第2話 「和木坂課長が『アレ』だって話だよ」
しかし、である。
今日の私はツイているのだ!
なんと、徴収課の和木坂要課長も残業しているではないか。
徴収課の主な仕事は保険料の納期を過ぎている会社に納付を促し、督促をし、場合によっては差し押さえもするという、いわゆる汚れ仕事である。
今日の和木坂課長はグレーのスリーピースの背広に紺色のネクタイを締め、厳しい顔で電話応対をしている。
私の席まで和木坂課長の声は聞こえないけれど、きっと保険料滞納事務所の担当者に根気強く指導しているのだろう。
机の上には分厚いファイルが山積みになっていて、その激務ぶりが手に取るように見てとれる。
和木坂課長は私より7つ年上の32歳、独身。
仕事が出来て、その上クールなイケメン。
背が高くスラリと細身の身体と思いきや、腕まくりしたときの筋肉は目を見張るものがある。
きっと「脱いだらスゴイ」ってやつなんだ。
どんな強面な事業主にも恐れず、決して声を荒げることはないけれど、冷静かつ忍耐強く相手を説得し黙らせることが出来る話術を持っていて、なおかつ仕事では自分にも他人にも厳しいと評判だ。しかし面倒見が良く部下には慕われていて、尊敬できる上司ナンバーワン。
事務所内きっての優良株だから、もちろん女子職員のファンも多い。
かくゆう私もそのファンの中の一人だったりする。
もちろん、和木坂課長とどうこうなろうなんて野望は持ち合わせていない。
だって私はウスイサチだから。
あんな格好いい男性の隣にウスイサチがいたりしたら、迷惑以外の何物でもないことは重々承知しているつもりだ。
それに和木坂課長は噂によると職場恋愛を好まない性質らしく、どんな女性職員からのお誘いも袖にするらしい。特に女性にはそっけなくて、バレンタインデーの義理チョコも頑なに受け取らない。だから女子職員には陰で「氷結の和木坂」などと呼ばれている。
でも私が和木坂課長のファンなのは、決してイケメンと評される外見だけを見てではないのだ。
あれは私が庶務課に異動したばかりで、大事なデータファイルを消してしまったと勘違いしてしまった時のこと。
最終的には大事に至らずホッとしたけれど、かなり課内を騒がせてしまい、ものすごく落ち込んでいた。
事務所の近くの小さな児童公園で、一人ぼんやりお弁当を食べていたら、突然頬に冷たいものが押し付けられた。
「ひゃっ!」
振り向くと和木坂課長が冷えた缶のミルクココアを持って、ニヤリと微笑んでいた。
「こんな所で弁当か?」
「は、はい・・・」
やはりいつものように言葉が咄嗟に出てこなくて、心臓がバクバクと音を立てていた。
和木坂課長と個人的に話すのは、その時が初めてだった。
和木坂課長を恐ろしく仕事に厳しい人だという認識しかなかったから、きっと何かお叱りを受けるのではと内心ビクビクしていた。
和木坂課長はさりげなく私の横に座ると、その甘い飲み物の缶を私に手渡した。
「え・・・?」
「ココア、飲める?」
「・・・はい。大・・・好物です。」
「そう。良かった。」
「あ、ありがとうございます。」
「いいえ。どういたしまして。」
和木坂課長は、おもむろに胸ポケットから煙草の箱を取り出し、その白い巻物にジッポライターで火を付けようとして、私の方を向いた。
「今日び、どこも禁煙禁煙で喫煙者は肩身が狭いよ。・・・煙草吸っても、大丈夫な人?」
「あ、全然、大丈夫、です。」
「じゃ、遠慮なく。」
そう言って安心したように微笑むと、和木坂課長は火の点いた煙草を咥え、美味しそうに深く煙を吸い込んだ。
何か話さなきゃと内心慌てていると、和木坂課長が太陽の光を眩しそうに右手の平で遮りながら、私に話しかけた。
「臼井さん・・・だったよな?何年?」
「はい。臼井ちさです。1997年生まれです。」
すると和木坂課長はプッと噴き出した。
「???」
「俺が聞いたのは、入社何年目って意味なんだけど。」
「ああっ、スミマセン・・・ええと、2年目です。」
「そう。・・・俺ね、入社3年目の時に、やらかしちゃってさ。アポ取ってた会社に行く時間を間違えて大遅刻。我ながらあれはショックだったよ。3日は立ち直れなかった。」
「そ、そうなんですか・・・?」
和木坂課長みたいな切れ者でも、そんな経験があるんだ、と驚いた。
「その会社の担当者に散々怒鳴られ、税金泥棒だと決めつけられて。・・・あれ以来、毎朝その日の予定を何回も確認するようになった。」
「・・・・・・。」
「君のとこの課長とは同期だけど、アイツも昔はしょっちゅう上司に怒られていたんだぜ?」
「・・・そうなんですね。」
「誰しも少なからずそういった経験があるもんだ。」
