銃口
フォンファに言われなくても、私は容赦なんかしない。
電車を降りた私は何食わぬ顔で改札を抜け、上菅谷駅構内の化粧室に入る。
最終列車は化粧室の中で待つようにと、フォンファに指示された通りに、だ。
ご丁寧に、指定された化粧室の個室には『故障中・修理待ち』の紙まで貼ってあった。
『駅員も抱き込んであるから、清掃や巡回の心配はない』とフォンファに言われはしていたが、まさかここまでしてあるとは。
平凡な中年女にしか見えないフォンファの手にどれだけの力があるか、そんな彼女でも私に『自由』を売るためにはここまでしなければならない相手なのかと、恐怖が頭の中でぐるぐると廻る。
……そうだ、忘れていた。宮野さえフォンファの存在を示唆することしかできなかった。私を追う『鬼』はそんな存在だった。
湧き上がる不安を打ち消すように、私はカバンから手鏡を出し、自分の姿を確認する。
いまどきめずらしいほどザクザクとシャギーの入った明るい茶色の長い髪、もう夜なのに、芸能人を気取っているような大きなサングラス。
確かにこれなら、私にはまったく見えない。
そして、何かの証言を求められたときに私の特徴として使われるのは、身長以外は髪型とサングラスだけだろう。
『整形では駄目なの?』
『不細工を綺麗にするのは簡単だけど、綺麗なものを不細工にするのは難しい。残念なことにあんたは綺麗だから、少し手を加えるくらいじゃ別人にはなれないし、大掛かりな整形は出来上がるまで数か月はかかるんだよ。ぶん殴られたようなアザと傷痕だらけの顔の方がよほど目立つ。瞼なんて糸の食い込んだハムみたいになるんだからね。それに……その間、あたしはあんたを守りきる自信がない』
あのときフォンファはそう言った。
自分の元の顔をなくす辛さも、そのときの痛みも後遺症も覚悟していた。
私はただ、フォンファの言葉の最後のセンテンスだけが怖かった。
「いま何時だろ……」
私はそうつぶやいて、いつものように鞄の中のスマホを探し、やめる。
スマホは電源を切り、アルミホイルで巻いてある。
ただ電源を切っただけでは基地局に微弱電波を拾われてしまうとフォンファに言われ、そうした。
本当かどうかはわからないけれど、今の私ならどんな話だって信じてしまう気がする。
だって、命がかかってるんだから。
でも、キカ。
目的地は見えている。
あとは、どんな手を使ってもそこにたどりつくだけ。
そうでしょう?
今さら迷うなんて私らしくない。
髪をかき上げ、私はフォンファに与えられた腕時計に目をやった。
「それも、あと少し……」
あと少し、あと少し、私は自分に言い聞かせるように何度もつぶやく。
ここさえ乗り越えれば、あとの要所要所では味方が待っている。
明日か明後日には私は海の上。なにも心配はなくなる。
あ、時間が来た。
私は個室のドアを開け、目立たないように、でも速足で最終列車に近づいていく。
フォンファからあらかじめ聞いていた。
この列車はボタンを押さないと扉が開かないし、閉じることもない。
慣れない人間にはとてもわかりづらい仕組みだ。特に、首都圏の絶え間ない列車の渦しか経験したことがない人間には。
そこに発車ギリギリの時間で乗り込む。追ってきた人間がボタンに気付いても、ずっと閉を押し続けていればいい。そのうちすぐに列車は動き出す。
フォンファの言っていた通り、確かにそのボタンはわかりにくかった。私も事前に聞いていなければ戸惑ったろう。
開閉ボタンを押すと、シュン、と音を立てて開く扉。
ここは恐ろしいほどの田舎だから上りの終列車に乗り込む人間なんて皆無に近いと聞いていた。だから最終の時間には無人駅になるのだと。
……じゃあ、私の対面に座っているあの男はなに?
黒い髪はきっちりと整えられ、地味なグレーのスーツにもきちんとプレスがかかっていた。膝の上の薄めの四角い鞄も、よく磨かれた靴も、どう見てもただのサラリーマンだった。
そうだ。どう見ても、ただの真面目なサラリーマン。だからこそ、悪寒がした。
こんなところにはいないはずの人物。
一両編成の、採算が取れないと言う理由で無人になっている駅の、周りには大きな建物もなにもない田舎の、最終列車に、なぜ都心にいそうな一流のサラリーマンが、いるの。
きろりとその男が顔を上げる。
柔和で生真面目そうな顔をしていたけれど……その眼は、橿原と同じ目をしていた。
冷たくて、からっぽな。
男の口の端に微笑が浮かぶ。手が鞄の中に差し込まれる。
奴らだ。
全部、読まれてたんだ……!
「どうも。俺は金井と申します。こんなところまでお疲れ様、井原キカ。でもおまえの旅はここで終わりだ――」
男の添乗員のような声音は途中で途切れた。
私は男の姿を視認した時から男に近づいていた。
今まで、自分にこんな静かな速さがあるなんて思いもしなかった。
そして、フォンファから渡されていた銃を、指示通り、男の腹部に向ける。
「フォンファの銃よ。レプリカじゃない。さあ、動くのをやめて」
言いながら、私は男の側の列車の扉の開閉ボタンを素早く押した。
男もフォンファのことは知っているのだろう。
銃口を突き付けられてからは、動こうとはしなかった。
また、シュン、と開く扉。
私はそこから飛び降り、閉のボタンを押す。あっというまに閉まる扉。
その間、窓越しに、銃は男に突き付けたままだ。
男の目が驚きに見開かれる。
この種類の人間にも感情があるのだと、私はどうでもいいことをまたひとつ学んだ。
列車が動き出す。
男は悔しそうに開のボタンを連打しているようだけど、列車が動き出した今では、そんなもの、開くはずもない。
ハッ、ハッ、と私は荒い息を漏らした。
銃はまだ手に持ったままだ。
握りしめて、握りしめて、手のひらが痛いほど。
フォンファはこう言っていた。
『たぶん、あたしたちの作戦は読まれてる。あいつらはもうあそこにいる。だからそれを逆手に取ってやるんだ。恐怖に飛び込んでいくんだよ。できるかい?』
私は頷いた。
自分の死以上の恐怖なんかこの世にはない。
『よし。じゃあ、あたしの鳩から続きは聞きな。たぶんここも監視されてる。……あんたを追ってるのは通り一遍の変態じゃない。次に生きて会えたらなんだか教えてやるよ』
そして私は、フォンファの鳩の命令を忠実に実行した。
恐怖には飛び込んでいけ。何度もそう自分に言い聞かせて。
でも本当に、こんなところにまで追いかけてくるなんて。
「あんたたち、なんなのよ? なんで! なんで私なの!」
私は思わず叫んだ。遠ざかっていく列車の明かりに向かって。
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