彼はB専?!
ふちたきなこ
第1話 「ウスイサチは今日も残業だ。はあ~。」
カタカタカタ・・・・。
広いオフィスにパソコンキーを打ち鳴らす音が響く。
タイピングする指を止めずに、私は壁に掛けられた時計の針を仰ぎ見る。
そろそろ終業時間が迫ってきているからか、オフィス内では雑談をする職員達がちらほら現れる。
でも私は雑談の輪になんて入らない。
いや、入れないというのが正しいけど。
私の職場は、とある公的機関の都内にある事務所。
区民の方の大切な老後のためのお金や書類を取り扱う役所だ。
過去にずさんな事務処理体制が問題となり、世間の風当たりがものすごく強かった時期もあったけれど、今は新しい組織体制に変わり、幾分落ち着いている。
お客様はお年寄りが多く、私が勤めている事務所は住民が多い区なので、特に相談窓口は連日混み合っている。
お年寄り相手にかみ合わない会話を、必死に分かり易く説明しなければならない相談窓口担当者のストレスは半端ないことだろう。
今日も相談窓口では、こんな言葉が飛び交っている。
「まだお金が入金されてないけど、どうなっているんだい?」
「だからですね、入金は偶数月の15日なんですよ。」
「私のもらえる金額はこれっぽっちなの?!おかしくない?」
「それはお客様の職歴をはっきりさせて頂かないとですね・・・他の番号の手帳、お持ちではないですか?」
「保険料が高すぎてとても払えません。」
「でしたら申請免除という方法もありますよ。受け取る金額は3分の1になってしまいますが。」
「どうせ俺達が金をもらえる頃には、この制度はなくなってるか、寿命が終わってるんだろ?」
「安心してください。この制度がなくなるときは、この国が亡びるときですから。」
そこで私は職員の出張費用や経費の精算などを計算する、庶務課会計係を担当している。
人間、お金にはシビアだから、一円の間違いだって許されはしない。
日々、緊張しながらパソコンと向き合う毎日だ。
カタカタカタ・・・・。
うん。集中力が高まってきた。
この調子でいけば、定時で事務所を上がれそう。
カタカタカタ・・・カチャ。
ふう。やっと終わった。
「臼井さん。ちょっといい?」
やれやれと両手を高く伸ばしかけたその時、突如自分の名前を呼ばれ、恐る恐る振り向くと、庶務課の吉沢課長が眉毛を八の字にしながら、紙の束を私に手渡してきた。
「申し訳ないんだけど・・・この資料、今日中にまとめてもらえるかなあ?明日の午前中までに必要なんだよねえ。」
「・・・・・・はい。大丈夫です。」
「ほんと、すまないねえ。」
「いえ。」
すまないと思うなら、もっと早く依頼してくれればいいのにな。
そう言いたい言葉をグッと喉の奥で堪え、今受け取ったばかりの紙の束をじっとみつめたあと、はあっと小さくため息をつく。
役所の仕事が9時から5時までなんて言われていたのは遠い昔の話。
職場では私が採用になった当初から普通に残業が行われているし、朝当番で早出する時だってある。
隣の席では、同じ課のマドンナ的存在である吉木美沙が、華やかな笑顔を振りまきながら特徴ある鼻声で、林田係長と楽しそうに会話しているのが聞こえてくる。
「昨夜の『動物さん達、集まれレッツゴー』観ました?」
「あ~。あの動物番組ね。ウチの娘が見ていたな。」
「レッサーパンダのマル君が可愛かった~。私もあんな可愛い動物なら飼いたいわ~。」
「ウチの娘も動物が飼いたいってうるさいんだよ。ウチのマンション、ペット禁止だからまいっちゃってさ。」
私も昨夜その動物番組を観ていたので、つい聞き耳を立ててしまう。
「ね。臼井さんは、観た?」
気を使ってくれているのか、吉木美沙は急に私に話題を振ってきた。
「あ・・・はい。」
「臼井さんはどの動物が可愛いと思った?」
「ええと・・・オラウータンが・・・」
「ええー?オラウータン?あのゴリラの出来損ないみたいな動物?どこがいいの?」
「えっと・・・あの・・・」
つぶらな瞳とオレンジ色の毛並みが可愛いの。
オラウータンって5歳くらいの子供と同じくらいの知能があって、すごく賢いの。
