警告

 たちんぼと、それを物色している男たちに取り巻かれながら、私は逃亡を始めたあの日のことを思い出す。


                  ※※※


 宮野からの招待状はいつものように、ブランドマークが壮麗に型押しされた固い封筒に包まれて届いた。

 これは一般の人間には入れないレセプションだ。特別に招かれたそのメゾンの上得意の人間だけが入ることができる。そうして、貸し切りになった室内で、モデルたちが微笑みを振りまきながら新作の服や小物を身に着けて歩くのを見て、気に入ったものがあればその場で注文し、その合間に軽食をとるような催しだった。

 日本では正規店でも買えない本国限定の品がオーダーラインに並ぶ上、宮野はとても気前がいいので、私はいつもこれへの誘いを楽しみにしていた。

 優雅に封蝋された封筒へペーパーナイフの切っ先をあて、私は招待状を出そうとする。

 そのとき、かさり、と私の指に何かが当たった。

 それは招待状の入っていた封筒より一回り小さい、地味な白地の封筒で、こちらにも洒落た書体でMの封蝋が押されていた。


 私は特には驚かなかった。


 鳴海章や大西政寛が好きな宮野は好んで自身もそのように振る舞っていた。おかげで、そんな世界には縁もゆかりもなかった私でさえ、有名どころの名前ならすぐに出てくるようになった。

 黒いロングコートにボルサリーノを引っかけ、口元には中巻きの葉巻。何十年か前の紳士とはこういう物だったんだろうと思わせる、隆とした身なり。

 そのうえ宮野は、彼らの外側だけでなく、女を軽んじながら女を大事にするところまで真似ていた。

 私にはよくわからないが、それが宮野の中の『粋』というものらしかった。

 だからきっとこれも、私へかマツリへかわからないけれど、そのどちらかのメッセージカードなんだろう。バッグのプレゼント以外のサプライズでも喜ばせようとしたのに違いない。

 ぺりり、とペーパーナイフで紙が切れていくかすかな音。

 けれどそこにあったのは私が予想していたような、香水をしみこませた宮野個人からのカードではなかった。

 それは……日記帳の一ページを乱暴に破った切れ端だった。


『某月某日


 マツリが死んだ。


 悪童どもの誘いに乗って鬼ごっこをしていたマツリは車道に飛び出し、車に撥ねられ死んだ。

 夢だと思うようにしているが、周りはマツリの葬儀の用意をしていく。


 ひとまず、マツリが黙って邸外へ出て、悪童どもと遊んでいたことに気付かなかったあの女はこの家から追い出そう。


 しかし儂も慙愧の念が堪えない。


 なぜマツリに庭の中で遊びなさいと厳命しなかったのか。

 儂の目の届く場所にいれば安全だったというのに。

 鬼ごっこもしなかっただろうに。


 マツリ、許してくれ。儂にはもうおまえは助けられない。

 鬼ごっこなどするなと言えばよかった。


 けれど、もう何もかも遅いのだ。


 儂は』


 紙はそこで破られ途切れている。

 書き損じた日記を破り取った。そんな態だった。

 でも、違う。

 私はそれを手にしたまま、身を固くして立ち尽くしていた。

 呼吸することさえ忘れ、息苦しさで我に返ったほどだった。

 恐らく、これは警告だ。

 マツリの死に方は宮野から何度も聞いている。

 彼のマツリが死んだのは確かに車に撥ねられたことが原因だが、その理由は鬼ごっこなどではない。

 マツリは、道路に飛び出したボールを追いかけて車道に飛び出し、車に撥ねられたのだ。

 つまり――このメモの中のマツリはきっと……私のことだろう。そう思う。カオリの口にした鬼ごっこという言葉との奇妙なリンク、宮野なりの愛情を感じる語り口、考えすぎかもしれないが、全てが私をさしているように思える。

