第2話 とある執事の静かな朝
side:セバス
爽やかな風が屋敷内を軽やかに駆け抜けていく。開け放たれた窓から夜明け頃に活動を開始する平民たちの生活音が僅かに耳をくすぐる。
大陸ツヴィリングに属する
暁の頃の静けさに支配された時間帯に意識が覚醒すると、良質なベッドの誘惑をはねのけ昨晩の内に準備しておいた
簡素な姿見にて身なりを整えると、まずは屋敷内の朝の見回りからだ。
本来ならば夜明けのこの時間帯の見回りの必要性はあまりない。警備専門の者が昼夜交代で常に屋敷を見回っているのだから管轄もそちらの者になるだろう。
故にこの行為は眠気覚ましの意味合いが強く、屋敷全体が寝静まっている中自分だけが起きているという童心の頃のような昂揚を感じるための趣味の時間であるともいえる。この屋敷に勤めてからのささやかな楽しみの一つだ。さて、今日は庭の散歩でもしてこようか。
一通り朝の楽しみを満喫する頃には日の出が始まり世界はまた新たな1日を迎える。
屋敷の主人が起きるまでの間、1日の予定を頭の中で反芻しつつ、細やかな仕事を侍従たち用の食堂で紅茶を片手に片づけていると食堂の扉が開き妙齢の女性が中へ入ってくる。
いつもどおりの日常の一部ではあり、お互いにお互いを認識すると屋敷の静けさを壊さないように静かに朝の挨拶を交わす。
「おはようございますセバス様。本日もお早いご起床ですね」
ふわりと柔らかな微笑を湛えながら上品な挨拶をしてくれたのは屋敷内の侍女達の統括である侍女長のマリア殿だ。
艶のある金髪は上品なミディアムに整えられ、皺ひとつない侍女長の制服を完璧に着こなしている。
「おはようございますマリア殿。それはお互いさまでございますがね」
少しの談笑ののち、お互いに細かな仕事に取り掛かるが数刻もすれば早朝に済ませられるような仕事は大体終わる。他の従者たちが起き出してくるにはまだ少し時間があるだろう。
ちら、とマリア殿の方に視線をやるとマリア殿も少しばかり手持無沙汰の様子。ふむ、一つ話題でも振ってみるか...
「そういえば昨日は旦那様と屋敷外まで仕事に出向いておりましたが、なにか変わったことなどはございませんでしたか?」
それまで静かであったのに急な話題の振りにもマリア殿はスラスラと答えてくれた。
「そうですね...特に大きなことはありませんでしたが強いて話題に挙げるとするならば坊ちゃまの事でしょうか」
話題に挙げられるのはこのお屋敷の主ユリウス=マークィス=アルメヒティヒ様の一人息子であるイディオ=マークィス=アルメヒティヒ様だった。
困ったように眉をしかめながらもその口元は三日月に緩んでおりマリア殿はイディオ様への敬愛が見て取れる表情で続きを話す。
「セバス様もご存じだとは思いますが最近は特に散歩癖が酷くて。昨日は資料室に勝手に入っていましたね」
「ほう、資料室ですか。たしか一昨日は旦那様の書斎でしたな」
「えぇ、どうにも本に興味があるようです。傍付きの侍女からも報告を受けています。まだ文字など読めないはずなのですが...」
資料室とは別名図書室とも呼ばれており、室内には旦那様や奥様、従者達の趣味で集められた本が所狭しと保管されている。
自分の知らないものに興味を持つのはいいことのはずだがマリア殿の表情はどこか腑に落ちないようなものだった。
生まれてから1年。坊ちゃまはまだ文字が読めない年齢だ。それは当然のことであるしそこに疑問は無い。それ以外にも坊ちゃまには文字を読めない理由が一つあるのだが...
「坊ちゃまに何かありましたかな?」
「なんというべきでしょうか...ページを1枚1枚めくって上から下まで確認しているような感じがしたと報告を受けたのです」
「魔布は外されていないのでしょう?」
「もちろんです。坊ちゃまが本と戯れている間も侍女が複数名近くにいましたし屋敷内で大規模な魔力の波長なども感じ取れませんでした」
魔布とはその名が示す通り魔力を帯びた布のことでそれ自体が魔法的な効果を持つことはほとんどないが魔道具や魔導書の保護などに使われるものだ。
なぜそんなものが坊ちゃまに巻かれているかというと...坊ちゃまには先天的な才能があった。いや最早才能なんて言葉では生ぬるい。
あれは本来人の領域に顕れるものではないはずだった。
坊ちゃまに先天的にもたらされたのは俗に魔眼と呼ばれるものの一種だった。ただし、魔眼の中でも最高位に位置し近年まではその存在すら確認できていなかったような代物だ。ただの魔眼であれば神からの授かりものとしてアルメヒティヒ家総出で祝ったのだが...
“神眼”
ありとあらゆるものを見通し過去現在未来の全てを知ることが出来るとすら言われているまさに神の眼。数十年ほど前にはその存在すら知られていなかった。
知られることになった発端はとある研究者一団の遺跡調査で見つかった古代の文献に記載があったからだと言われている。
私自身はあまり詳しくは無いが、学生時代魔法を専攻していたこの屋敷の奥様の話では全ての魔眼の力を疑似的に使うことも可能であるとか、人の感情すらも読み取ってしまうことが出来るなどなんとも荒唐無稽な話ばかりを聞かされた。
ただ、生まれたばかりの赤子には明らかに過ぎた力であることに変わりはなかった。そんな強大すぎる力を抑えるための対処法が魔布による一時的な封印だ。
魔布にはそれ自体に魔法的な効果を持つものはほとんどないといったが、例外もある。
危険な力を持った魔道具や魔導書を封印するために使われる魔布には封印の魔術刻印が刻まれていて厳重な封印を施すことが可能となる。坊ちゃまに使われたのはその類の魔布だった。
ゆえに坊ちゃまは生後よりずっと物理的に何かを見ることが不可能となっている。赤子という最も大事な成長過程の一つで視界を防ぐことは視力の低下にもつながりかねないが致し方ないことでもあった。
「ふむ...旦那様にもお伝えしておく必要がありますかな?」
「既に伝えておきました。旦那様は仕事で遠出なさってから帰ってきた日の晩などは坊ちゃまと奥様の様子をいつもとても嬉しそうに尋ねられますから。昨晩もお伝えしました」
「そうですか旦那様はなんと?」
「『流石は俺の息子だな』と嬉しそうに納得しておりましたよ」
「まったく...」
「うふふ♪」
昔から変わらぬ楽天的な性格と身内への甘さに二人は異なる反応を見せた。だが、二人の口元は同じように緩んでいた。
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