私はそのエピソードを聞いて、少し胸が軽くなった。
「ま、甘い物でも飲んで、気分転換したら?」
「はいっ・・・あ、ありがとうございます!」
私はそこで何日かぶりの笑顔を取り戻した。
「それと・・・。」
「はいっ。」
「臼井さん、いつも余計な仕事を押し付けられているように見えるけど、都合が悪いときはちゃんと断われよ?」
「は、はい。」
それから二言三言何かを話したけれど、緊張しすぎていて何も覚えていない。
ただ、和木坂課長が落ち込んだ私を励ましてくれているのだけは、しっかりと伝わってきた。
それと隣の課のことなのに、全体を良くみているんだなってことも。
煙草を吸い終わったタイミングで和木坂課長が片手を挙げてその場を去るまで、私はただ顔を赤くして、和木坂課長の言葉に頷くばかりだった。
なんて温かい人なんだろう・・・そう思った。
「氷結」なんて呼ばれているけど、私みたいなモブ女子にも優しくしてくれた。
きっと事務所内にも私みたいに励まされた人間が、少なからずいるはずだ。
その日から私は和木坂課長のファンになった。
私も大概チョロい女なのだ。
今日も私は徴収課の課長席を遠目で眺めながらこう心で呟く。
(和木坂課長、本日も通常運転で恰好いい・・・眼福眼福)
眠気覚ましのコーヒーを作りに給湯室へ向かうと、タイミング悪く先客がいた。
徴収課の男性職員、本木さんと森園さんだ。
早く出て行ってくれないかな、と入口近くで待っていると、二人は所内の女子職員の品定めを話し始めた。
「彼女にするならやっぱり吉木美沙でしょ。どうせならああいう華やかな美人を連れて歩きたいね。横にいる女のレベルで男のステータスも上がるってもんだろ?」
「僕は一課の加奈子ちゃんがいいな。明るくて元気で話しやすいし。」
「あーわかる!やっぱり女は愛嬌がないとな。」
・・・これ、聞いてちゃダメなやつだ。
そこから急いで離れようと思った瞬間、案の定自分のあだ名が耳に入ってきた。
「ウスイサチちゃんは?」
「あ~。ウスイサチね。俺、ああいう暗い女はちょっと無理だわ。」
「たしかに!話しかけてもハイかありがとうございます、しか言わないもんな。影も薄いし・・・あ、だからウスイサチなんだっけ?ハハハッ」
「でもさ・・・」
森園さんが下品な薄笑いを響かせながら言った。
「ああいう大人しい女ほどベッドではエロいっていうし、身体だけの関係だったら付き合ってやってもいいかも。」
は?・・・・最低!頼まれたって森園さんなんかと付き合う訳ない!
大体、森園さんと付き合いたい女子職員なんてひとりもいないからね!
女子は森園さんのこと、陰で「エロハゲ男」と呼んでいるんだからね!
私は森園さんの後退しつつある前髪の生え際を思い浮かべながら、心でそう罵倒した。
踵を返して自席に戻ろうとすると、二人の口から聞き捨てならないワードが飛び出し、私はピタリとその足を止め、ふたたび耳を澄ませた。
「そう言えば和木坂課長さ・・・給付課の水口麗奈をフッたらしいよ。もったいなくね?」
「水口さん、いい線いってるのにな。何が不満なんだろ。」
「あの噂、本当だったりして。」
「え?あの噂って?」
「和木坂課長が『アレ』だって話だよ。」
「・・・ああ。『アレ』ね。」
「じゃあプライベートじゃ『アレ』な恋人がいるのかもな。」
「ふふふっ。じゃあ俺、水口さん、狙っちゃおうかな~。」
「おい!抜け駆けはナシだぞ!」
そう言いながら本木さんと森園さんが給湯室から出て来たので、私はさりげなくカウンター窓口のパンフレットを読むふりをしてやり過ごした。
そしてすかさず給湯室に入り、マグカップにミルク多めのコーヒーを作りながらも、私の頭の中は『アレ』とは何かということでいっぱいだった。
『アレ』ってなに???何なの???
そしていくら考えても、そこに当てはまる言葉はひとつしか思い浮かばなかった。
アレ=ゲイ
うん・・・・・これしかない。
だからあの美人な吉木美沙や、性格が良くて可愛い水口麗奈をフることが出来るのだ。
それに女性に冷たい「氷結」な原因も、男が恋愛対象ならば納得出来る。
私はそういう嗜好の人間に偏見はない。
BL漫画だって嫌いじゃない。
けれど、憧れの和木坂課長がソッチの人だったということに、大きなショックを受けていた。
「最初から私なんかが手に届く人じゃないってことはわかっていたけどさ・・・」
すでに性別からして対象外だったってことか。
私はミルクコーヒーを持ったまま、自席に戻り、ふたたび遠くの席で書類に目を通している和木坂課長をチラ見し、大きく肩を落とした。
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