IPadを使えちゃうオラウータンもいるんです。
そして孤独を愛する動物なんです。
頭の中では色んな言葉が渦巻いているのに、上手く口に出せない。
言い淀んでる私を、吉木さんはしばらく不思議そうな顔で見た後、すぐにまた林田係長との会話に戻っていった。
林田係長にいたっては、私の存在など完全無視している。
ここで上手く会話が続けられれば「ウスイサチ」なんて陰で呼ばれることなどないのに。
そう。私の職場でのあだ名は、誰が付けたのか知らないけれど
「ウスイサチ」
その理由は、私の名前が「臼井ちさ」だということ。
そして私の顔や立ち振る舞いが「幸が薄そう」に見えるからだということ。
このふたつをうまく掛け合わせているのだ。
たしかに私の顔は薄い。
笑っていても困っているように見えてしまう下がり眉。
純和風な奥二重の瞳、血色の悪い薄い唇、鉄分不足なのかと心配される青白い顔色。
黒い髪は肩甲骨まで届く、なんのアレンジもないストレートなロングヘア。
薄幸な役が似合う貞子を演じた女優にどことなく似ているねとか、色が白くて和風美人だね、などとたまに言われ、自分でもそんなに顔の造作は悪くないと思ってはみるけれど、いかんせん暗い雰囲気が漂うからか、ちやほやされることは皆無だ。
スタイルは中肉中背で凹凸がメリハリしてるわけでもなく、それといって特徴があるわけでもない。
不幸な影を背負ったような、隅でひっそり佇む地味な女、それが私。
私の職場は異動が多いため、歓送迎会という名の飲み会がしょっちゅう行われる。
私にはその飲み会が苦痛でしかない。
極度な口下手だから、ここでも上手く会話が続けられない。
心の中であれこれと返事を考えている間に、相手はさっさと別の誰かと会話を始めてしまう。
結果、いつでもどこでも、ぽつんと隅っこの方でひっそりと壁の花と化してしまい、空いたグラスやお皿をまとめたり、新しい注文の品を配ったりすることで、かろうじてその場での存在を保っている。
その姿がさらに哀れみを誘うらしく「ウスイサチ」と揶揄されてしまうのだ。
そんな風に言われるのは、子供の頃からもう慣れっこだ。
無口な私は友達も少なく、学校では同じような性格の女子と窓際で静かに過ごし、クラス内では目立たず、はしゃがず、をモットーに生きてきた。
いつも手が上がらない清掃委員や会計係は必ず私に回ってきたし、学園祭で劇をやるときは縁の下の力持ちである大道具や買い出し係が主な仕事だった。
運動会の組体操では一番下の踏み台になったし、体育の時間の用具の片づけもよく頼まれた。
部活は生物部で、カエルやウーパールーパーの世話をすることだけが、学校での楽しみだった。
生物は会話などしなくても、気持ちが伝わるからいい。
もちろん、そんな暗い自分の性格を変えようと、色々と努力を試みた。
家では鏡に向かって自然な笑顔が作れるように、もう何百回も練習したし、「話を上手く伝える方法」やら「人間関係を円滑にするためには」などという題名の本を読み漁ったりもした。
でも、なにをしてもこの性格は変えられないことを徐々に気づき始め、20歳の成人式の日にそれを受け入れることに決めた。
夕顔はいくら頑張っても向日葵や薔薇にはなれない。
所詮モブは物語のヒロインにはなれないのだ。
そしてそんな大人しい私は、職場でも容易に厄介事を持ち込みやすいらしく、今日みたいに退社時間ギリギリになって仕事を頼まれることが多々ある。
こんな時、吉木美沙だったらハッキリとこう答えるだろう。
「課長~時間外の勤務強制はパワハラですよ!私、ジムに習い事に合コンに忙しいんです!」
そりゃあ、私は家に帰っても愛猫のマリモと戯れるくらいしか用がないけど、早く帰りたいのは誰だって同じなのだ。
そんなことを思いながら、資料を作るために、私ことウスイサチは吉沢課長から手渡された書類に目を落とすと、再びパソコンの液晶画面とにらめっこした。
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