探知

 俺がやっと仕事から帰ってきたら、リビングのフローリングの床にノゾミさんが寝そべっていた。

 しかも、ノゾミさんの両耳に当てられたヘッドホンからはシャカシャカと音漏れの金属音が聞こえてくる。そのうえ、リズムを取るように頭を動かすたびにさらさらと動く長い髪と、ふんふんと上機嫌な鼻歌まで。


「あ、何をするんだね、金井くん!」


 背後からそっと近寄り、その形のいい耳からヘッドホンを剥ぎ取ると、ノゾミさんが唇をとがらせて上半身だけをくにゃりと起こした。

 ……この期に及んでまだ全身を起こさないこの人はやっぱりある意味すごい。


「それを聞きたいのはこっちですよ。何してるんですか、この忙しいときに」

「レイズのジャッジメントをエンドレスで聴いてる」

「は?」


 あまりにも予想外の答えに、ヘッドホンを手にしたまま立ち尽くした俺のことをなにか勘違いしたのか、ノゾミさんはふふんと得意そうに笑う。


「なんだい、きみは知らないのかね?ジャッジメント。名曲だよ」

「いや、俺が詰めたいのはそういう問題じゃないです」

「じゃあそのヘッドホンを返したまえ。ちょうどサビの手前だったんだ」

「嫌ですよ。俺は今日一日歩き回って疲れてるんです」

「で? ノゾミさんに慰めてほしいと?」

「違います。そんなんじゃない」


 そこではじめてノゾミさんは起き上がった。

 そしてその場にあぐらをかき、ニンマリと笑う。

 ひどく行儀の悪い恰好だったが、すんなりとした足がショーパンから伸びているノゾミさんにはそんな姿が妙に似合っていた。

 金色の髪の、邪悪な天使。


「わかってるさ。ノゾミさんはなんでもわかってる。あの女の行き場もわからないくせになにを遊んでるんだ、このクソ女。きみはそう言いたいんだろう?」

「クソ女は取り消しますが、おおむねそんな感じです」


 ククク、とノゾミさんが煙草に火をつける。

 そして俺を上目づかいで見上げ、その真っ赤な唇から俺へと紫煙を吹きつけた。


「見つけたんだよ、ノゾミさんはね、あの女のルートを。きみはノゾミさんを過小評価してる。ノゾミさんはね、新人のスカウトまで任されてる処刑部の一番だ。人狼からも引き合いが来てるんだよ。殺しの腕だけで評価されてる二番のきみとは違う」


 それを聞いて一瞬ムッと来たが、ノゾミさんの言うことは真実だ。

 真実で腹を立てる人間は早死にする。真実を受け入れられない人間ほどすぐに死ぬ。

 だから俺は「そうですね」とうなずいた。

 それになにしろ、俺とノゾミさんはキャリアが違う。こんなことで争うのは馬鹿馬鹿しい。俺はノゾミさんが好きなんだ。


「だいたい人を殺すのなんか人狼より簡単さ。ちょっとした力とタイミング、それに、殺戮に何も感じない心。それさえあればマックのハンバーガーを注文するより楽にできるんだよ。殺人に『ピクルス抜き』なんて追加注文は必要ないからね」

「どうでしょうね、そんなのあんただけかもしれない」

「いいや。……きみも一人目のときはそうだったろう?この行為が誰にもバレない。罰せられない。そう思ったら絶頂するくらいワクワクしたろう?そしてそれからずっとそのまんまだろう?」


