狼と猫

「まずい。非常にまずい事態になったよ金井くん」

 

 どさり、とノゾミさんが俺の隣に腰を下ろした。

 いつもより幾分苛立たしげに玄関でブーツを脱いだノゾミさんは、この自分の部屋の中ではこれまで見せなかった、職場での顔をしていた。


「獲物が消えた」


 なんだ、そんなことか、と俺はそれまで読んでいた本にまた目を落とす。殺し方の本じゃない。平凡な相場のハウツー本だ。

 年を取って追跡や処刑が苦になってきたら、俺は命令系統上部に上がるより、引退して株式投資でもして暮らしたかった。


「探しゃいいでしょう。俺たちのところ以上に有能な狼はいないって、ノゾミさんも言ってたじゃないですか。餅は餅屋。探索は探索屋の人狼部に一任しましょう」


 『人生』を買い、その対象の処刑も兼務する俺たちとは別に、逃げた標的たちを探し出すこと専門の人狼部があるのくらいは、新参の俺でも知っていた。

 ときおり標的には、その社会的地位や金で自分の置かれた立場を知り、逃げようとする者がいる。

 それを防ぐための専門部員として人狼がいるのだと、ノゾミさんは牙のように長いネイルの手入れをしながら誇らしそうに言ったものだ。

 もっとも『逃げよう』と思った時点ではまだ準備ができていない者ばかりで、ノゾミさんの言うように「蠅を捕まえるより簡単に」獲物は人狼部が補足してしまうのだけれど。


「その人狼が逃した」

「は?」


 俺は本から顔を上げた。

 ノゾミさんは唇を噛み、前を見つめている。

 その唇が、ゆっくりと開き、悔しそうに音を紡ぐ。


「獲物が『なんでも屋』のフォンファに縋った。そこから先の臭いが追えない」

「『なんでも屋』のフォンファ?誰だか知りませんが、そいつもいつもみたいに締め上げ……」

「それはできない。できないんだ!」


 突然の大声に、思わず俺は身を竦ませた。

 俺の横で、金色の髪を振り乱し、怒声を上げる女は、一人で三人の生きた人間を挽肉機にかけられる女なんだと思い出したからだ。


「ああ、怒鳴ってすまない。きみには誰も説明してなかったのか。あたしたちが追えないものがこの国にはいくつかある。まずはこの国の中央に鎮座している『太陽』とその一族。理由くらいはわかるね?」


 俺はうなずく。確かにあの方たちには手を出しちゃまずいだろう。


「よし。彼らはあたしたちの命令系統のさらに上だ。絶対に追っちゃいけない。あとはこの国に明確に貢献した者や貢献するだろう者も追えない。これは命令系統決定だ。それ以外に向こうから手を出してこない限り、こちらからは手を出せないものがいくつかある。『時計屋のヤン』『エビ屋のダミアヌス』それに、『ピアス屋のフォンファ』……この近辺にいるのはこのあたりだ。みんな売れない露天商を装っちゃいるが……本当は『なんでも屋』なんだよ、全員。あいつらは金次第でなんでも売る。今回の獲物はフォンファから『自由』を買ったんだろう。調査部が悪いね。獲物を見くびっていた」


 カリ、とノゾミさんがデコられた長いジェルネイルの先を噛む。

 はじめて見る仕草だった。


「あたしたちとあいつらは普段はお互いに不可侵だ。あいつらから手を出してこない限り、お互いがいないように振る舞わなきゃいけないんだよ。だから獲物があたしたちと接触した後ならフォンファも助けなかったはずだ。もうそこはあたしたちの領分だからね。でも獲物があたしたちのことを知らずに助けを求めたら……フォンファは獲物が求めるものを売るし、あたしたちはそれは止めちゃいけない。これは『決まり』なんだ。あたしだってなんでかは知らないよ。でも『決まり』は守らなきゃ、秩序ってものがなくなる。あたしはそういうのは嫌いだからね」


 ぱたりと、疲れたようにノゾミさんがソファに背を預けた。

 俺はそんなノゾミさんの姿を見るのも初めてだった。

 ノゾミさんは俺にとって、スカウトをされたその日から、根拠のない自信に満ち溢れた羅針盤のような人だった。

 それにそうでなきゃ困るんだ。

 この人は普通の家庭に産まれて普通の教育を受けた男の生業を、『殺人』なんてものにしたんだから。

 困惑している俺には気づかないのか、気づかないふりをしているのか、組んだ拳の上に顎を乗せ、ノゾミさんが自分に言い聞かせるように口にする。


「いいかい? あたしたちは失敗しちゃいけない。しちゃいけないんだ、金井くん。あたしたちのこのシステムは深く潜航し、ずっと動き続けてきた。日の光の当たるところに出たら干からびてしまうよ」