 私は、急いで宮野に繋がる番号を押した。


 気を付けて、キカ。思い過ごしならそれでいい。遠回しに、だけどうまく確かめるのよ。


「宮野さん、招待状届きました! ありがとうございます」

『おお、キカちゃんか。デザイナーが変わってから初めての展示会だ。楽しみにしておいで』

「それが……こちらから喜んでお受けしたのに申し訳ないのですが、この日は友人の結婚式の予定が入っていて……。せっかく素敵なお誘いをいただいたのに申し訳ありません」

『いやいや。日時を確認せんで送った儂が悪い。なに、展示会などいくらでもある。またキカちゃんの好きな店の招待状が来たら送ろう』

「ありがとうございます!その前に一度お茶にでもお付き合いしてくださいね」

『若い娘っこに誘われるのは嬉しいもんだの』


 カカカ、と電話の向こうで高らかに宮野が笑った。


「それから、同時にいただいたメッセージなんですけれど、お間違いになったようで書き損じのメモが入っていましたよ。お返ししますか?」

『どんなメモかね』

「間違って書いたものを破り捨てたような感じですけれど……なにかの会合の予定のような……」

『あー、キカちゃんの手紙にあれが入っとったか。そりゃいかん。燃やして捨てておくれ。儂の身辺には漏らせぬものが多いんだ』

「燃やすのは怖いから、シュレッダーにかけますね、すぐに」

『おお。そうしてくれ。儂は敵が多い。だからよけいキカちゃんが可愛いんじゃ』

「もう、褒めてもなにも出ませんよ」


 なんともないように返しながら、私はてのひらをきゅっと握りしめる。

 宮野のメモは会合の予定なんかじゃない。なのに宮野は私の言葉に同意した。

 つまり、すべては意図的。メモを招待状に仕込んだのも。メモの内容も。

 となれば、恐らく、この電話は盗聴されている恐れがあるのだろう。

 だから宮野は以前の電話で鬼ごっこのことを『知らない』と答えた。

 けれど彼は本当は知っていた。

 カオリがなぜ狂ったのかも、私がどんな立場に置かれているかも、あの電話一本で悟ったのだ。

 だからこうして警告とヒントをくれた。

 万が一、誰かの目に触れても大丈夫なような形で。

 ならば私も宮野の好意に応えなければ。


「宮野さん、旅行に行くならどこがお勧めですか?」

『なんだ、キカちゃん、儂と旅に出てくれるのか』

「もう、冗談ばかり。そのときはお部屋は別ですよ。……女友達が連休にどこかへ行きたいね、と。でもハワイや台湾は行ったことがあるから、ほかに手近でいいところはないかな、と話していたんです」


 ふむ、と宮野が考え込む気配がする。


『中国はどうかね』

「あら、対日感情とか、環境とか大丈夫かしら」

『なに、そんなもの、儂が手配すれば心配ない。儂は『なんでも屋』だからな』

「わあ! 頼もしい。宮野さんにご相談してよかった! じゃあ日程が決まったらまたお話ししますね! 友達も絶対に喜びます!」

『儂はキカちゃんが喜んでくれるのが嬉しいよ』

「もちろん私も嬉しいです!」

『そうか、そうか』


 宮野のその短い相槌にはなんらかの感情が込められているように思えた。

 たとえば、二度と会えない相手への哀惜の意。


「じゃ、宮野さんのお仕事メモ、シュレッダーにかけてきますね。またお誘いいただけるの待ってます」

『ん、そうだの、じゃあ、さようなら、キカちゃん』


 サヨウナラ、キカチャン。


 違和感の棘がつきりと胸を刺した。

 宮野は別れの言葉を口にしたことがない。

 そんなことをしたら私もマツリのようになるのではないのかと怖くなるのだと言う。

 その宮野がはじめて口にした、さようならの言葉。


 そうか。私はもう戻れないのか。


 声が震えないように気を付けて、私も宮野に別れを返す。


「さようなら、宮野さん」


 このときほど、通話の終わった後のツーツーという音が恐ろしかったことはなかった。

 あの宮野でさえもコントロールできない、それどころかここまで用心深くしなければならない相手。

 私はそれが鬼の鬼ごっこに参加させられているのだと。

 こうなれば、部屋のどこに盗聴器や監視カメラがあるかわからない。

 母の態度に違和感があったことにも説明がつく。

 おそらく、彼らももう鬼に取り込まれている。

 私が一番安全だと考えている実の親の家に帰る時の為に。

 すべてが思い過ごしであれ、とそれでも祈りながら、私はひとまず身を隠すための用意を始めた。ひとつだけはっきりと言えることは、宮野がこういった類のことで冗談を言う人間ではないということだ。

 私は普段出かけるときに使うバッグに、普段出かけるときのためだけの用意を詰めていく。できるだけ、不自然に見えないように……。

 メイク直しセット、簡単な身の回りの物、スマホの充電器、筆記用具……。

 そして、ただ一ついつもとは違うものをそこに忍ばせる。

 それは赤い革の表紙の手帳だ。

 この中にはそれとはわからないように私のパスポートが挟んである。

 いつかスパイ映画を見てふざけたやったことがこんなときに役に立つなんて。

 宮野は旅行には中国を勧めると言った。

 ならば国外への出国は可能なはずだ。

 何もなかったような顔をしてタクシーに乗って、すぐに空港へ向かおう。


 ――逃げ切ろう。


 違う。そのあと宮野はなんと言った?

 『なんでも屋』と確かに言った。

 ……考えろ、キカ。これは私が助かるかもしれない最後のロープの一本だ。

 中国……『なんでも屋』……思考の指を必死で頭の中に伸ばす。

 宮野のくれたヒントを無駄にしてはいけない。

 それに何より、私はまだ死にたくない。

 カオリのように狂わされたくもない。

 私の築き上げたもの……手に入れたもの…手放すのは惜しいけど、それは生きていれば取り返せるから。

 そのとき、ぱちんと脳の中で何かが弾けた気がした。

 そうだ。あの女がいた。

 『なんでも屋』だという噂のフォンファ。

 彼女の見かけと名前は中国人だ。

 でも、あの女が宮野が教えてくれた切り札?

 宮野以上のもの?

 どう見ても故郷に帰れなくなった不法滞在の中年女が?

 私はいくつもの疑問詞を振り払うように関節を鳴らす。

 こんな癖は治さないとまた指が太くなってしまうと思い、まだそんな心配ができる冷静さを保っている自分に感謝する。

 鬼は宮野さえかなわない相手だ。

 選択肢はいくつあってもいい。まずはいきなり出国するよりフォンファに会ってみよう。きっとつまらない露店のピアスを買わされて、落胆して帰って来るのがおちだろうけれど。


                  ※※※


 そして私の期待は裏切られた。

 最良と、最悪の意味で。


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