第38話 朝のエレベータホールにて


      ♰


「すいません……。あ、ちょっと、すみません……ごめんなさい」

 人を軽く押しのけながら、それを見失わないように、前へ、前へと芽衣は進んだ。

 明るい水色のブラウスを着た細い後ろ姿は、間違いなく日南だった。けれど、前に人が多すぎて、なかなか近づけない。

 朝の一階エレベータホールは、同じビルにあるオフィスに通うサラリーマンやOLでごった返していた。


「おはよう、芽衣ちゃん。そんなに焦らなくても、そのうち乗れるよ」

 声を掛けてきたのは、田宮だった。

 にわとりのように、クイッと顔だけを前に突き出して挨拶を返し、芽衣は先を急ぐ。


「ねぇ、芽衣ちゃん……。芽衣ちゃんって!」

 田宮に腕をつかまれて、引き留められた。

「JSRAの疑惑もガセだったみたいだし、サイエンス班、ヤベえなとか思ってない?」

「は? な、なんですか?」


「オレたちの追ってた、倫理違反の研究のことよ。結局、たくさんの患者さんから待ち望まれている人工脳の開発だったなんて、やってられないよな」

 背伸びをして、日南の背中を探す。早くこの場を切り上げたかったけど、田宮は放してくれそうになかった。


「でも、くさっちゃ、負けだよ。芽衣ちゃん」


 日南の背中は遠くなって、人ごみに消えていく。朝一番で日南と話したかったのに、タイミングを逸してしまった。

 思わずため息が出た。

「会社人生は長いんだ。こんなこともあるよ」

 タイミングの悪い田宮は、芽衣の心境なんてお構いなしで、話し続けている。


「くさってないわよ、全く。まだ、JSRAが、白だって決まったわけではないじゃない」

 芽衣は、むしろ、噂でしかなかった疑惑の形が鮮明になってきていると思っていた。これまでにわかった真実ファクトを並べて組み立てた仮説には自信がある。その仮説をまず、日南にぶつけてみたかったから、朝から彼女を追いかけていたのに。


「私は、むしろ、ますます疑わしくなってきたと思っていますよ」


「へー、それは、ジャーアリストの勘? でもいい、センスしてると思うよ。ただ、オレたちが追いたいものとは、ちょっと違う」

 田宮は、スマートフォンをいじって、画面を芽衣に向けてきた。


『勤務する国家戦略研究機関JSRAジェイスラで保有していた金ワイヤー線4巻(市場価格120万円相当)を持ち出して貴金属買い取り業者に売却した疑いで、JSRAの職員が逮捕されました。横領の疑いで逮捕されたのは、白井孝之容疑者、37歳。警察の発表によりますと……』


「なんですか、これ? 横領事件……ですか……」

「あんまり報道されてないけど、昨日のネット記事だよ。JSRA職員が逮捕された」

 芽衣は、もう一度、記事に目を通す。


 ”金ワイヤー線”については、先日の記者発表で説明を聞いていた。たしか、『ブレミア』と脳神経を繋ぐのに、純金で出来たワイヤーを用いるとのことだった。なんでも、サビたり劣化しない金属が必要だったとのことで、半導体製造の技術を応用したらしい。


「金ワイヤー線って、ふつうに売れるんですね」

「純金だからな。融かしてしまえば、金相場の価格で売れるらしいよ。でも、オレが言いたいのはそこじゃない。芽衣ちゃんは、この記事をどう思う?」


「どうって……。管理が甘いというか、職員のモラルが低いというか……」

「そうなんだよ、そこ、そこ! そこなんだよ」


 田宮は、スマートフォンをタップしたり、スワイプしたりして、別の画面を表示させた、0がいくつもついた数字が並んでいる。


「コレ、見てよ、ほらほら。JSRAの予算がおかしなことになってたんだ。ここ数年、JSRAは、あの人工脳の研究だけに集中して、お金を使っている」

 芽衣には、数字の見方がわからなかったけど、おそらく、田宮の言う通りなのだろう。


「他の研究テーマをほとんど止めたみたいで、国からもらった予算を全部『ブレミア』の開発につぎ込んでたんだ。この数字は、異常だね。執念のようなものまで感じるよ」


 芽衣は、秋葉原の喫茶店で会ったフラグの父のことを思い出した。

 あの時、フラグの父、JSRA所長の井出雄二は、『ブレミア』について、熱く語っていた。

 誇らしげでもあり、達成感で満たされているようでもあったけど、実は、芽衣は幻滅していた。

 世界中から求められている医療であり、多くの患者を救うことが目的のはずなのに、そのことがいっさい語られなかったからである。

 フラグの父は、技術の先進性と安全性ばかりをフラグに向かって話し、まるで、自慢話をしている子どものようだった。


「この『ブレミア』だけに特化する方針は、井出所長の鶴の一声で決まったことらしいんだ。その影響で、職員のモラルが低下している。さっき見せたのは、しょうもない事件だけど、あれは氷山の一角だと思ってるよ」


「た、田宮さん……、もしかして……私たちで、その氷山を追おうと言ってるんですか?」


「いやいやいや、逆、逆。そんなしょうもない事件、サイエンス班の仕事じゃないだろ? むしろ、『ブレミア』しか研究してなくて、腐敗してしまった組織ジェイスラをこれ以上追う必要はないと思ってさ。編集長に直談判しようと思ってるんだ。取材対象を変えてくれって」


「えっ? うそ!? 田宮さん、マジで言ってます!?」


 思いがけず、芽衣の声が天井に響いた。

 エレベータホールには、人がほとんどいなくなっていた。

 田宮は歩き出し、肩越しに、芽衣を見てくる。


「マジよ、マジマジ。芽衣ちゃんは、どうする? もう、JSRAを追う必要はないでしょ? JSRAのことは、ミス・ハナを追っているUMA班に任せたらいいんだよ」


 田宮は、本気でそう思っているらしかった。JSRAに対して、興味が尽きない芽衣とは、正反対である。

 田宮が、エレベータのボタンを押す。


「田宮さん、すいませんけど……」

 芽衣は、上目遣いで田宮を見た。


「私は、引き続き、JSRAの疑惑を追います。たぶんですけど、JSRAの中で起こっていることは、全部、繋がっているような気がするんです」


 JSRAが『ブレミア』の研究だけに特化していたという事実は、芽衣が組み立てているパズルの1ピースとして、ぴったりとはまっていた。

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