2.あめとにじ

「あめちゃん! こっちこっち!」

「にじ、あんまり走ると転ぶよ!」


 てんばしこうは、雨に濡れた道を駆けていく。

 すでに雨は上がっており、雲の間から太陽の光が射し込んでいる。虹季は橋の上で止まり、小さな手で柵を掴むと、空を見上げた。

 追いついた雨緒は妹の隣に立ち、同じく空を見上げる。


「そう簡単に出ないと思うよ」

「でも、雨が上がった後に虹が出るんだって、あめちゃんが言ったんだよ!」

「そうだけど。でも、いろんな要素が重ならないと出ないんだよ」


 雨上がりの綺麗な景色をなぞらえて〝雨緒あまお〟。

 その雨が上がれば空に架かる美しい虹から〝虹季こうき〟。

 自分たちの名前の由来になった雨と虹が、二人は大好きだった。


「ほら、出ないよ」

「うぅ~」

「帰ろ、にじ。おやつにプリン食べようよ」

「うん……」


 虹季はシブシブ、雨緒と手を繋いだ。しょげた表情の妹を見て、雨緒は歌い出した。


「サ~ムウェ~ア、オ~バーザレインボー♪ ウェ~イア~ップハ~イ♪」


 虹季の顔がみるみる明るくなっていく。

 声を合わせ、二人一緒に歌った。


「「デアーズアー、ランドダアイハートオブ♪ ワンスインア、ラ~ラ~バ~~イ♪」」


 父は弁護士で、母は看護師。郊外の一戸建てに住む、極々普通の家庭。

 両親は仕事柄、家を留守にしがちだが、雨緒と虹季は寂しくなかった。

 雨緒は妹が笑っていれば心が満たされたし、虹季は姉が傍にいれば安心できるのだ。お互いがいれば、どんなことでも乗り越えられた。


 だが、そんな仲の良い姉妹の日常は、突如として崩れることになる。


 雨緒が中学二年生、虹季が小学一年生の時、父が捕まった。

 企業の不正に関わったということだが、当時の雨緒はよく理解できなかった。しかし、自分たち家族が世間からどう見られているか、身をもって知ることになる。

 家の塀や壁に落書きがされる。郵便受けが手紙でいっぱいになる。ドアに貼り紙が貼られる。電話が毎日ひっきりなしに鳴る。石が投げ込まれる。

 学校では、仲の良かった友達が喋ってくれなくなる。机に落書きがされる。箒や雑巾を投げつけられる。背中を押されて、階段から転げ落ちそうになる。エトセトラ、エトセトラ。

 そしてそれは自分だけでなく、虹季の身にも起こっていた。

 ある日、虹季は全身泥まみれで、泣きながら家に帰ってきた。靴が片方無く、無残にもランドセルが切り刻まれている。


「にじ! どうしたの⁉」


 下校途中、虹季は三人の男子上級生に絡まれたらしい。

 必死に逃げたが、泥に足をとられて転んでしまい、ランドセルを彫刻刀で切りつけられた。そして、三人の小学生は嘲笑いながら、心無い言葉を浴びせかけたという。


 なんでわたしは迎えに行かなかったんだ!


 雨緒はひどく後悔した。自分のことで手一杯だったなんて、言い訳にもならない。震える虹季を強く抱きしめながら、雨緒は決意した。


 ――わたしがにじを守らないと。


 その夜、母に「もう学校へは行かない」と伝えた。すると、母は烈火の如く怒り出した。教育がどうとか、将来がどうとか、いろいろ言ってはいたものの、早い話が〝私は職場から逃げられないのに、どうしてあんたたちだけ逃げられるのよ!〟ということだった。