「あんたがいつか酔って買ってきたクラゲみたいに?」

「こんな時にまで冗談が言えるなんて、きみは大した男だね」


 そのときのノゾミさんの口の端に浮かんだのは嘲笑だったのか、本物の微笑みなのか、俺には区別がつかなかった


「まあ、そんなきみならこの先も大丈夫そうだ。じゃあこの先の話をしよう。今後、これに関しては、きみとノゾミさん、コンビで当たる」

「報酬割れだ!」

「受付部がいくらで請け負ったかなんて知るもんか。獲物を逃がすなんて失態はノゾミさんは初めてのことだ。絶対に起こしちゃいけない。信用問題だ。秩序がなくなる。ノゾミさんは無秩序なんて大嫌いだ」


 ノゾミさんが眉をしかめる。

 猫のような目も、まるで本物の猫のように閃いた。


「あれ、でも、さっきの話だと、その『なんでも屋』ってやつらには俺たちは手を出せないんじゃないですか?」

「ノゾミさんはいつだって秩序優先さ。秩序がないなら作ればいい。奴らが先に手を出したんだと、現実を作り替えればいい」


 ノゾミさんの手に、ひらりと紙片が踊る。


「ノゾミさんのしもべはどこにでもいるんだよ。跳ね回る確率論の猫さ。このデータによると、フォンファはあたしたちが一度捕まえた獲物を、勝手に逃がしたことになってる、命令系統上部にはこっちを提出したよ。これからは、こっちが現実だ」

「あんた、命令系統上部を騙すのか? そんなこと――」

「喋らなくていいよ。金井くんの言いたいことはわかってる。『殺される』だろう? でもノゾミさんには殺されるより嫌なことがあるんだよ。ああ、本当に嫌さ。気に食わない。『なんでも屋』も、獲物が逃げるのも。無秩序も。真面目に生きてる人間が割を食う世の中なんて最低だ。だからね、物事はポジティブに考えよう。さっさと獲物を殺して、『なんでも屋』も潰せば、今後のノゾミさんの仕事を邪魔する生き物は減る。それは素晴らしいことだと思わないかね?」


 俺は言葉が出なかった。

 つまりこの人は、命を賭けてプライドを押し通すと?


「……俺は、あんたが死ぬのはいやだ」


 結局、しばらく考えて、口から出たのはそんなつまらない言葉だった。

 ノゾミさんの長い睫毛がパタパタと動いて、赤い唇が傷口のように笑みを浮かべる。


「じゃあ、手品の種がバレて、あたしが命令系統上部に処分される前に、奴らを殺すのを手助けしてくれたまえ。やってくれるだろう? きみならできるよ。できるとも」

「そんな……」

「さっきも言ったろう? この件はきみとあたしのコンビで当たる。つまりね、このデータをもとに、新しい命令が下されたんだよ。これからは、人狼部もノゾミさんの手足になる」

「……獲物の名前は?」


 俺は諦めてそう聞く。

 どうせもうノゾミさんは止まりやしない。

 この人はこうと決めたらけして引かない――病的なほど仕事へのプライドを持っているとは思っていたけど、ここまでとは!――データの捏造なんて、俺には想像もつかないことまでやってのける。だったら、その捏造がバレる前に獲物を見つける方がいい。

 命令系統上部も、クローズした案件にはうるさくない。さっさと殺して案件を終わらせれば、この件もうやむやになるだろう。いや、ノゾミさんのことだ、そうなるように手はずを整えているはずだ。なら、そのための協力をしよう。俺にだってこの人のためになることはできるはずだ。

「キカ。井原キカ、だよ。実家の井原家はもう抑えてある。だがフォンファを頼ることを知る女だ。見くびっちゃいけない。怯えて親元になんか帰らないだろうね。ああ、帰らないよ」

「賢い女なんすね」

「賢い……? そうだね」


 ニンマリと、ようやくいつものノゾミさんの笑顔が戻ってきた。


「だがどんなに賢かろうがね、捕まえるよ。ノゾミさんはおまえを捕まえる。――井原キカ……!」


 俺はその女にひっそりと同情をした。

 静かな憤怒に満ちたノゾミさんの言葉。

 井原キカは捕まえられたらどんな目に合うのか。

 ノゾミさんのことだから依頼主の言うことはきっちり守るだろうが、そのあとどんな肉塊にされるのか。


 ……まあ、俺の知ったこっちゃないな。今回も、死ぬのは他人だ。 


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