 ノゾミさんが勢いよく立ち上がった。ノーブラなのか、たゆんと豊かな胸部が揺れて、澄んだ猫目がまともに俺を見る。


「なにしろ、人を殺す瞬間ほど胸がときめくことはないからね」


 ノゾミさんの尖ったジェルネイルの先が俺の頬を横切った。

 まるでナイフで切るように。


「そういう議論はあんたとはしたくない」

「ふむ。きみは経済学の人だからフィロソフィアは嫌いか。まあいいさ。即物的な人間の方が殺人には向いてる」


 そう言ってニンマリと笑ったノゾミさんの顔はたまらなく魅力的だった。

 蠱毒の女。

 踏絵を乞い願う聖母。

 何かと言えば即物的だとからかわれる俺にもそのくらいの語彙はある。

 仕事の話の途中だという意識さえなければ、ノゾミさんの唇から煙草を奪って、口づけて、この場に押し倒していたかもしれない。


「まあ座りたまえ。まずはきみの進捗状況を聞こう。情報交換は大事なことだよ」


 ノゾミさんがソファを指し示す。

 きっと俺の劣情には気づいているのだろうが、ノゾミさんはそんなことは歯牙にもかけない。

 まあ、だから俺はこの人に恋したんだろうが。

 ノゾミさんの、とすんと軽い腰を下ろす音。

 そして、横には俺。


「さあ今日きみは何をした?包み隠さず話すんだよ。何一つ包み隠さずね。失敗してもノゾミさんは怒りはしないさ。ああそうだ。人は学習する生き物だからね」

「あんたが俺が何をしても怒らないのは知ってますよ」

「だがきみがあたし以外の女とキスしたら怒るよ」


 今日はじめて、ノゾミさんの猫目が明らかな何かを帯びた。

 そしてまたカリリとネイルが俺の頬を滑る。

 それはさっきのものとは違い、ノゾミさんの感情が含まれているように思えた。

 俺の思い上がりかもしれない。けれど、そうではないといいと心から思う。


「で?」


 ノゾミさんが俺の顔を覗きこむ。

 俺はスマホのメモを繰りながらそれに応えた。


「まずは井原キカの実家に様子見に。人狼が張ってるのは知ってましたが、実地で見た方がいいと」

「うん。その執拗さはいい線だ。収穫は?」

「奴らは完全に俺たちのコントロール下です。井原キカからは五泊六日の国内旅行に出ると言って宿泊先の名前と電話番号を教える連絡が来たと。逃亡の準備でしょう」

「親に教えたのなら偽名では予約を入れていないね。だがそもそもそこに井原キカはいるのかい?」

「確認を取りました。確かに五泊分、旅館を取ってます。どこも普通の観光地ですね。不審な点は何もない。身を隠せそうな場所でもない」

「雄琴とか?」

「茶化さないでくれ」

「真面目だよ。女郎ヶ島かと聞くよりはずっと」

「あんたの真面目はよくわからない」

「わからない部分が多いほど楽しいものさ。パズルをしていて楽しいのは作っている時と完成品を壊す時さ」

「あんた、哲学者になれるよ」

「あたしは殺人者以外にはなれないよ」


 ノゾミさんが二本目の煙草に火をつける。

 俺は、両切りのピースの吸い口をくわえはじめる時のこの人のすこし尖らせた唇と、その後に漂ってくるこの人らしいムカつくほど甘ったるい匂いが好きだった。

 ただ、ノゾミさんはピースの一缶をあっという間に開けちまう。もうすこし長生きしそうな吸い方をしてほしいとは思う。

 つられて俺も煙草に火をつけた。

 俺はこの仕事を始めてからはガラム。ピースとはまた違う甘だるい味が心地いい。

 むかし、「人殺しと言ったらこれでしょう」と言ったらノゾミさんに「きみは映画の見すぎだよ」と大笑いされた。俺は傭兵のつもりだったんだが、そんなことを言ったらさらに笑われそうでやめた。


「それで?」

「親に連絡先を教えるだけあって、本名で予約を入れてますね。賢いかと思ったが馬鹿な女だ」

「馬鹿なのはきみかもしれないよ」


 そう笑うノゾミさんの反応は予想通りだった。

 俺は一息ゆっくりとガラムのクローブの味の煙を味わってから、ノゾミさん定番のニンマリとした笑いを真似てみる。


「と、言われると思ったんでね、もうちょっと掘りました」

「ほお」

「井原の男を探してきましたよ」

「いいね。とてもいい。女の逃げ方がわかってきたね。続けたまえ」

「井原は実家が取り込まれてることにはたぶん気が付いている。だからあえて偽名も使わず、旅行に出ることも連絡先も親に伝えたんじゃないかと」

「そう。ご名答、ご名答。レッドヘリングさ。フォンファが関わってるのならそのくらいはやる」

「男を取り込むのはちょっと骨が折れました。井原に本気だったみたいで」

「でも売った?」

「職業、前科、生命、いろいろと担保をつけて、最後の生命で折れました」

「いい男じゃないか。最後の一線まで持ちこたえたか」


 あんたは?

 そう聞きたかったが、やめた。

 この人は俺にそんなものはない。わかっている。かなしいことだけれども。


「あたしならそんなことじゃ売らないけどね」


 だから俺は、なんでもないことのようにそう口にしたノゾミさんに驚き、まるで吸い始めのころのようにガラムの火花で服に細かい穴を作ってしまった。


「なんだい、きみは。こどもみたいに。火事だけは出すんじゃないよ。ご近所に迷惑をかける」

「俺も……あんたを売らない」

「何を当たり前のことを」


 ノゾミさんがきょとんとした顔で俺を見る。

 くわえ煙草をしながらの幼い表情はひどくアンバランスで、仕事の話さえしていなかったら今度こそ、その唇から煙草を奪ってキスしたかった。

 ノゾミさん。

 俺の頭の中にCPUがあれば、いままさにオーバーロードしていただろう。


「きみはたまに変な男になるね。まあいいさ。それで?」

「とりあえず男という逃げ場は確保しました。それから、新幹線、空港、幹線道路、そのあたりの早期逃亡に使えそうなルートに当たりを。とりあえず今日できたのはここまでですね」

「OK。よくやった。確かにそれは疲れたろう」


 ノゾミさんの手がわちゃわちゃと俺の頭を撫でる。


「本当にきみはいい子ちゃんだ。物覚えが早くてカンがいい。やっぱり一流大卒の子は違うね。定石をきちんとひとつずつ踏めてる」

「じゃ……」

「でもそれは弱点でもあるよ」


 ノゾミさんの瞳がひんやりと光った。


「『なんでも屋』たちのことは説明したはずだ。なんでも売るから『なんでも屋』なんだよ。だから、そんな教科書通りの道を売れば、きみみたいな教科書のことをよく覚えている頭のいい人間にすぐ捕まってしまうことも知っている」


