幻想帝国
「井原さんは日本が参戦した戦争をいくつ知っていますか?」
運転をしながらの、唐突なダミアヌスの問い。
彼の目線は道の先、まっすぐ先を見つめていた。
「第一次世界大戦……第二次世界大戦……ぐらいです」
「充分です。この国で教えられている範囲では模範解答ですよ」
静かな車内に響くワイパーの音。
それを厭うようにダミアヌスはカーステレオに指を伸ばした。
「クラシックはお嫌いですか?」
「あ、いえ、特に」
「よかった。あまりこの国の若い方の嗜好はわからないもので。どうしても無難な音楽になります」
その言葉とともに、コロコロとガラスを転がすような不思議な音がカーステから流れてくる。
ダミアヌスの不可解な発言については、問うことは辞めようと思った。
彼なら、必要なことならば必ず話してくれる。きっとさっきされた意味の分からない質問にも何かの意味があるはずだ。それだけの重みが彼の言葉にはあった。
「何の音ですか?とても綺麗」
「チェンバロです。どうも新しいものには馴染めなくて。ピアノにも馴染めないなんてとよくコスマスに笑われました。……この曲は、ブランデンブルグ協奏曲。コスマスが好きだった曲です。多少は探しましたが、結局コスマス以上に好ましいものは見つかりませんでした。俺は馬鹿ですね」
ダミアヌスの口の端に少し笑みが乗る。
ただそれはどんなものかは……うまく言えない。
悲しげだったが、ただ悲しんでいるだけには見えなかった。コスマスという名を懐かしむように、愛おしむように。そんな風にも見えた。
「それではこの国が、国外にもう一つのこの国を作ろうとしたことは知っていますか?」
「……いいえ。ごめんなさい」
「謝ることでも」
ダミアヌスが微笑う。
「二十代の日本の方なら知らない人間の方が多いんです。でもね、たった七十年前、この国はそんな途方もないことをやろうとしたんですよ。いや、やった。途中までは成功した。この国は、中国大陸に『満州国』という国家を作ろうとしました。
「あの、まんしゅうこくって」
彼の口にする単語は私の知らないものばかり。
そこにまるでおとぎ話のような夢見がちなストーリーが乗り、なにもかもがいっそう不可解だ。
「現在の中華人民共和国です。そのころはまだ、そこに皇帝がいて……ただ、眠れる獅子と言われてきた清が目覚めぬ獅子だとわかり、麻薬に蝕まれ、西洋国家に侵略され、それを案じた男たちが自らの理想の国を作る舞台に中国大陸を選んだんです。男たちの理念は間違っていなかった。
ようやく少し聞き覚えのある名前が出てきた。うん。それなら知ってる。
「なんか……いっぱいビザを書いた偉い人? 映画で見ましたけど……」
と言っても、私の知識なんてこんなものだけれど。
ダミアヌスは私が後援者にしてきた男たちとは違う種類の男なのだと、このときなぜかはっきりわかった。
水っぽい雰囲気や服装は環境が彼に与えたものだろう。少なくとも、彼の中から自然に出ているものじゃない。
「ええ。ナチスの手から逃げるユダヤ人のために出国ビザを書き続けた外交官です。日本人で唯一、
「はい……」
そう言われても、私には口を挟む余裕なんかほとんどない。ダミアヌスの話を理解しようとするだけでも精いっぱいだった。
私にとって歴史は教科書の年表だし、戦争なんて第一次大戦と第二次大戦以外は百年戦争、バラ戦争、どことなくセンチメンタルな響きを持つ、別の国のこと、その程度。テストに出る範囲だけを覚え、それが終わったら忘れてしまうもの。
それを、こんな、昨日のことのように話す人間なんて、教師にもいなかった。