 母との口論を終えると、雨緒はくたびれた様子で虹季の部屋を訪れた。


「にじ……」

「あ、あめちゃん」


 雨緒は虹季の隣に座った。


「明日から学校行かなくていいよ」

「でも、お母さんは?」

「大丈夫。話つけてきた」

「……あめちゃん、ほっぺ赤いよ」

「ああ、全然平気」


 雨緒は虹季の小さな手をギュッと握った。


「わたしがにじのこと、守るから。ね?」


 雨緒は虹季に笑いかけた。泣いているような笑顔だと、自分でも思った。

 それから雨緒と虹季は学校に行かず、共に過ごすようになった。日中、家にいても不安しかないので、雨緒は図書館で時間を潰すことにした。

 ここならば静かに過ごせるに違いないと考えたのだが、目論見は当たり、雨緒は虹季を連れて毎日のように図書館を訪れた。

 だが、図書館からの行き帰りや、家で過ごす時間も含め、すべてにおいて神経を張り詰めていた雨緒は、ついに疲れ果ててしまった。

 カラスが鳴く夕暮れ時、力無く床に寝転がる雨緒を、虹季は覗き込んでいた。


「あめちゃん、大丈夫?」

「うん……。ちょっと疲れただけ」

「あめちゃん……」


 虹季はキョロキョロと周囲を見回した。

 そして、パッと顔を輝かせると叫んだ。


「あっ! あめちゃん、虹だよ! 虹が出てる!」

「へ? ……まさか。最近、雨降ってないし」

「でも出てるんだよ! あめちゃん、起きて!」

「えぇ~」


 グイグイ腕を引っ張るが、雨緒は起きようとしない。にっちもさっちもいかず、虹季は窓に駆け寄った。


「ほら、虹だよ! 虹! あめちゃんも見て!」

「……にじ、嘘言わないで」

「嘘じゃないもん! 見てってば!」

「え~」

「あめちゃん!」

「……も~」


 雨緒が半身を起こし、「あんまり窓の近くに寄らないで」と言おうとした時、その瞬間。


 ガシャァァン!


