逃亡 3

「ああ、それから、これを」


 フォンファが白い不透明なビニール袋を渡してくる。

 袋には『パーラー ヘブン』と赤い文字でパチンコ屋らしい名前がプリントしてあった。

 中を覗き込んでみると板チョコやライターなど、パチンコで換金したあとの余りのようなものが雑多に入っている。

 そして、そこに埋もれるようにして、黒い銃のようなものが見えた。


「……これ……!」

「銃だよ。見るのは初めてかい?」


 なんてことのないように言うフォンファを見て私は自分で自分を抱きしめた。

 全身を悪寒が襲う。

 たいていのことには怯まないように生きてきた、私は。

 でも、こんなものまで持つようになるなんて――。

 そこまで、私は追い詰められたのか。


「安心しな。パチンコで取れるプラスチックのおもちゃだ。引き金を引くとポンと音がするだけのジョークライターだよ」


 よかった、と私は肩を落とした。そうか。護身用の脅しの道具だと思えば納得がいく。


「というのは表向きでね」


 フォンファがその銃を手に取り、私へ手渡そうとする。

 思わず後ずさる私を見て、フォンファは不機嫌そうに眉をしかめた。


「逃げるんじゃないよ。必要なものだから用意したんだ。あんたが従わないならあたしも手を引く」

「……ごめんなさい」


 フォンファは私の最後の糸だ。どんなことがあっても切るわけにはいかない。

 私はフォンファに向かって、てのひらを差し出した。

 フォンファはそこにライター? 銃? を乗せる。それはひどく軽く、フォンファの言うとおりプラスチックでできているのは確かに思える。


「さっき言ったことは半分は本当だよ。これは実銃だが部品が全部強化プラスチックでできてる。金属探知機に引っかからないからあまり民間には出回ってないけどね。アメリカの放出ルートから手に入れてる正規品だから品質にも心配はない」

「でもさっき、ポンと音がするライターだって……」

「ああ。あんたの顔かたちはまともだし、パチ屋の袋に入ってるから職質の心配はないだろうが、もし職質にあったらあんたの方から引き金を引いて見せるんだ。負けて悔しいから、せめて友達を驚かせてやろうとこの景品にしたとね」

「警官を撃ち殺すの?!」

「なに言ってるんだか。それじゃあ逃げるどころじゃないだろ。これはね、普通に引き金を引くだけなら音がするだけのジョークライターだ。だがね」


 フォンファの指が目立たない突起を指した。


「ここをスライドさせて引き金をひけばちゃんと弾が出る。スライドはかなり固いからうっかりで撃っちまうことはないから安心しな。弾も金属探知機に引っかからないように強化プラスチックでできてる。その分強度は多少弱いが、着弾すると殻が割れて中のBB弾が相手の体にぶちまけられるようになってるから、普通の銃よりたちが悪いかもしれないね。本当にあの国の奴らはえげつないよ」

「そんな……日本でこんなものが買えるなんて……」

「買えるさ。あんたはちゃんと大金を支払って、あたしと契約を結んだ。トカレフなんかでよけりゃ十五万くらいなんだが、これは値が張った」


 フォンファが語る言葉はすべてがハリウッド映画のようで、私はふわふわと夢を見ているような気分だった。

 私は宮野たちと知り合うことでそれなりに裏社会にも近づいた気がしていた。なにかを切り捨てて生きることにためらいもないつもりだったし、そんな自分が嫌いではなかった。これからも、ひたすらにまっすぐ進んでいくのだと思っていた。

 でも、そんなものは幻想にすぎなかった。小娘の思い上がりだった。

 これが、本物なんだ。


「いいかい、撃つときは腹を撃つんだよ。本当は膝を撃ちぬくのがいちばん足止めにはいいんだけどね、あんたにそんな腕はないだろうから。腹なら範囲が大きいから撃ちやすいし、へたくそが撃っても内臓のどこかには当たる。ああ、撃つんなら近づくのを忘れないようにね。あんたはプロの狙撃手じゃない。ただの女だ」

「これが必要な時が来るの……? あなたは『自由』を売ってくれるんじゃなかったの……?」


 私が唯一絞り出せたのがその言葉だった。

 私は完全にフォンファに圧倒されていた。


「来ないように手配はしてるさ。だが万が一ってことがある。顧客の望みを売れなかったらあたしは廃業だよ。安全策は何千、何万って張ってなきゃいけない。あんたにゃわからないことだろうけどね」


 フォンファが、銃をビニール袋の中に入れ直す。


「いいかい。危ないと思ったら迷うんじゃない。容赦するんじゃない。あんたが生きるためには誰かが死ななきゃいけないんだ。なに、そのあとの始末はあたしがつけてやる。あんたにはその点の心配は何もない。……なんだ、あんた、泣いてるのかい」


