泉の女神と少女レプリカ【前編】

 小さな体に多くの傷を作り、青痣を残したままの少女が、森の中をゆっくりと歩いている。


 歩く、と言うよりは体重の移動によって傾く体の重さで、動かない足を無理やり回しているような移動方法だった。

 近くの木に手をかけ、なければ地面に手を着く。立ち上がっては前傾姿勢になり、前へ進むことを繰り返していた。


 そうして長い道のりを進んできた少女は、目の前に広がる泉を見つけた。

 偶然ではない。最初から、町から森の中にあるこの泉を目指して、逃げ出してきたのだから。



 夜、だった。


 昼間だとこの泉に訪れる者が多いため、人目が多いことを気にしたのだ。

 少女の見た目を考えれば、注目の的である。


 それでもボロボロの彼女に手を差し伸べてくれる者はいないだろう……、手を引いてくれたとしても、逃げ出した『飼い犬』を『飼い主』へ返すための手でしかない。

 それは少女の望むことではなかった。


 飼い主から逃げ出したのだ……連れ戻されるのは最悪の結果だ。


 死ぬことが最悪でないのは、彼女の中で、それこそが最高であると決めているからだ。



「……着いた……っ」


 真夜中に辿り着くことを想定していたが、かなり時間が経ってしまっていたようだ。

 想定よりも数時間も遅く、空が明るくなり始めている……。そろそろ明け方だ。

 森の中で仕事をしている大人が、彼女を見つけてもおかしくはない時間……――。


 早く、目的を達成させないと……っ。

 少女は這う体勢で、腕の力だけで前へ進む。足は引きずったままだ。


 怪我が多過ぎて、もはやどこが痛いのか分からなくなっている……言ってしまえば全部痛い。だから這うことで新しい傷ができても彼女は気付けない。

 麻痺しているのだ……いま感じている痛みよりも、さらに大きな痛みが出ないことには、脳は認識してくれない。


 それでも傷は傷。痛みを感じなくともダメージは肉体を苦しめている。


 自覚がなくとも一歩も動けなくなる時は、そう遠くない未来のことだ。


「もう、少し……ッ」


 指先が水面に触れた。


 瞬間、銃声が響く。


 周囲の木から多くの鳥が羽ばたき――、そして朝日が顔を出した。



「え……」


 少女が視線を横へずらせば、地面を穿つ、丸い穴……――弾痕だ。


 見える土の中では、幼虫の体のほとんどが、弾丸によって弾け飛んでいた。


「次は当てるぞ」


 背後から声がする。少女は振り向かない。

 目の前で殺された幼虫の姿こそが、後の自分であると重ねてしまい、動けなかったのだ。


 反射的に上げてしまった指から滴る水が、泉へ戻っていく。

 ぽたぽたという音が、少女には鮮明に届いていた。


「屋敷へ戻れ。お前は主人に買われた奴隷なんだ……、たかが痛みで逃げ出すような鍛え方はしていないと商人から説明は受けていたが……――チッ、騙されたか」


 限度を越えているだけだ。

 少女も、それなりに痛みには慣れていたし、ご主人を満足させるような技術も習得している……しかし、想定している使い方から離れてしまえば、満足いくように調整された道具もすぐに壊れてしまう……少女のように。


 逃げ出すことを考える商品(奴隷)だっているのだから。


「おい、立て。まさか俺が連れていけって言うわけじゃないよな?

 髪を掴んで引きずるのだって体力を使うんだ、俺にそんなことをさせるつもりか?」


「や、め……ッ」


 近づいてくる足音に怯え、まだ髪を掴まれてもいないのに、痛みを想像して苦痛に顔が歪む。その様子はもちろん、近づいてくる男には見えないし、たとえ見えていたところで、鼻で笑って手を止めることはしなかっただろう。


 嫌だ、という言葉に一考する者なら、奴隷をここまで傷つけたりしない。


「帰るぞ。ご主人はまだお前で満足していないんだからな」


 男の手が少女の髪へ伸び、くしゃ、と雑に掴んで持ち上げる。

 膝を浮かせた少女が最後の力を振り絞って――くるり、と反転。泉を背にして、男の腹を足の裏で押した……、蹴ったのではなく、押した……弱い力だが、それでも、決して掴みやすい部分ではない髪のおかげで、男の拘束から簡単に抜け出すことができた。


