逃亡 2
ある種のラブホは経営者さえ抱き込めば、逃亡者に理想的な場所だ。
不透明なアクリル板で囲まれた非常階段を下りながら、私は改めてそう思う。
限りなく人の気配を殺したフロント、できるだけほかの客とブッキングしないようになっている廊下、チェックアウトの料金を払う時でさえ誰とも顔を合わせないようになっている。
そのうえ、今日のこのラブホは頼みの監視カメラも都合よく故障してくれる。そして非常階段でさえ、人目につかないように作られている。
……そんなことでも考えていないと、一人でいる不安に押し流されそうだった。
ここには、私を守ってくれる人間は誰もいない。
だから、この階段を駆け下りてすぐにフォンファの所に行きたかったけれど、それは必死で我慢した。
一人のときに目立つ行動をとっては駄目だ。
ほんの少しでも人目を引いたら……その糸がどこにつながっているかわからない。
カンカン、と金属の階段を踏みしめていく私の足音。
耳元を高層階の風の音が吹き抜けていく。
その中に切れ切れに聞こえる、酔った男の声、女の嬌声、客引きの決まり文句。
すべてこの街に住みだしてから聞きなれたはずのものだったのに、いまは何か酷く不吉なものに聞こえた。
あの中のどこかに『鬼』がいる。私を追っている。
――怖い。
初めて感じる、背骨を氷で撫でられるような寒気。
不意に頬が冷たくなって私は慌ててそこを指で確かめる。
私は泣いていた。自分でも気が付かないうちに。
こんなの久しぶりだ。必死で生きていくうちに、泣き方なんか忘れたと思っていた。
慌てて目頭を緩く抑える。できるだけ、規則正しい歩調を崩さないようにしながら。
こうすれば軽い涙ならすぐに止まるし、目も腫れない。
いつも通り、いつも通りに振る舞うのよ、キカ。万に一つも不審な仕草なんて見せてはいけない。
あなたはここまで生き抜いてきた。そうでしょう? ならこの先も生き抜いていける。
もう親に会えなくても、彼に会えなくても、築いたもの全部を失っても。
負けない。いいえ。
負けるな。絶対に。
※※※
「よし、ちゃんとできたみたいだね」
非常階段から少し離れたリネン搬入口の所にフォンファは立っていた。
露店にいたときより地味な恰好をした彼女は、汚れたリネン類が到着するのを待っている洗濯女にしか見えなかった。
「フォンファ」
収まりかけていた涙がまたこぼれそうになる。
けれど、今度のそれは安堵の涙だ。
故郷にも帰れない憐れな女と心の中で蔑んでいたフォンファが、この時はまるで女神のように見えた。
「なんだい、その顔は。あたしがあんたを売るとでも?そんなことしたら『なんでも屋』はおしまいだよ。信用を落としたってことでほかの『なんでも屋』に殺されちまう。
「楊? ダミアヌス? あなた以外にも『なんでも屋』がいるの?」
「いる。だけどそれ以上は教えないよ。あたしたちはなんでも売る代わりに客もそれなりに選ぶんだ。自分でたどりつけた人間にしか、あたしたちは本当の姿を見せない」
ひやりとしたフォンファの声を聞き、私は今更ながら宮野に感謝した。
今こうしてフォンファと向かい合えているのも、宮野のヒントのおかげだ。
彼が私に向けていた愛情は、マツリの身代わりだったとしても確かに本物だったのだ。
「マンションの部屋を出るときはあたしの指示通りにしてきたかい?」
「したわ。実家には気晴らしに五日の旅行に行くことを伝えた。あなたの言うとおりの行き先と連絡先も伝えた。身辺整理なんかはしてないわ。五日後には帰って来るとしか思えないようにマンションもそのままにしてある」
「よし」
フォンファがうなずく。
「じゃあこれはあんたに」
手渡されたのは、旅行用に偽装された私の逃亡用の手荷物だった。
「安心しな。あんたが行くはずの場所には全部、あんたと同じ名前の人間がいるように手配した。あいつらどもにはそれでしばらくごまかせられるはずだ。まだ、あんたの実家の人間に首実検まではさせないだろうからね」
「……その人は、どうなるの?」
「知りたいのかい?」
フォンファがニヤリと笑った。
私はそれを見て、それ以上の質問を放棄した。
身代わりの私がどんな目に遭うのか、想像がついたからだ。
「じゃあこれを渡そう」
フォンファが、日本の物とは違う色のパスポートを渡してくる。
「あんたはこれからイギリス籍の
「私……日本人じゃなくなるの?」
「日本のパスポートの偽造は世界で一、二を争うくらいに難しい。もう少し時間がありゃ日本人の女を買って、パスポートを紛失したことにして、あんたを日本女のまま別人に仕立て上げられたんだがね。時間がなさ過ぎた。それでなくても日本女は高いし面倒なんだよ。その点、中国人なら白人には日本人と顔の区別がつかないし、安い」
フォンファが肩を竦める。
「本物の李マユミは完全に消したから心配しなくていい。あんたはただ私の言うことを聞きな。……『自由』になりたいんだろ?」
ファンファのその言葉は何よりも重く響いた。
私はたくさんの人間を踏みにじっている。
わかった。わかっている。
それでも私は生きていたいのだ、どうしようもなく。
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