 そして、ひんやりとした目のまま、ニンマリとした微笑み。


「フォンファの縄張りを思い出すんだ。ハイジアが入ってる。まっすぐだけど誰もいない道を疾走して逃げるより、大勢の中をゆったりと歩いたほうが目につかない。群れの中に個はないさ」

「まさか……! あんな! あんな俺たちの近くに?」

「ノゾミさんもそう思ったがね、自分がもし逃げるならどうするか考えたんだよ。言ったろ?いざとなったらノゾミさんは良家の子女になるって。その逆さ。井原キカは淫売になったんだよ」


 俺ははっと身を固くした。

 目の前に夜のハイジア前の光景が浮かび上がってくる。

 みんな似たような、だらしない服装の、商売道具の入ったバッグを持った女たち。

 写真の中の井原キカは綺麗だがまじめそうな、黒いまっすぐな長い髪の女だった。

 それがもし、髪の色を変え、髪型を変え、下品な服を着てたちんぼどもにまぎれこんだら……。


「わからないだろ?すぐには」

「あ、はい、確かに」

「そうして時間を稼ぎ、フォンファの息のかかったラブホで篭脱けをして足跡を消した。そう、消したんだよ。少なくともそうしたんだろうと思ってあたしは人狼に指示した」


 ノゾミさんが不愉快そうにかちりと歯を鳴らす。


「あともう少しのところだったんだ。だが、あの女は運がいい。人狼本隊が来る前に群衆にまぎれた。人ごみじゃあんまり派手なことはできないからどうしようかと考えてるうちに、また見失ったんだよ、人狼は。無能め」

「で?で、どうしたんです?」

「手厳しい質問だね。さすがあたしの生徒だ。唇を読める人狼が遠くからほんの少しだけど二人の唇の動きを読んだ。まあ断片だが、ノゾミさんには充分だ。スイグン、カミス」


 俺からしたらその言葉は意味のない呪文のようにしか聞こえなかった。かろうじて、スイグンは水軍ではないかと察することができたくらいだ。

 とりあえずスマホでググる。カミスってなんだ?


「茨城県の……地名すか?神栖市。でも水軍がわかんねえ。暗号?」


 チッチッチッとノゾミさんが顔の前で人差し指を振った。

 あどけなささえ横切る得意げな表情が、なんか無性にムカつく。


水郡すいぐん線、上菅谷かみすがや駅」

「は?」

「スイグン、カミスの答えはたぶんそれさ。監視カメラを避けるために井原キカは在来線に乗るよう指示されてるはずだ。それも人口密度の少ない北方向の線にね。水郡線には常磐線っていう在来線一本で行ける。常磐線は下手したら次の駅まで二、三十分はかかるのんびりした路線でね、よほどの駅じゃなきゃカメラなんかろくにない。水郡線はそれよりさらにすごいのさ。単線で、ほとんどが無人駅だ。首都圏なのに首都圏から痕跡を消すのには最高の場所なんだよ」

「それ、マジで首都圏なんすか?」

「きみは茨城県民を敵に廻したいのかい? 納豆をぶつけられるよ」

「なんだ、やっぱり茨城なんじゃないすか。あと、ノゾミさんの方がよほど敵に廻してると思います。まー、じゃあそのなんとか線で神栖まで?」

「いーや。違う。違うね。あとで地図を見て確認しておくといい。全然別の場所だよ。カミスはおそらく上菅谷だ。この駅は非常に特殊でね。上りの最終の時間だけ無人駅になる。どうだい?きみならここを使いたいとは思わないかい?」


 俺は息を呑んだ。

 目の前の女の底知れぬ部分に触れた気がした。

 確かにこの人は一番だ。

 その才能のすべてが狂気につながることにふられているとしても。


「……そんなこと、よく知ってますね」

「言ったろう? ノゾミさんは人狼からも引き合いが来てるって。獲物どもが逃げるのにいい道はノゾミさんにとってもいい道だよ。これでだいたいの札は揃った。明日からはきみと二人で動くことにしよう。もう残りは殺すだけだ」

「そう願いたいですね」

「とどめはきみにささせてあげるよ」

「そういう意味じゃないっす」

「ふぅん、きみもなかなか謎めいた男だ。ノゾミさんはそういう男が嫌いじゃない」

 そう言いながら次の煙草に伸ばされたノゾミさんの指は……俺に押し留められた。

「煙草くさいよ、金井くん」

「あんたもですよ」


 答えずに、ノゾミさんはニンマリと笑う。

 俺も無言で、彼女の体に手を伸ばした。


              ※※※


 初めて乗る常磐線に揺られながら私は必死で自分に言い聞かせる。

 大丈夫、大丈夫よ、キカ。

 フォンファの立てた計画は完璧。

 それに……いざとなったら私にはこれがある。冷たい、プラスチックのかたまり。

 フォンファに言われなくても、私は容赦なんかしない。

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