あちらの闇

「中垣主席、申し訳ありませんでした! 奴を取り逃がしてしまいました!」


 俺は必死で頭を下げる。

 職場ではノゾミさんは上司だ。いつもみたいな口はきけない。

 廻りでは人狼や処刑部やそれ以外の俺の知らない奴らがたくさん忙しげに動き回っている。しかも今回の俺は獲物を逃がすという大失態をしたあとだ。

 俺のその様子を見ながら、ノゾミさんは倒木に腰かけ、煙草を吸っていた。

 不意にノゾミさんの目が俺を見上げる。

 夜の闇の中、淡い照明に照らし出されたそれは、青い飴玉のようだった。


「なぜ?」


 平坦な声でのワンセンテンス。いつもは快いはずのノゾミさんの声。

 けれどいまのそれはぞくりと背筋を這い、機械人形に質問されているような生理的に嫌な感覚しかもたらさない。


「こちらの動きが読まれていました。井原は銃も持っていて、拘束する隙がありませんでした」

「それできみは怖くなり、叱られた小学生のように何もせずに列車の扉が閉まっていくのを見ていたのかい? 金井くん?」

「それは……」

「いい。言い訳しなくてもいいさ。最後にいちばん大切なのは自分さ。命令なんかよりね。それに、きみのすることではノゾミさんは怒らない。そう言ったろ?」

「は、はい……」

「こうなるとはね、ある程度予想していた。だからここに大きな布陣を敷いた。それが失敗したのはあたしの責任だ。井原やフォンファの方が上手だったなんて理由にもならない。始末書はあたしが書くさ。そうさ。あたしが甘かったんだ。まったくあたしのせいさ。誰のせいでもない」


 ふう、と煙草の煙を吐き出しながら肩を竦めるノゾミさんに、俺ははっと気が付く。


「俺は……囮だったんですか?」

「馬鹿だね。ノゾミさんの可愛いきみをそんなものに使うわけないじゃないか。きみは素晴らしい擬似餌だったよ。ただすこしあたしの見通しが間違ってただけだ。井原があんなに肝の据わった女だったとはね。何年この仕事をやっていても、いざというときの人間の変わり方は読めないもだね、ああもう、読めないんだよ、まったく。……さて、金井くん、きみは少し休むといい」

「でも、まだ井原は……!」

「聞こえなかったのかい? 『休むといい』」


 立ちあがったノゾミさんの手が俺の肩を掴む。

 ギチリと肩の骨の軋む音がした。

 その薄いてのひらからは信じられないような力だった。

 いつものように真っ赤な唇には両切りのピース。それをくわえたままのノゾミさんの顔が俺に近づく。キスするように。


「そうだよ。きみはなんでもノゾミさんの言うとおり。『休むといい』」


 そして、煙草をくわえたまま、器用にノゾミさんはそう繰り返した。


「なに、まだきみの出番はある。このゲームはまだ全部ノゾミさんの手のひらの上だ。もう少ししたらきみにもどんどん働いてもらうよ。ただ、いまは、その時じゃない。そう。その時じゃないんだ」

「……わかりました」


 俺がうなずくと、ようやく、ノゾミさんの顔にいつものニンマリとした笑みが浮かぶ。

 てのひらも、俺の肩から離れた。


「うん。きみはやっぱりノゾミさんのいい子ちゃんだね。宿泊場所はあの辺をうろついてる事務屋に聞いておいで。きみが必要になったら呼ぶからすぐに来るんだよ。いいね? すぐに来るんだよ」

「はい」

「いい返事だ。ノゾミさんはいい子ちゃんが好きさ。そうさ。大好きなんだよ」


 ノゾミさんの唇から煙草が離れる。

 ヘビースモーカーだとは思えない真っ白な歯がちらりと見えた。


「いつか話したね? ダミアヌスのこと。新宿からダミアヌスが消えた。だからここから先は必ずきみの手が必要になる」


 うっとりと目を細めたノゾミさんは、獲物を見つけた猛禽のように、愛する男を夢見る少女のように、獰猛で、とても綺麗だった。

 だから俺は気づかなかった。

 いや、気づかないふりをしたんだ。あのひとが、好きだったから、俺の、聞き間違いだと、思いたかったんだ。


「極上の敵には極上の餌」


 去りかけた俺の背中に、ぽつりと呟かれた言葉に。

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