 フォンファの言うとおり、気が付いたら私はほろほろと涙をこぼしていた。

 自分のいる場所がどんなものか、これから向かう場所がどんなものか、わかった気がする。

 それは、絶望のさらに先だ。


「お母さんに最後に……」

「駄目だよ」


 ぴしゃりとフォンファが言い放つ。


「あんたは旅先で死ぬんだ。交通事故に遭って、親も判別できないような肉塊になって。身に着けてた身分証明書だけがあんたをあんただってことを証明する。そしてあんたはこの世から消える。ほら、完全な『自由』じゃないか」


 私は顔を覆った。

 フォンファの言うことは正しい。正しいけれど……それでも悲しいのはなぜだろうか。

 そんな私にはかまわず、フォンファは簡単なメモを手渡す。


「いいかい、ここからの行き先の手順だ。簡単にしか書いてないからこれからあたしの言うことをよく聞いて覚えるんだよ。わからなくなっても盗聴の心配があるからできるだけ電話は避けな。渡した携帯は最後の手段だよ。できるだけ公衆電話を使うんだ」

「わかったわ……」

「茨城県の平潟漁港にあたしが手配した漁船がある。まずそれに乗って沖まで行って、そこから密航船に乗り換える。そこからタイを経由してイギリスへ。船の手配は全部すんでるから安心しな」

「どうして船? 私は早く逃げたいの。飛行機がいい」

「馬鹿言うんじゃないよ。空港なんて監視カメラだらけだ。あんたは自分の痕跡をべたべたと残したいのかい? 平潟はフェリーも通らない本物の漁港だから、漁師さえ取り込めばあんたの痕跡は残らない。しかも首都圏だからここからそれほど遠くもない。タイを経由するのだってちゃんと理由があるんだ。あの国なら金でなんでも思い通りになるからね。あんたがイギリス人として自然に入国できるように手を回させておくんだよ。ずっと日本で暮らしてた国籍だけのイギリス人だから、英語もろくに話せない、イギリスのこともよく知らない。それでもあやしまれないようにね」


 フォンファが鼻で笑った。

 それは、出来の悪い生徒を見る教師のような顔だった。


「幹線道路はNシステムが張り巡らされてる。でかい駅は監視カメラでいっぱいだ。だから茨城までは在来線の普通列車で行きな。監視カメラなんてろくにないし、水郡線なんてほとんどが無人駅さ。まあ、そのあたりはややこしいからちゃんと書いてやったよ」


 その言葉の通り、フォンファのメモには乗り換えの仕方だけはきちんと書いてあった。


 ×時発水戸駅終点の常磐線普通列車に乗れ。

 ×時、二番女子トイレに入れ。

 清掃中の札が出ているが目立たないようにためらわず入れ。

 中で女が待っている。その女と服を交換しろ。女はそのあと清掃員の服に着替えてトイレから出るから足跡をたどられる心配はしなくていい。

 着替えたら×時発の水郡線の下り列車に乗れ。

 水郡線は上菅谷駅で降車。

 同じ上菅谷駅から×時初の水戸行き上り最終列車に乗れ。

 この時間は上菅谷駅は無人駅になるから安全だ。だから絶対にこれを逃すな。

 水戸には迎えが来ている。そいつが案内するラブホに二人で止まれ。

 翌日はそいつが持ってきた服に再度着替えて○時水戸駅発、大津港行の普通列車に乗れ。

 大津港駅では車が待っている。

 平潟港までは十分もかからない。そこからは案内人と漁師の指示に従え。合言葉はFの売っているもの。

 あとからFからも指示がくる。


「Fはあたしのこと、合言葉はピアス屋だよ。……できるね?」

「できるわ」


 私は涙を拳で乱暴に拭った。

 そして髪を一振りし、背筋を伸ばす。

 できるだけ、凛々しい微笑みを浮かべる。虚勢だとしても張り続ければそれは本物になる。これまでの人生だって、そうだった。なら、これからも、私はそうできるはずだ。


「泣いたりなんかしたからあなたは不安なのかもしれないけれど……もう、これが最後よ。私は中国系イギリス人で日本で生まれ育った李マユミ。親も彼氏もいない。だからイギリスに帰って日本料理の店を始めるの」

「ならよし。あんたはいい度胸をしてる。気に入ったよ」

「でも、どうしてこんなに頻繁に服を変えるの?」

「すれ違う人間の何がいちばん目を引くか。それは顔じゃない。少し変わった服装だ。大きなサングラス、つばの広い帽子、マスク、キャバ服。誰かがあんたを見たか?と写真を見せても、見せられた人間の頭に浮かぶのはそんな小物だけなんだよ。人間の記憶なんて豆腐よりもろいものさ」


 くくくっとフォンファが笑う。

 そして、私の肩の上にグレーの薄手のロングコートをかけた。


「だからそのたちんぼ服も隠さないとね。あんたはまともな顔をしてるから、そのコートを着てればただのOLにしか見えないよ」

「ありがとう」

「礼はいい。仕事だから。どうしても言いたかったら、全部終わってから言っとくれ」


 フォンファがまた笑う。

 私はその体に軽くハグし、彼女の指示通りに行動するために歩き出した。


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