「その男たちは自分が作った国にたくさんの日本人を入植させました。みな、希望に満ちて満州国に渡りました。すべての民族が幸せになる国の礎になるのだと。けれど……西欧の複雑な権益の前にはそんな夢物語は通じるはずもなく……戦争が起きたんですよ。理想と夢ばかり語るものの前に現実が銃を突きつけたんです。まあ、本物の戦争の引き金を引いたのはこんな簡単な理屈だけではありませんが、列強の前ではよい口実となったのは事実です。自由になり、どうしようもなく暇になったらABCD防衛ラインで検索してみてください。この極東の小国が全世界に向けて宣戦布告しなければいけなかった理由が多少はわかると思います」
「暇じゃなくても即ググります。そのことを、自由になったらしたいことリストの一番に今しました」
くくっとダミアヌスが笑った。はじめての、彼の声を出しての笑いだった。
そして楽しそうに、車内に流れる曲に合わせてトントンとハンドルを指ではじいてリズムを取る。
「井原さんは面白い方だ。それまではそのリストの一番には何があったんです?」
「人目を気にしないで水辺でビールを飲むこと」
それは私の心からの願いだった。
どこかで見ているかもしれない誰かに怯えたりしないで、冷たいビールを一気に飲む。できれば、ただの水辺じゃなく海の近く、爽やかな風の吹く場所で、裸足になって。もちろん銃なんか持たずに。
「素晴らしい!誰もがそういうことを一番にすれば世界はもっとましになるでしょうに」
「え、怠け者ばかりで駄目になっちゃうと思いますよ、世界」
「勤勉な馬鹿より怠惰な天才。三流の民主主義より一流の独裁。世界にはそちらの方が大事です。この国の人間は政治家をよくけなしますが、それを選んだのは自分たちだということをどう考えているのでしょうね。けなす自由があるだけで幸福だと思わなければいけないのに。……そしてこの国は負けた」
ダミアヌスの声が不意に七十年前に巻き戻る。
なぜだろう。まわりの風景までモノクロに変わった気がした。
それだけ、彼の声には力があった。
「はい。知ってます。負け……ましたよね、日本」
「そうです。負けました。では、日本から海を隔てた新しい国の者はどうなったのか」
「え、政府が助けたんじゃないんですか?」
私は思わず問い返す。
ニュースでよく聞く『日本大使館で保護』の言葉、『政府は現地に調査員を送り』の言葉。
私も海外旅行で何かあったら最悪、大使館に駆け込めばいいと思っていた。
だって、なんとかしてくれると思っていたから。根拠なんかないけれど、赤信号では車が止まるように、あの人たちが私たちを助けてくれるのは当たり前のことだと。
「いいえ。彼らは我々を見捨てました」
我々?
どういうこと?
七十年前に起こった戦争。
私の横にいるのは三十代半ばに見えるダミアヌス。
じゃあ彼はなんなの?
時折、街灯の明かりに照らされて浮かび上がるその横顔、そこには影と光がはっきりしたコントラストを作り、まるで古い映画の登場人物のようにも見えた。
もしいま、『俺は過去から来たんですよ』とダミアヌスに言われたら、私は信じるかもしれない。
それくらい、ダミアヌスの纏った空気は独特のものだった。
「戦勝国となった中国国民党軍とソ連軍は続々と幻の理想国家に攻め入る。残された日本人は海を隔てた故郷に帰るために必死で旅を始める。自力で。みな、武器も力もない非戦闘員です。だから彼らの中には……自分が生き残るため、子供を生かすため、連れて歩けない自分たちの子供を中国人に渡した者がいます。食料もない、護衛もない徒歩の旅なら仕方ないことです。俺はそれは責めません。誰だって、生きたいでしょう? 自分の子供の死は見たくないでしょう?」
こくんと私は頷いた。
いや、それ以外の動作は許されないのだ。
李マユミやフォンファのおかげで生かされている私には。
「そして……中国残留孤児というものが生まれました。年老いた彼らは日本に帰りたがり、復興した日本もその願いを受け入れました。……俺は、その孤児の孫なんです」
