Case.13-1 気配

むぎ〜!!!ただいま!!!!」


 ワンルームの部屋に空しく響く声。


 あっ、そうか…。もう、麦はいないんだ。

 疲れて帰って来た僕を麦はいつも「どうしたのさ?なんとかなるって!」という顔で出迎えてくれたっけ。


 その麦は、先月、天国へ旅立って行った。

 約半年、嫌いな病院にも頑張って行って、注射の時も鳴き声一つあげなかった麦。

 十二歳の人生を麦はどう思ったのだろうか?果たして俺の元で幸せだったのだろうか?辛い思いはしなかったのだろうか?など、いなくなった後で様々な思いが湧き上がった。


 俺は、麦が死んだ日から三日間休みを貰った。

 麦が息を引き取ったのは、朝の三時だった。それまで、まだ俺の手の上には確かに麦の温もりがあった。だが、それが、少しずつそして、少しずつ…、冷たくなっていったのだ。


 彼は、最後まで目を開けなかった。それは麦が美学を貫いているように思えた。

「僕のことは大丈夫だから、悟はもっとちゃんとしないと駄目だよ」

なんだかそう言われているような気がした。


 陽が昇りあっという間に昼になった。

 俺は、ずっと麦を腕に抱いたままソファーにもたれ、ただ呆然ぼうぜんとしていた。


 「行かなきゃな…」


 これまで世話になった病院の先生の元へ出かけようとソファーの上に置いたバスタオルに麦を静かに寝かせる。

 ヒゲを剃って歯を磨き、真っ赤になった目を冷たい水で冷やした俺は麦をバスタオルにくるむと大きめのトートバックに入れ、病院へと向かった。


「麦くんは苦しまなかったみたいよ。悟君のサポートのおかげだね。ほら、泣かない!麦くんはそんな悟君なんて見たくないって言ってるわよ」


 くそっ、ずるいよ。先生、自分だって泣いてるくせに…。


 それから、病院で紹介して貰ったペット専用の火葬場に連れて行き、待合室で彼の事を思い出して泣いていたら、あっという間に骨となった麦が小さな壺の中に入った形で俺の手に戻って来た。


 それからの俺は、散々だった。

 まとまりかけていた大口の商談も何故か白紙になってしまった。

 さらには、本社への異動内示を貰っていたのに、何故かこれも消滅してしまった。俺はこのまましがない小さな支店でまた営業活動を頑張っていかねばならないのか…、そう考えると何もかも億劫な感じになってしまい正直、何もやる気が湧かなかった。


 ところが…。

 ある日、異変が起こった。

 

 今思えば、それは、俺が珍しく自分の部屋で缶ビールを一ダースもあけ、酔い潰れたその夜から始まったのだと思う。


 『ガリガリガリガリ…』


 リビングのベランダ側の窓フレームに付けっぱなしにしていた麦用の爪とぎから音が聞こえて来たのだ。


「えっ?えっ!!!!」


 驚いてリビングに目を向けると、その音は急に聞こえなくなった。


 その後も、家に帰ってくると洗面台の蛇口から、「ポチャン、ポチャン」と少量の水が出ていたり、マウスパッドの角に囓られた跡が付いていたり、さらには、俺が終電近くに帰ってきて、玄関の扉を開けると、廊下の一部分がまるで今まで麦が座っていたかのように、じんわりと暖かくなっているのだ。


 最初は、自分の想像を超えたことが次から次に起きるので、正直、恐怖心を感じていたが、ある日、洗濯物の上に白と黒の長い毛が一本落ちていたのを見て俺は全てを悟った。


「あー、この部屋に麦が来ているんだ…」


 そう思うと全てに合点がいった。

 これまで起きた異変は、全て生前、麦がやっていた事ばかりなのだ。

 

 きっと、今の俺が余りにもすさんでいるから、天国から許可を貰って、励ましに来てくれているのかもしれない。


「あー、会いたい…。会いたいよ…麦」


 それからというものの、俺は、出来る限り仕事を効率的に済ませるように努力した。日々の報告書もできるだけその日のうちに提出するなど、麦が亡くなってからルーズになっていたことを全て改善して、とにかく早く家に帰れるように仕事を頑張った。


「ただいま〜〜!麦〜〜!」


『がさっ』


 今度は、風呂場から音がした。

 麦は、風呂場が好きで、水を抜いた浴槽の床にべたりと寝転んでいることが多々あった。俺は、静かに風呂場の電気を付けて、声をかける。


「麦〜、濡れちゃうよ。ほら、風呂掃除するから早く出ろよ」


 すると、俺の右足に、確かに、確かに麦の、あの麦の尻尾が当たったような気がした。しかも、麦がいつも俺にしていたように、二度「ポンポン」と尻尾で足を叩いていったのだ…。


 「麦、麦、お前、やっぱりここにいるのか?」


 思わず、俺は誰もいない風呂場に向かって泣きながら話しかけていた。


 麦が俺を心配して天国から来ているようだ…。

 それは、常識では到底理解出来ないが、間違い無く今、俺の前で起こっている…。


 ある寒い夜、ベットに横たわった俺は懐かしい重みを感じていた。


「麦だ…」


 麦は、俺のお腹の上に乗ってそのまま寝る癖があった。

 最初は俺も微笑ましく麦を撫でながら寝ようとするのだけど、三十分も経つと流石に重く感じてしまい、結局麦を「よいしょっ」と言いながらベットから降ろして眠りについたっけ。


 だが、今の麦は軽い、そう、明らかに軽いのだ。

 きっと、麦が亡くなる直前の体重になっているからかもしれない。

 そう思うと、何とも言えない気持ちになって、俺は見えない麦の顔を両手で撫でる。だが、重さは感じるものの其処には何もいない…。


 「会いたい、会いたいよ…、麦…」そう呟くと寂しさの余り布団を被った。



Case.13-2 へ続く…。

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