Case.9 優しい雨

「おい、小林、今月本当に大丈夫なのか!?あと一週間しかないぞ」


 予算達成まで残り二千万。まだ、達成率が半分と先月に引き続き今月も苦戦している僕は、色々言い訳をしようとしたものの、結局無言のまま部長の叱責をうけている。


 周囲の目が痛い。

 同情?哀れみ?そして、軽蔑などが混じり合ったじっとりした空気の中で僕は窒息しそうになっていた。


「お前、今日からいつもの二倍ラウンドしろ。そして、お客さんが何を望んでいるのかまずはそこに注意してやってみろ。もう、今月の売り上げは期待しないから、来月のことを考えて動け。いいな」

「は、い…」

「なんだ!?何か言いたいことあるのか?」

「いっ、いえ、ありません」


 部長は踵を返すと、売り上げ好調のスタッフに笑顔で話しかけ、「頼むぞ〜」と言いながら肩を揉んでいる。


「僕には無理です。もう辞めます」


 なんでさっきこの言葉を発することが出来なかったんだろう。


 僕は小声で「行ってきます」と言ってドアを開ける。

 誰からも返事がないまま、僕は冷たい雨が降る外へと歩きだした。



 正直、こんなはずではなかった。

 僕は、物書きで生計を立てるのが夢だった。だから、大学でも文学部に入り、読み書きが好きな仲間を集めサークルを作った。

 初代部長として、初年度から出版物も制作し、学祭でもそこそこの売り上げを出すことで大学にも存在感を示した。大学の授業を担当している著名な作家にも僕の名前を覚えてもらえるくらいにはなった。


 だが、やはり現実は甘くない。数多くのコンテストに何度も自信作を応募しても佳作にもひっかからない有様だった。

 僕は、自分の実力を思い知ると、早めに就職活動に精を入れた。そして、三年の冬には、超難関の出版社への就職切符を手に入れた。

 

 少し自慢げに就職先を話す僕に、サークルに所属するメンバーは、戸惑いながらも少し大袈裟に羨んだ。

 なのに、就職してたった二か月で僕の人生は奈落の底へ垂直に落ちて行った。営業二課への配属が発表された五月から、グズでノロマで機転が効かない会社にとってお荷物の所謂、『使えない人』へと僕は変わってしまったのだ。


 「物書きをする人をサポートして、読者を幸せにしたいんですっ」


 面接では熱く語ったのが今では遠い昔のように思える。


 はぁ〜と溜息をついた僕は、会社が発行する雑誌への広告を入れてくれる新規企業を探し、今日も飛び込みで営業をしている。

 会社の名前を述べると最初は、皆、ん?と興味を持ってもらえるのだが、広告の話をするとすぐに、「うちなんか広告なんて必要ないよ」と話を最後まで聞いて貰えずに追い出される。


 今日もこれ迄に四件に断られていた。

 僕は肩を落とし、下を向いたまま改札を通り抜けるとホームへ続く階段を降りて行った。


 『ザー、パッシャン、シャァッー…』という波の音が聞こえてきた。

 

 僕は無意識に新宿から鎌倉へ、そして江ノ電に乗り、稲村ヶ崎で下車していたようだ。最早、自分の意思に関係無く動いていること自体が相当危険なんだろうなと漠然と思うものの、突然聞こえて来た波音と鮮烈な潮の香りに少しだけときめく自分がいた。


 大きなラブラドールを連れた親子が目の前を通り過ぎる。

 雨の日の散歩って、大変じゃないのかななんて思っていると、僕の目の前をと虎模様の猫が横切って行った。


 ん?僕はその猫へ目を向ける。すると、その猫も足を止め、僕を凝視している。随分、恰幅がいい猫だ。きっと飼い主さんに可愛がられているのだろう。雨に濡れた毛並みもとても綺麗だし、なんと言っても目力が凄い。

 

 その猫がなんで僕の事を見つめているのだろう?一体なんなんだろう?と思っていると、その猫が突然、『パチッ』と見事なウインクをした。

 僕は、へっ!?と間抜けな声を出す。すると、その猫は、今度はなんと両目でウィンクをするではないか…。


「気に入られたんじゃない?」


 その声に驚き振り向くと僕の後ろには赤いパラソルを差した女性が僕を見つめていた。


「今、気に入られた?って言ったんですか?」


 僕は、思わず聞いてしまう。

 彼女はクスッと笑いながら、「だって、カレンがこんなにハートビームを出すのは珍しいもの」とよく見るとその人はとても美しい、いやとても可愛い表情をした僕と同じくらい年の女性だった。


「もしそうなのであれば、仕事でもこれくらい気に入られたらなって思います」


 僕は情けないことを言ってしまう。


「えっ?そうなの?私、もうすでにあなたのことを気に入ってますけど」

「はっ?」

「嘘じゃないですよ。だって、すぐにわかりますから。貴方はとても繊細で優しい人ですよね」

「い、いやぁ、そんなこと言われたことないからわかりません」

「こんな日の雨って優しいでしょ?」


 彼女は、ふいに差していた傘を閉じると霧雨のような雨を受けるために顔を空に向ける。


「私、こんな日の雨って好きだな…」


 空を見上げる彼女がとても綺麗に思えた。

 つい、僕も彼女に吊られたように空を仰ぐ。

 優しい雨が次から次へと僕の心の中の黒い塊を洗い流してくれているみたいだった。


「あ〜、そろそろ行かなきゃ。ほら、カレン、行くよ」

「あ、あのっ。また会えますか?」

「私?、いつもこれくらいの時間に散歩してるよ。時間が取れたらまた来てよ。待ってるからさ」


 そういって、にっこりと微笑んだ彼女は、畳んだ傘はそのままに、優しい雨に濡れながら、横断歩道を渡ってなだらかな坂を登って行く。

 僕は、透明で偽りのない彼女の心が作る雰囲気に見とれたまま彼女が遠く消えるまで、ただ黙っていつまでも見つめていた。


 もしかして、僕は、営業の仕事をつまらない仕事、いや会社のメインストリートから落ちこぼれた人がやる仕事と勝手に思っていなかっただろうか?

 人に頭を下げ、おべっかを使い、接待をし、夜遅くまで駆けずり回り契約を取ってくる他のスタッフのことをさげずんでなかっただろうか?

 そう思うと俄然自分の甘さが恥ずかしくなる。


「ニヤッ〜〜〜」

「あれ!?カレン、まだいたのかい?」

「ニヤッ」

「僕が心配だって?大丈夫。目が覚めたよ」

「ニヤ〜ン」

「うん。そうだね。本気で頑張ってみるよ」

「ニヤッ」

「うん。次の土曜日にここで会おう。彼女にも宜しく」

「ウー、ニヤッ」


 わかったよと言いながらカレンは彼女が登っていった道をゆっくりと歩き出す。


 なんだ、簡単なことだったんだ。

 プライドなんて捨てて、もっと人に向き合えばいいんだ。


 これまでの僕は取引先にも大きな壁を作ったまま接していたんだと思う。そして、こんな仕事なんて…という気持ちが言葉にも出ていたのだと思う。それを変えるだけで何かが変わるのかもしれない。


 僕は、ゆっくりと駅に向かって歩き出す。

 また、カレンに会えたらいいな。そして、今度はもっと長く彼女と話せればいいな。うん、彼女には地元で評判のスィーツをお土産に買って行こう。


 さあ、明日からは頑張るぞ。もっと真っ正面からお客様にぶつかってみよう。そして、自分自身を売り込んでみよう。


 僕は、いつの間にか走り出していた。




Case.9 優しい雨

終わり








 



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