逃亡 1
ぱたん、と肩に手を置かれて、私は反射的に体をびくりと動かした。
振り返った先にいたのは、眼鏡をかけた、どこにでもいそうな中年のサラリーマンだった。
ダークグレーのスーツ、よく手入れされた革靴、小脇に抱えた鞄。
でも、その眼鏡の下の目は誰も見ていない。私のことも。
「ホ別イチニー」
淡々とその男が口にする。
ああ、この男だ。フォンファが手配した男。私を助けてくれるかもしれない男。
「オーケイ」
私はできるだけ下品な笑みを浮かべた。路地裏で男を漁るたちんぼにふさわしい顔だ。鏡を見る暇なんてなかったから、この顔が正解かはわからないけれど。
「ありがとう。近くにそこそこの値段でこましなホテルがある。そこにしよう。俺は橿原。きみは?」
「……チカ」
本名を出す勇気はなかった。けれど、男はそのあたりの事情の説明も受けているのか、それ以上は詮索してこなかった。
いや、彼にとってはフォンファの客か否かというのだけが大事で、名前なんかどうでもいいのかもしれない。
「じゃあ行こうかチカちゃん。あーオプ払うからおじさんと腕を組んでくれ、恋人みたいに」
『恋人みたいに』
そう口にした時に、橿原の目に途方もない冷たさが見えた。
また、橿原の唇が私の耳に近づく。これもただ見ている分には、私たちは路上でいちゃいちゃしているようにしか見えないだろう。
「助かりたいんだろ。ちゃんと馬鹿なたちんぼを演じろ。腕を組むのは拉致防止だからな」
こくっとわたしは顎だけで小さくうなずく。
まだ、フォンファのように、唇を動かさないで話すことはできなかった。
「それくらいならオプなんかいらないよ。そのかわりまたチカを買ってね」
「え、いいの? チカちゃんはいい子だねえ。おじさんまた来るからあとで連絡先教えてよ」
「ほんと? ありがとっ! あとでLINE教えるね。じゃー早く行こー!」
私はできるだけ馬鹿そうに聞こえる声音と言葉を選んだ。
今の私は井原キカではなく、ニンフォマニアで愚鈍なたちんぼの、井原チカだ。
差し出された橿原の腕に私は自分の腕をきつくからませる。もちろんそこに性的な意味なんてない。
これが拉致防止のためならば、少しでも強く、強く、と、墜落寸前の飛行機の安全ベルトに縋るような気持ちで。
「お、いいねいいね。おじさんぐっときちゃうよ」
橿原も痛いくらいに私の腕をホールドする。
大丈夫。これならば、簡単には抜けない。今はこの腕の痛みですら嬉しい。
フォンファが私が思ったよりずっと力があるとわかった今では、私はもう橿原にもなんの不審も抱かなかった。
「じゃあ行こうか。チカちゃんはMってホテル知ってる?」
「んーん。知らなーい」
「じゃあおじさんが案内してあげるね。すぐ近くだから大丈夫だよ」
「はーい!」
橿原の言葉ひとつひとつに、私はまるで遊園地にいるようにきゃっきゃっとはしゃいで応じる。
大丈夫、大丈夫だ、キカ。演じろ、演じきれ。
生き残るということ以上に大きい報酬なんかない。
男は迷わずホテル街を歩いていく、そして、ほかのホテルとたいして変わりのない『M』という看板の出ているホテルの前で立ち止まった。
「ここだよ」
そこは受付が無人のよくあるタイプのラブホだった。男は適当にパネルを操作して部屋を選ぶ。
私はただそれを見ているだけだ。きっとこの男の選択すべてに意味があるのだろう。ならば私には何も言うことはない。
「チカちゃん、この部屋でいいかな?」
「うん!」
私は男の腕にぶら下がり、馬鹿そのものの笑顔で応じる。
男が選んだ部屋は高級でもなく、安価でもなく、中庸そのものといった部屋だった。
できるだけ誰ともすれ違わないようになっているラブホの廊下。
今ももちろん、歩いている人間は私たち以外にはいない。
そして、その廊下のちょうど真ん中あたりに、そこが私たちの入る部屋だということを示すランプが点灯していた。
橿原がその部屋のドアを開ける。
その部屋はなんの変哲もないラブホの一室だった。
私は思わずきょろりとあたりを見回す。
私を救う何か、よくはわからないけれどすごい何か。そんなものをほんの少しだけここに期待していたからだ。
でも、何もなかった。
橿原がベッドの端に座り込み、スマホの操作をし始める。もしかして私を売る気なのかと思わず身構えるたとき、「つきました。いい子をありがとう」という橿原の声と『でしょう、お兄さん。今日は待機室に携帯を忘れたってだけで、ほかはちゃんとしたうちの売れっ子なんですよ』というフォンファの声が聞こえた。
ああ、と私は安堵する。そしてスマホをスピーカーにしてやり取り聞かせてくれた橿原かフォンファの気遣いに感謝した。
この会話なら誰に電波を傍受されても安心だ。ただのデリヘルの到着確認にしか聞こえない。
唯一不自然なのは相手の声も聞こえることだが、フォンファが連れてきた男が指定したホテルだ。室内での盗聴や盗撮の心配はないということなんだろう。
「それで、本当に500円引き?」
『はい。携帯を忘れたんでペナです。そのかわりまたお願いします。他にもたくさんいい子いますから』
「悪いねえ」
『いえいえ。じゃあ今日はありがとうございました。お楽しみください』
そして、ふっと静かになる室内。
橿原はスマホを胸ポケットにしまい、立ったままの私を見上げた。
「ピアス屋が前が非常階段を降りたところで待ってる」
「ピアス屋?」
「ピアス買ったろ、高いやつ。たぶん一生ものの」
意味のわからない単語を聞き返すと、またあのからっぽな目が私を見た。
一生もの。
……そうか、そういうことか。確かに一生ものだ。私の人生を買い戻すんだから。
「廊下の監視カメラは故障してるらしい。不用心なホテルだ」
「本当にね」
だから安心して出て行けということだろう。
「俺はご宿泊をして出る。そのころはカメラも直ってるはずだからな」
「そう。ゆっくり休んで」
「もちろん。この仕事は疲れる」
律儀な橿原の応答がこんなときに妙におかしくて、私は笑いながら「またね」と口にしていた。
そして、ここまで来ても笑える自分にほっとした。
よかった。うん。私はまだ大丈夫。
私はカオリのようにはならない。
狂って『自分』をなくしたりしない。
絶対に、絶対に逃げ切ってみせる。
でももしそれが失敗したら?
私が私でなくなったら?
……そのときはそうなる前に自分でけりをつけよう。
知らない誰かになんて、私の人生の幕引きはさせない。
私は、私だけのものだ。
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