第二章 ハードな恋に溺れる日々

第6話 フラグの仕事

 薄くて波打っている男の髪は脂ぎっていて、シーズンを通して一度もクリーニングに出していないようなスーツは、所々、潮が吹いていた。


「アリバイが認められてよかったじゃないですか。仕事中に風俗なんかに行ってちゃ、本当に解雇されちゃいますよ。気をつけてくださいね」


 フラグが送り出すと、男は、へコヘコと頭を下げながら、事務所を出て行った。


 また、しばらくしたら駆け込んでくるのだろうと、フラグは予想している。一度、味を占めたら、この手の客は、必ず過ちを繰り返す。

 ただ、それもまた、動物のさがであるし、上客にもなってもらえるので、敢えて、厳しくは言わない。

 本能のままに、生きて欲しいとさえ、フラグは願っていた。


 マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、窓際に置いているポットからお湯を注いだ。

 事務所の窓から見えたのは、数十年かけてすすがこびりついた町工場の壁だった。今はもう稼動していないようである。


 フラグが、廃墟のような雑居ビルに事務所を置いたのは、アリバイ屋という仕事が、法律的にグレーゾーンだからである。ただ、こんな目立たない場所に、ひっそりと拠点を構えても、フラグには勝機(=商機)があった。


 フラグは、動物のあらゆる本能を分析し、必要悪であるにも関わらず、人間界では、欠落してしまって、息苦しくなっている原因を突き止めていた。


 それは、という共通認識である。


 擬態ぎたい擬死ぎし(死んだふり)、托卵たくらん――騙し合いをするのは、生存競争を勝ち抜く上での常套手段であるにもかかわらず、人間界では許されない。


 なぜ、そうなったのか。

 それは、人間が、知恵を付け過ぎて、大抵のことは、見破ることができるようになってしまったからである。

 見破られるリスクが高いから、人は、騙すという行為を諦めた。詐欺師を除いて。


 でも、諦められないという状況は、誰にでも、何度かは必ずあるはずで、フラグは、そこに商機があると考えたのだった。


 コーヒーをすすっていると、お尻のポケットのスマートフォンが震えた。


『少し早く駅に着いてしまったんですけど、今から行ってもいいでしょうか?』


 柴田日南からのメッセージだった。


 五分後、日南が事務所に来た。またアリバイを作って欲しいというリクエストは、三日前にもらっていた。今回も、同じ彼氏に対するアリバイだという。


「前回は、上手くいったけど、今回も、同じようにいくとは限らないよ」

「はい、わかっています。同じことを繰り返してしまった私がいけないんです」


 声色は反省しているようには聞こえるが、うつむいた日南は、髪がかかって表情が見えない。

 フラグは、ローテーブルの上にシステム手帳を広げ、前回の依頼内容と対応策を確認した。


「今回は、いつの日のアリバイが必要なの? 前回と同じで、緊急で出かけたことにする?」

「は、はい。それで、結構です。お願いします」


 前回のアリバイは、”友人のユウカが交通事故に遭い、お見舞いに行った”というものである。

 ユウカは、フラグが準備した女である。フラグは、このような協力者を、都内だけで三百人は用意していた。

 システム手帳に書かれた前回のメモを指で追っていると、少しずつ、思い出してきた。


 前回の依頼は、日曜の昼に何をやっていたのか、彼氏に問い質されて、困っているということだった。

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