 大きな音と共に、石が三つ飛び込んできた。

 その内のひとつが、虹季の頭に衝突する。そこからは、まるでスローモーションのようだった。

 パラパラと砕け散る窓の破片。パッと飛び散る血しぶき。引力に引き寄せられるように、虹季の身体が倒れる。


 ガンッ。


「えっ。……にじ?」


 雨緒は虹季の傍まで這いずると、ペチペチとまるい頬を叩いた。


「にじ? にーじー? おーい」


 虹季は反応しない。


「こうきー。起きてくださーい」


 虹季は反応しない。


「あめちゃんですよー。起きてー」


 虹季は反応しない。見開かれた目に生気がない。

 雨緒はおそるおそる、虹季の心臓の位置に耳をあてた。なんの音もしなかった。


 虹季は死んでいた。





「君だよね。あの時、わたしの家に石を投げ込んだの」


 真っ暗闇の森の中で、雨緒は悟を見下ろした。


「証拠はほら、これ」


 雨緒はポケットから、クシャクシャの古びた紙を取り出した。鉛筆で大きく〝しね〟と殴り書いてある。

 悟は顔を歪めて、子どもが書いたであろう二つの文字を見上げた。


「それが、僕の字だと……?」

「ううん、こっち」


 雨緒はくるりと紙を裏返した。そこには「遠足のおしらせ」の標題と共に、学校名と学年クラスが記載してあった。


「馬鹿だよね。自分の身元に繋がる紙と一緒に投げるなんて」


 そこから辿って、雨緒は悟にたどり着いた。


「というわけで、君には死んでもらうよ」


 雨緒は、悟の隣にポッカリと空いた穴を見遣る。

 深い穴には大きな樽がガッチリと嵌っており、人ひとりぐらい余裕で収まってしまうだろう。蓋を閉め、上から土を被せてしまえば、酸素の無い棺桶の出来上がり。


「いや~、大変だったぁ。とんだ重労働だったなぁ。……まあでも、体力勝負のバイト、掛け持ちしただけあるかな。……よし、ラストスパートだ!」


 雨緒が一歩、悟に向かって足を踏み出した。


「ま、待て……」


 悟は声を振り絞る。

 たしかに小学生の頃、仲間たちと一緒にいろいろと悪ふざけをしていた。誰かの家に向かって石を投げたこともあった。だけれど、


「天橋家の女の子は、石が当たって死んだんじゃあ、なかった筈だ」


 思い出した。

 当時のニュースでは、天橋虹季は脚立から落ちて死んだのだ。ひとりで遊んでいたが故の事故だった。そう報じられていた。

 雨緒は悟の言葉に頷き、にこりと笑った。


「言ったよね。って」


 虹季が死んだ後。

 雨緒は妹の死体を膝に乗せ、ぼんやりと視線を漂わせていた。虹季の身体は下がっていく体温と共に、ゆっくりと固くなっていく。……あまりに突然のことに、涙さえ出てこない。

 母は酒の臭いと共に、夜遅くにしか帰ってこなくなったので、考える時間はいっぱいあった。

 その中で雨緒は、自分自身で決着ケリをつけようと思い決めたのだ。

 法律はよく分からないが、小学生に罪を問うたところで、そう大した罰を与えられないことは知っている。良くて少年院送り、そこから出た後は特に何も無い。普通の人生が待っている。