「孫……だからお若いんですね。お話を聞いていて、この人は何歳なんだろう?と思ってたんです」
「実は中身は
「もっとすごいことを考えてました。この人は過去から来たんじゃないかって」
ハンドルを握ったまま、ハハ、とダミアヌスが楽しそうに笑う。
「ならいっそネタばらしはしない方がよかったですね。現代であがいている男よりは過去から来た男の方が役に立つ気がするでしょう。それにしても、井原さんはフォンファから聞いていた通りの方だ」
「フォンファはどんな風に私を……?」
「小娘だが豪胆。あり得ないことも受け入れられる柔軟性もある。気に入った、と」
フォンファ。
その名前を聞くのは辛い。
自分のために誰かが死んだということ。生き残るために仕方なかったことだと割り切ろうとしても、あんなに私のために懸命になってくれた人のこと、そう簡単には処理できない。
「俺は祖母が残留孤児でしてね。残留孤児は孫までならこの国に受け入れてもらえるんですよ。祖母は帰国の時に喜びましたが、俺にはわかりませんでした。中国にいれば何不自由ない暮らしができるのに。それに何より……なぜ俺たちが名前を捨てなければいけないのかと。井原さんだって明日からあなたの名前はジョゼフィーヌだと言われても困るでしょう?」
「それは、はい」
自分ももう、李マユミという人間に変わっているのも忘れて、私は頷いた。
「俺たちもそうでした。ああ、コスマスは俺の双子の弟なんです。優しい奴で、本当に可愛かった。これでも俺はいい兄貴だったんですよ」
「わかります。なんか、それ」
「……ありがとうございます」
ダミアヌスがほんのすこし目を細める。
それは、今までのどんな表情より優しく見えた。
「俺と弟は中国名と日本名以外に、互いにダミアヌスとコスマスと名を付けました。ダミアヌスとコスマスというのは一心同体の双子の聖者の名前なんです」
「あ、だからそういうお名前なんですね。ごめんなさい。ずっとどこの国の方だろうと思ってたんです」
「この顔で『ダミアヌス』ですからね。国籍不詳でしょう」
「正直に言えば、はい」
「正直なのはいいことですよ。ダミアヌスと双子の弟コスマスは、キリスト教の聖者にはめずらしく、ユダヤ人でも白人でもありません。そのうえ二人で一人なところも、そんな立ち位置のどこか曖昧なところも、この国に来てからはお互いだけがアイデンティテイの俺たちによく似合うと思ったんです。あのころは二人ともこんな風にうまく日本語を話せませんでしたから。……でも、コスマスは暁財団に殺されました」
そして、ダミアヌスがふうと息をつく。
ざあざあという音。雨はだいぶ激しくなっていた。
「……私と同じようなことになったんですか? 鬼に追われて?」
「いいえ。馬鹿正直なあいつは、正義感だけでやつらを潰そうとして失敗したんです。そんなところまでコスマスに似なくてもいいと言うのに……」
コスマスは清廉すぎる聖人で、最後は兄さえ堕落したと誤解して、兄を憎みながら死んだんです。そう付け加え、ダミアヌスがワイパーの速度を上げる。
雨粒が突き刺さるように窓へと振りつける。
まわりはすべて暗澹たる森。私たちの気持ちを表すような。
「暁財団は次の戦争を起こそうと……いや、今でも戦争は続いていると思っている狂信者たちの組織する財団です。高額の金で『鬼ごっこ』と呼ばれる盗撮や殺人を請け負い、彼らからすれば価値のない人間を追い、時に殺し、それ以上のことをし、その金を糧に組織を肥大させています。いまだに『我が闘争』と
「でも、暁財団は有名な慈善団体ですよね? 私、募金箱を見たことがあります。暁財団の奨学金で進学した人のことも」
「そうですね、井原さんの言う通り」
「なら……」
