虹の彼方に…

小浮あまお

1.雨は上がるかもしれないし、上がらないかもしれない

「Somewhere over the rainbow♪ Way up high……♪」


 彼女が突然歌い出す。ヒラヒラと舞うようにリズムを踏み、音の流れに乗るようにスラリと腕を伸ばす。まるで踊るようなその仕草を、さとるは黙って見つめていた。





 悟がてんばしあまと出会ったのは大学だ。教養課程の講義で、席が隣だったのである。


「あのー……。わたし、前回休んじゃってさ。前のプリント、見せてもらっていいですか?」


 突然話しかけてきた彼女は、にこりと微笑んだ。


「わたし、天橋雨緒。君は? ……悟くんか。あっ、じゃあ、〝さとちゃん〟って呼んでもいいかな? わたしのことは〝雨緒〟って呼んで」


 グイグイくるなぁ、と初めは思った。が、悟は次第に雨緒と仲良くなっていった。


「〝さとちゃん〟って呼ばれるの、久しぶりだなあ。小学生以来だ」

「へえ」

「小学生の頃、仲がよかった友達にそう呼ばれてた。中学でみんなバラバラになっちゃったんだけど。懐かしいなぁ」


 雨緒は同じ法学部の一年生で、悟よりも年上らしい。気になって尋ねてみれば、


「え~、それ訊いちゃう? ……バタコさんと同い年だよ」


 とはぐらかされ、未だに悟は彼女の年齢を知らない。

 階段を上るようにストレートで進学した悟とは違い、どうやら雨緒は苦労をしてきたようだ。高校を卒業した後、学費を貯めるために就職し、ようやっと大学に通えるようになったという。


「わたしん家、五人家族なんだ。お父さんとおじいちゃん、おばあちゃん、妹とわたし」

「僕んとこは母さんと父さんと、三人かな。父さんは単身赴任が長くて、あんまり会ったことないけど」

「寂しくない?」

「別に。慣れっこだよ」


 雨緒は学業の傍ら、いくつかバイトを掛け持ちしている。それも引っ越し業者や施設のヘルパーなど、体力仕事ばかりだ。


「身体、動かすの好きでさ。ずっとレジの前にいるより断然いいよ!」


 そんな雨緒の趣味は登山である。隙を縫って、各地の山を登りに行っているらしい。


「一番よかった山は?」

「やっぱ富士山かな。日本最高峰なだけあるよ」

「確か、五合目から登るんだよね?」

「そうだけど、わたしは一番下からが多いかな。森から歩く時もあるし」


 アクティブな嗜好を表すように、雨緒の髪型はベリーショートで、いつも動きやすそうな服を着ている。化粧も一切しない。


「メイクが崩れる心配なんてしてたら、思うように動けないし」

「ふーん。でも、たまには女子っぽい姿も見てみたいな」

「それ、セクハラ」


 キ、キビシイ。

 いつも明るく元気な雨緒だが、彼女にも苦手なものがあった。


 バリバリバリバリッ!


「きゃああっ!」

「大丈夫⁉ ……もしかして、雷怖いの?」

「う、うん……。昔から大きな音が苦手で……」

「そっか。…………今調べてみたけど、雨雲はこっちに来ないみたい。すぐにおさまるよ」

「ありがとう、さとちゃん」


 弱々しくも微笑む雨緒の姿に、悟の胸は甘くときめいた。

 悟が雨緒に告白をするのに、そう時はかからなかった。


「えっ! わたし、さとちゃんより年上だけど⁉ いいの?」

「歳は関係ない。僕はそのままの雨緒が、す、好きなんだ」

「えぇ~、困るなぁ。わたし、君のことそんな目で見たことなかったから……」


 くっ、脈無しか。

 悟が半ば諦めた瞬間、雨緒はこう続けた。


「‶お試し〟でもいい……? ちゃんと恋人として見られるかどうか、判断してから返事したい」

「もちろん! 存分にどうぞ!」

「存分って……、フフ、変な言い方」


 それからの悟と雨緒は、なんとも微妙な距離にいた。

 というのも、悟が恋人らしいことをしようとすると、雨緒が避けてしまうのだ。


「……っ!」


 悟の指が雨緒の手に触れた瞬間、彼女はパッと手を引いた。


「ご、ごめん。さとちゃん」

「いや、いいよ。こっちこそ、ごめん。無理に手を繋ごうとして。雨緒のタイミングでいいから」

「うん……」


 二人の恋人としての距離は縮まる気配がなかった。一緒にいても妙にモジモジしてしまい、むしろ居心地が悪い。


 ――友だちのままの方がよかったのかもしれないな。


 悟がそう思い始めた頃、雨緒からこんな誘いがあった。


「おもしろいドラマ見つけてさ。わたしの家で一緒に観ない? ひとり暮らしだし、遠慮なんて要らないよ」


 悟は驚いた。これまで一度も、彼女と互いの家を行き来したことがなかったから。

 別に、特別な進展を期待しているというわけではない。……まあ、完全に無いといえば嘘になるけど。

 それでも、雨緒も先に進もうと考えてくれたのなら。それだけでよかった。

 悟の心は、嬉しさと緊張、そして少しの期待で満ち満ちていた。





 ほんの数時間前までは。

  




 真夜中の森の中、悟は地面の上で正座していた。

 両手の親指と両足首を結束バンドで縛られ、動くことができない。どうやら薬を飲まされたらしく、頭が朦朧もうろうとしている。先ほど腹を蹴られたからか、抵抗する気力もなかった。


「あ、雨緒……。どうして、こんなことを……?」


 未だ『Somewhere over the rainbow』を口ずさみながら、軽くステップを踏んでいた雨緒は、悟を見た。簡易ライトに照らされたその顔は、場違いなほど笑顔を浮かべている。


「どうしてかって? ……まあ、分からなくても無理はない」


 

 雨緒は悟の前に立ち、笑みを消した。冷たい視線が悟を射抜く。


「あんたが、わたしの妹を殺したからだよ」

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