 雨緒はそれが許せなかった。

 虹季の人生を、未来を奪っておいて、たったそれだけの罰しか与えられないなんて。


 ――だったら、わたしが殺そう。


 今じゃなくていい。もっといろんな知識を得て、力を得てから。

 先人たちも言っているじゃないか。因果応報、「目には目を、歯には歯を」って。


 〝殺人には殺人を〟


 他の誰でもない、わたし自身の手で。殺そう。


 雨緒は虹季の身体を優しく横たえ、目を閉じてやると、物置から脚立を出してきた。

 虹季は幼い頃から脚立が好きだった。その一番上に座り、歌を歌ったり、大好きなプリンを食べたりするのが、お気に入りだったのだ。

 もちろん、いつもは雨緒が脚立を支えている。しかし今回ばかりは、虹季がひとりで遊んでいた際に事故が起きたと見せかけることにした。

 石を投げた人物は小学生だ。塀に遮られて、こちらの状況は見えなかっただろう。

 雨緒さえ黙っていれば、隠し通せる。


「ごめん、にじ。にじは何も悪くなかったのに……!」


 虹季の名誉を傷つけてしまった。雨緒は後悔と怒りが入り混じったような苦悶の表情を浮かべる。


「こいつを殺すためだったとはいえ、ごめんね……」

「雨緒、待て」


 雨緒の言っていることが本当だったとして。

 その時、投げ込まれた石はだった筈だ。その内のひとつが虹季の命を奪ったが、残りの二つは窓を割っただけだ。


「割っただけ、ねえ」


 あの時、石を投げ込んだのは悟だけではなかった。他に二人いたのだ。

 発案者は誰だったのか、もう覚えてはいない。だが、川原で石を拾い、落書きした紙を巻きつけて、三人でひとつずつ石を投げ込んだ。

 その中で誰の石が当たったのか、雨緒は分かっているのだろうか。


「僕だけじゃないんだ、石を投げたのは」

「うん、知ってる」

「なら、」


 どうやって判別したのだ。本人たちにも分からないことを。

 悟の疑問を受け、雨緒はコテンと首を傾げた。


「そんなの分かるわけない。たしかに落書きの字は違ったけど、筆跡鑑定なんてできないし」

「じゃあ、どうして僕なんだ……!」

「君だけじゃないよ」


 雨緒は人差し指で、スッと地面を指し示す。


「君の後ろに二人、もう死んでる」


 雨緒は別に、虹季を殺した人物を特定したいわけではない。

 この手で殺せればいいだけなのだ。


「三人みんな殺せば、絶対に犯人を殺せる。一蓮托生、連帯責任ってよく言うしさ。……そうそう、〝ONE TEAM〟ってやつだよ」

「……っ!」


 雨緒の無邪気な笑みに、悟はゾッと背筋に悪寒が走った。

 彼女が嘘をついているようには見えない。ということは、後ろにはすでに幼馴染二人の死体が埋まっているのだ。

 恐ろしくて、振り返ることすらできない。


 そして、事ここに至って、悟は分かってしまった。

 そうは言ってもこれはただのドッキリか何かで、どこからかプラカードを持った誰かが出てくるのではないかと、心の片隅では期待していたのだ。

 しかし、これは悪い冗談などではない。雨緒は本気で悟を殺そうとしている。もうすでに二人も殺している。紛れもない殺人者だ。


「……ぐうっ、……うっ」


 恐怖と屈辱で涙が流れる。それでも最後の意地で、食らいつくように言葉を絞り出した。


「こんなことをして、バレないと思ってるのか……! 日本の警察は、ゆ、優秀なんだ。すぐに捕まる……!」

「心配ご無用。そんな下手な真似はしないよ。そもそも死体が見つからなきゃ、殺人か失踪か判定できないし」


 雨緒は悟の正面にしゃがみ込んだ。視線がガッチリと合う。


「〝噂話なんて、チョコレートと同じ〟。わたしの好きな歌に似たような歌詞があるけど、ほんとそう。人の不幸も何もかも、世間にとってはただ甘ーいだけのお菓子。あの一件で、わたしはよーく分かった」


 雨緒は笑顔を浮かべているが、目は笑っていない。そのどこまでも深い穴のような目で、悟の無様な姿を映しとる。


「だから、この一連の殺人は、誰にも気づかせない。わたしも、にじも、あんたらも、誰にも哀れませないし、呆れさせない。誰にもなんにも思わせない」


 この復讐を、世間を喜ばせるチョコレートなんかにしてたまるか。


 雨緒は立ち上がり、悟の襟首を掴んだ。穴の淵まで引きずっていく。


「じゃあ、そろそろ死のうか」

「ま、待てって! 僕を殺して、お前の妹は本当に喜ぶのか⁉」


 雨緒はピタリと止まった。悟は必死で言い募る。


「優しいお姉ちゃんだったんだろ……? 僕なら、そんな人に殺人なんて、犯して欲しくない。雨緒、まだ引き返せる。妹の気持ちを考えてくれ!」

「……」


 悟の言葉を受け、雨緒は寂し気に微笑んだ。


「たしかにね、にじは誰より優しかったから。喜ばないだろうなぁ。この殺人で一番悲しむのは誰でもない、にじだろうなぁ。……あ、君の家族もか」

「だろ? だから、」

「でも、にじはもう何も感じない。悲しみも、喜びも、何もかも」


 雨緒は手を離した。


「あんたがそうした」


 悟の全身に衝撃が走る。穴は目測よりも深かったらしい、こちらを覗き込んでいる雨緒の顔が小さく見える。


「誰が言ってんだって感じ。そういうとこだよ、君。人の話を聞いているようで、全然聞いてない。なにが〝僕なら〟だよ。ふざけんな。どうせ、にじを追いかけ回したクソ共も、あんたらなんだろ! あの世で反省してな!」


 一気にまくし立てると、打って変わって、雨緒はペタリと顔に笑みを張り付けた。


「それじゃあ、先に逝ったデブとヒョロいのによろしくねー。よかったねぇ、久々の同窓会だぁ。積もる話もあるだろうし、ごゆっくりー。一生出てこなくていいよ!」


 雨緒は大きな蓋を持ち上げた。


「さようなら、さとちゃん」


 笑みを剥がし、冷徹な視線で悟をみくだす。


「地獄に墜ちろ」


 ガタンと蓋が閉まった。

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