「けれど、善に見える特性も、奴らの一つの側面にすぎません。殺すことと守ること、奴らは何の矛盾もなくそれを受け入れている。それがこの国のためだと考えている。そしていつか……あの戦争の結果を塗り替えようと。奴らを指揮しているのは、この国の中枢に未だ残るあの戦争の終わりを認めない人間たちです。警察にも自衛隊にも大手広告会社にも奴らはいる。この国の太陽のそばにさえも。奴らが死ねば、子が、孫が、その役目を受け継ぐ。七十年なんて奴らにはなんてことのない年月です。それどころか、百年でも千年でも奴らは続けるでしょう。彼らの神が率いた聖戦を敗北で終わらせないために。暁財団という名前も、この国を再び日出づる処にしようとつけられたんです。自分たちに正義があると信じる悪は恐ろしい。奴らは何一つためらわない」
闇にウインカーが光る。ダミアヌスは狭い山道の三叉路も迷いなく曲がっていく。
「俺は奴らを潰したくて、俺たちみたいなこの国に馴染めない孤児の孫が集まって作った集団、チャイナマフィアの『龍』に入り、コスマスはそれを裏切りだとなじりました。『龍』は……まあ、マフィアの言葉通り、ありていに言えば犯罪組織ですからね」
私は何も言えず、ただシートに体を預けていた。
犯罪組織、という響きに反射的に体をすくませてしまったけれど、ダミアヌスにはそういった粗っぽさはまったく垣間見えなかった。彼を怖がろうとしても、怖がる場所が見つけられないのだ。彼は美しく、優雅な紳士だった。
それに、どんなに反社会的な団体だとしても、私はそこに頼るしかない。もう、フォンファはいない。
だから――たとえ、この人の指先が血にまみれていようと、私はその手を取る。生きるために。
車内には相変わらず美しい音が響いている。
ダミアヌスの昏い告白を隠すように。
「ただ、俺はあの幻の帝国を作った男たちは恨んではいません。もしまだあの帝国があれば、俺たちはこんな風に二つに引き裂かれることはなかったし、彼らの理想は当時では信じられないほど美しかった。それを醜いものにしたのは……安全な参謀本部の奥で俺たちを見捨てるよう打電していた男たち、
「きゅーじょうじけん?」
「太陽がこの国の敗戦を宣言する音声を録音したレコードを奪い、太陽のいる場所を占拠し、戦争継続を求めようとして失敗したクーデターです。それだけ奴らは自分たちと神の敗北を認められなかったんですよ。日本はもう、制空権も制海権も失っていたというのに」
それはとても苦い声だった。
悲しさや、怒りや、そんなものを滅茶苦茶に混ぜ合わせてもきっとこの声は出せない。底の見えない湖の真ん中に立ち、岸へと戻るのを拒んでいるような声だ。
「俺は奴らを潰したかった。同じような怒りを持つ『龍』の力を借りてでも、です。でも今ではもう理由が違います。奴らはコスマスを俺から奪った。七十年前の亡霊がもう一人の俺を……」
赤信号で止まった車内。
不意にダミアヌスが私へと体を向け、私の目をじっと見る。
「俺はあなたを助けたい。暁財団の思い通りになんかさせません。俺にとって暁財団に追われる人間を一人助けることは、コスマスを一人助けることと同じなんです」
なんと返事をしようかと私が迷っているうちに、信号が青に変わった。
ダミアヌスはまた顔を前に戻し、ゆるやかにアクセルを踏んだ。
「さあ、これで歴史の授業はおしまいです。目的地まではまだかかります。よければ休んでいてください。奴らから逃げ切るには体力も必要ですよ」
少しだけ絞られたカーステの音量と、ダミアヌスの微笑う気配。
その言葉のせいか、安心したせいか、疲労が足先からとろとろと流れていくような気がした。
瞼が重い。気を張っていたせいで気が付かなかったけれど、私はとても疲れていたようだ。
でも、今なら大丈夫だ。隣にはダミアヌスがいる。
逃亡を開始してから初めて、私はゆったりとした眠りに落ちた。
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