Case.4-1 猫の爪とぎ
「
「はい。じゃあ、ちょっとだけ」
「ばか、ちゃんと一時間しっかりと休んでいいんだぞ。体が一番なんだからな」
「うん、いや、はい。わかりました」
「おう。今日はいつもより朝が早かったから少し寝たらいいぞ」
「はい…」
そう言いながら僕は、狭くて急な木製の階段をゆっくりと上がっていく。
築四十年が経つというこの家は、至る所にガタが来ていて、この階段も日に日に軋む音が大きくなっているような気がする。
二階の襖を開けると四畳半の部屋に光が射しこんでいた。あー、もう夕方なのか。今朝も朝の四時前には起床して、仕込みをし、そしてひたすらパンを焼く。そして、あっという間に夕方になり、そして夜が来る…。
多くの人は余りにも単純な生活に嫌気が差すのかも知れないが、僕はただひたすらと同じ流れが巡って来るこの生活の中で、少しずつだが落ち着きを取り戻していた。
- - - - - -
鉄筋アパートの二階の角の部屋。今で言う1LDKの広さに僕ら家族はひっそりと生活をしていた。父親は長距離のトラック運転手で、母親は小さなスーパーのレジで働いていた。とても貧乏だったが、父が仕事から帰ってきた日は、すき焼きと決まっていて、僕はその日がとても楽しみだった。
だが、あの日から歯車が狂い始めた。
東北からの帰りの高速道路で、玉突き事故に巻き込まれた父は右足が使えなくなった。アクセルもブレーキも踏めないから仕事はすぐに首になり、なんとか出来そうな事務仕事などを探したようだが、結局見つからず、それからは家でずっと酒を飲んでいた。
母は、そんな父にいつも慰めの言葉をかけては、罵声を浴び、それでも優しい言葉をかけ続けた。しまいには、父は母に手を出すようになり、俗に言う絵に描いたような崩壊した家庭が出来上がっていったのだ。
中学になると、生活はさらに酷くなり、学校で昼ご飯を食べることができないくらい貧困に陥っていた。それでも、母は一生懸命に働いた。そして、僕を学校に通わせてくれた。
だが、僕が中学二年生になる頃、母は突然姿を消した。
きっとこんな生活が嫌になったのだろう…。
母は違う場所ならきっと幸せになれる器量を持っている。僕は、不思議と母を憎むことが出来ず、ただ母が幸せになればいいと思っていた。
結局、役所の担当が家を訪れ、生活保護の申請をしましょうと言って、つきっきりで準備をしてくれた。
だが、父にそのお金が渡るときっとまたお酒を買ってしまう。そんな理由からだったと思うが、月に一度振り込まれる生活保護のお金はその市の担当が管理することになった。
父と僕が普通に生活していくくらいのお金は支給してもらっていたはずだったが、これまで通り週に数度しかまともな食事が出来ない有様だった。
中学二年になると僕は近くにある中華料理店でアルバイトをするようになった。本当は、高校生以上しか雇えないんだから時給は少ないぞと面接時に言われたが、僕には正直夜の賄いがあるだけでありがたかった。
それに、客が残した料理を店主の目を盗んではタッパーに入れて持ち帰った。
そう、この店に夜な夜な残飯を狙ってあらわれる薄汚く醜い野良猫と僕は同じなのだ。
中学三年生になると、色んな感情がわき上がってきた。
許していた母さえも憎む表的となっていった…。
『こんな家庭に生まれてきたことが悪い、事故にあった父が悪い、酒に溺れた父が悪い、僕を捨てた母が悪い…、、、』
それは、質素に質素に暮らしても結局の所、普通の生活が出来ないことに対する不満と諦めだった。
高校に行きたい…。
ある日突然、そう思い立った。
何故なら高校に行って一生懸命勉強すればきっといい大学にもいけて、給料の高い会社にいって、人並みの生活が出来るのではないかと思ったのだ。
ある夜、ずっと僕たちを管理・応援してくれていた市の職員の安田さんに聞いてみた。
「安田さん、生活保護で毎月いただく金額はこの前、学校の先生に調べてもらったのでだいたいわかるんです。僕らはその金額を使ってないので、貯金されていますよね。僕、そのお金で高校と大学に行きたいんです」
僕なりに精一杯の決断を示す発言だったのに、安田さんは顔を真っ赤にして怒りだした。
「お前が高校に行けるわけないじゃないか?ちゃんと働く場所を捜しなさい。正直そんなお金はないよ」
「えっ?お金がない?なんで?」
「いや、有るけどすぐに使えないんだよ。これは大事にしないとな。わかるだろう?」
「でも、えっ?なんで?」
僕は、安田さんに初めてといっていいほど食いついた。
すると、目を細く吊り上げたまま安田さんは言った。
「お前みたいな底辺にいるくずが高校・大学?笑わせるな?誰のお金だと思ってるんだ。お前らみたいな奴に支払われているこのお金は、元はと言えば一生懸命働いた人達のお金なんだぞ。だから、お前には一円も使わせないからな」
安田さんが、僕らの家に毎月入ってきた生活保護の金額を着服していたということはあとで知った。警察と一緒にやって来た安田さんの上司が僕と父の前で土下座をして謝罪した姿が今も鮮明に残る…。
こうして、僕は誰も信じることが出来なくなっていった。
親身になって動いてくれていた安田さん…。結局、お金を取った安田さん…。お前なんかと厳しい言葉を僕に投げつけた安田さん…。
ふう。
また、この夢か。仕事中にこんなことを考えたくない。もう、全て忘れよう。
あっという間に一時間が過ぎた。
僕は、軽く背伸びをすると古びた階段を注意しながら降りて行った。
Case.4-2に続く
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