 これで終われる……、そう思った少女がにやりと笑い、背中から泉の中へ、落水した。



「ッ! あのガキッッ!!」


 男が咄嗟に泉へ飛び込もうとして、ギリギリのところで踏みとどまった。

 ――ここは普通の泉ではない。凶暴な生物……が、いるわけではないが……。


 既に住人がいる。

 姿形こそ人型だが、しかしあれを『人』と呼んでもいいものか――。


 ぶくぶく、と水面に上がってきていた空気がなくなり、やがて波紋が生まれてくる。

 男が立つ地面に違和感はない……だから揺れているのは泉だけだ。


 朝日に負けない光が、泉の中から伸び――、

 男が顔をしかめるくらいの光量が水面を突き抜ける。


 思わず手で顔を覆う男は、視界を奪われた中で、音だけで『彼女の登場』を感じる。


 水面を破って出てきたのは、男よりも一回りも大きな女性だった――。

 町の者はみな、彼女を『女神』と呼んでいる。



「あなたが落としたのはこの『金の女の子』ですか? それともこの『銀の女の子』ですか?」


 女神の片手に抱かれた少女は金髪で、反対側に抱えられている少女は銀髪だった……、当然、泉に落ちた少女と瓜二つ以上に、同一である。


「……いいや――」


「あなたは正直者ですね、ではこちらの二人の女の子と――」


「元のヤツはいらねえ。この二つでいい……泉の中のガキはあんたで処分してくれ」


 一瞬だけ、ぴたりと止まった女神だったが、笑顔は崩さずに、「そうですか」と機械的な対応をしただけに留まった。


 女神の手から離れた金と銀の女の子が陸に立ち、男の手を握る。

 元々の少女と同一だからか、この男が誰で、どこへ帰るべきなのかは分かっているらしい。


「……物だけじゃなく、生命にも対応してるのか、この泉は……」


 見下ろすと、左右にくっついている少女が視線に気づいて上を向いた。

 元となった少女も、最初はこうして親を見るような目を向けてくれていたのだ……、気づけばそれが怯えと嫌悪に変わっていたが……まあ当然である。


 彼女にしてきたことを考えれば――そしてこれからも、彼女たちが元の少女の代わりを務めるのだ、この視線が変わることは想定できる。


「金と銀なんだから、あいつよりは頑丈でいてくれよ?」




 ……ここは?


 水中で、ゆっくりと沈んでいく感覚に身を任せていた少女は、ふと見えた景色は、夢だと思った。自分よりも一回りも大きな女性――裸も同然な、露出の多い服(踊り子みたいな衣装だった)を着ていて――が近づき、自分の体を抱えたのだ。

 柔らかく、温かい……覚えているのはここまでだった。


 次に目を覚ました時、見えたのは不安定な巨大な棚だった……。壁一面にぎっしりとある。

 室内……、いや、室内ではない。

 屋外でこそないが、ここは洞窟の、内部か……?


 視線を回せば、棚があるのは空間の片面だけで、もう片面は水だ……小さな泉がある……すると、水中から影が見え、顔を出したのは夢の中で出てきた女性だった。


「落ちてきたのは、なんでしょう……お皿、でしょうか」


 歪な形をしているお皿だった。恐らくお皿として使うのではなく、鑑賞用としての作品だろう……それが泉へ落とされたのだ。


「あ、目が覚めました? 少し待っていてくださいね、このお皿の金と銀を探し出して、上へ持っていきますので……その後できちんと説明しますから」


 天井まである棚には多くの物が詰められており……、整理がされていないので目的の物を見つけるのは一苦労だった。

 ふわふわと浮いて最上段まで探しているようだが、「あれ、あらー?」と苦戦している女性だった……。仮に整理整頓していたとしても、見つけるのが苦労する棚である。

 お皿にしたって、何種類もあるのだから……。さらにそこから分別しないと、一瞬では見つけられないだろう。

 噂には聞いていたけど、『泉の女神』が、落としたものを高価なものにしてくれるという冗談に聞こえたそれは、本当だったのだ。


 まさか泉の中でこんな風に苦戦しているとは思っていなかったけど……、雑に保管されている金と銀の道具たちは、高価に見えても、詳しく見ればそこまで価値は高くないのではないか?


「……あ」


 と、少女の近くに、見たばかりのお皿があった……もしかして、これじゃないのか?


 お皿にも多くの種類があるけど、歪な形をしたお皿はそう多くないはずだ……、いや、世界中のお皿がここに集まっているとすれば、多いのだろうけど……。

 少女が『見覚えがある』と感じるということは、同じものである可能性が高い。


 となれば、


「あの――」

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