺が怒られるからー」
「からー」
「……君方は仕方のない人たちですね……」
ちょいちょいと服の裾を二人に引かれ、ワンさんが渋い顔をしてうなずく。
……なにが始めるんだろう?
「えーと、先程も言いましたが、わたしはワンです」
「タンです!」
「メンです!」
「……それで?」
ダミアヌスがタンとメンの頭に拳を落としながら、私が聞きたかったことを聞いてくれる。
それにしてもいつの間に立ちあがったんだろう。素早い。
「わ、わんたんめん……」
「そうか、そうだったのか。おまえらはタンとメンだったのか」
「痛い、痛いダミアヌスくん!」
「ワン、ツー、スリーはやるなって言ったじゃん。だから新ネタ考えたんだ!」
ぐりぐりと拳を押しつけられて二人が暴れる。
なんだか、この三人は仲のいい兄弟みたいだ。
ダミアヌスはコスマスともこんな風だったんだろうか。
だったら彼が自分のことを『いい兄貴だった』というのはうぬぼれでもなんでもない。
「俺の客にネタ振りするな!」
「ダミアヌスくんだってこの前俺らのネタで笑ったじゃんー! イーアルサンスーリカシャカイー!!」
「ダミアヌスくん、この辺で。お客様も笑ってくれました」
ワンさんが穏やかに三人の間に割って入る。
そして、二人の頭の上からそっとダミアヌスの拳を外した。
「仕方ないな。ほら、今度はちゃんとしろよ」
肩を竦めたダミアヌスがテーブルに戻る。
すると二人は私の前にきちんと並んでまた口を開けた。なんだか、本当に漫才師みたいだ。
「はーい! 俺はイェンです! そこのラオヘイのディディ、じゃなくて弟です!」
「ラオヘイはやめろってんだろーが。ラオはおっさん、俺は兄貴!」
「うるせーラオヘイ」
「ディディのイェンイェンは黙ってな」
「君方、兄弟喧嘩はいいが、シャオジェが困っている。シャオジェはダミアヌスくんのお客様だ。ダミアヌスくんに恥をかかせてはいけないよ」
「あ、ドゥイブ……じゃなくてごめんなさい」
「ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げるタイミングまでが二人同時なのが妙におかしい。可愛い。
「大丈夫……メイヨゥ」
だから、昔々、すこしだけ使ったことのある単語を思い出して、私は二人に笑ってみせた。
二人が大きく目を見開く。
「え、シャオジェ、中国語できるの?」
「シャオジェ、名前は? 名前は?」
「ワンくんの料理おいしいよね?」
「ダミアヌスくん怖くない?」
いちどきに質問の矢を射ってから、ニコニコと笑う二人が私の左右に立つ。なんだか、大型犬に飛びつかれてなつかれたような気分だ。
「中国語は少しだけ。お料理を習いに中国に行ったことがあるの。名前は……」
迷ったけれど、本物の名前を名乗ることにする。
「キカ、井原キカよ」
この国を出たらもう使えない名前。
帰る場をなくしたから名前も捨てたダミアヌス。帰る場はなくしても名前は捨てたくない私。
私と彼が、取り替えられたらいいのに。
「キカでいい?」
さっき『弟です!』と言っていた方の男に問われて、非道いことを考えてしまった、と我に返る。
同じ立場の時にそんなことを言われたらどうする? 私ならきっと、目の前のコップの水を頭からかけてやる。
不運も幸運も自分だけのもので、人と比べるのは傲慢だ。――たとえそれが、「羨ましい」という感情に起因していても――いいえ、だからこそ。
私は軽く首を振り、目の前でニコニコしている兄弟に目をやる。
それにしても、短期間でもタイや中国の人たちにも料理を習ってておいてよかった。
気にった人間にはすぐにどこまでも優しくなる、アジアン全開のノリを理解して溶け込むのは日本人にはなかなか難しい。
「いいわ。イェンイェン?」
「ちーがーうー! イェン! シャオジェなら呼び捨てでいーよ!」
「俺もいい? 俺のことも呼び捨てでいいから!」
「オーケイ。ヘイ、よろしくね」
二人が顔を見合わせて、お互いに了解を取るようにうなずく。
「よっしゃ! ラオヘイ!」
「ああ。でも黙れイェンイェン!」
また漫才が始まった。
ダミアヌスが困ったような表情で私を見る。
「これでも、イェンとヘイはうちの武闘派のトップなんですよ。日本で生まれたので国籍も特別永住者ではなくて日本人ですし。何より若いから無理がききます。銃もナイフもきれいに使いますよ」
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