第10話 侯爵夫妻の悩みごと(リチェット侯爵夫妻side)
イェニーが夕食を食べているころ、リチェット侯爵家の本邸でも、夫妻──イェニーの父母──がともに食事をしていた。
今宵は客人を招いているわけではないので、邸の中でも私的な部屋を使っての食事だ。
私的なスペースとはいえ、そこは侯爵家。落ち着いたダークブラウンの木が壁の木組みや床に使われている。壁や天井を覆う白い
椅子やテーブルといった家具も、歴史を感じさせるものばかりである。
この部屋のものだけでも、すべてを合わせればどれほどの価値があるのか、問題の彼女には見当もつかないだろう。……いや、彼女の兄姉も同様だ。とにかく、古くて趣のある、貴重な家具に囲まれて夫婦は食事をしていた。
「あなた、イェニーちゃん、帰ってきてくれるかしら? わたくしたちの勝手なふるまいに憤りを感じていたらどうしましょう……」
チェリーブロンドの髪を後頭部でひとまとめにした婦人は、自身の夫に向けて己の抱えた懸念を口にした。
名はアウロラ・リチェット。彼女の紫の瞳からは、不安を抱えていることが読みとれる。
その正面には一人の男性が座っていた。彼はリチェット侯爵領の領主にして、アウロラの夫だ。名はヨゼフ。王宮では財務大臣を務めている。
金の髪に桃色の瞳をしている。一目見れば、あの双子が彼ら夫婦の愛の結晶であることは一目瞭然だ。四十を過ぎたにもかかわらず、老いを感じさせない夫婦。夫である侯爵は、愛する妻をなだめるように口を開いた。
「アウロラ、心配することなど何もないよ。僕たちはなにもあの子を捨てようと思ってあそこに送ったわけじゃないんだ。シェリーにも伝えていないから、二人には捨てられてしまったと思われているかもしれないけどね……文字を教えさせたのも、この日のためだっただろう? それを言葉で、態度で示していけばきっとわかってくれるさ」
そうなのだ。両親は決してイェニーを捨てたわけではない。領内で孤児院を開いているとある善良な領民に頼みこんで預かってもらったのだ。
本人にはそう思われないように気をつけてと指示した上で、である。今思えば、捨てたわけではないと伝えるように言った方がよかったのかもしれない。
「でも
「たしかに君の言う通りかもしれない。でも」
侯爵はそこで一度言葉を止めた。部屋に沈黙が流れる。
調度も相まって流れる空気がより一層重く感じられる部屋。──その時、扉の外から入室を求める声がした。侯爵が許可すると、部屋に入ってきた従者は侯爵に彼宛ての手紙を差し出した。
差出人はこの国の王太子、フレデリクであった。
「届いたみたいだね」
そう言うと、侯爵はペーパーナイフを受け取り、中身を確認する。難しくなった顔が気色ばんだかと思いきや、再び眉を寄せる。全て読み終わると、妻に向けて書かれている内容を説明しはじめた。
「アウロラ、イェニーを迎えることは承認されたみたいだ。ただ……」
「どうかして?」
「イェニーに王太子殿下からの婚約の打診が」
「わたくしたちのイェニーちゃんが!? どうして?」
「僕にもわからない。でも、もしかしたら殿下は僕たちのイェニーについて何か知っているのかもしれないね」
「出会ったことのない相手に婚約を申し込むのは、ないこともないけれど……」
「そうだね。でも、それでも親は会ったことがあるというのが普通かな。たしかに、王宮で陛下や殿下に会ってはいるんだけどね……」
その
高位貴族の血が流れており、貴族籍を持つことになった娘とはいえ、一度も会っていない、平民として過ごした相手に婚約を打診するなど、普通ではない。
二人は娘の人となりを、シェリーを通してある程度確認してはいる。しかし、王太子殿下が彼女のことを知っているはずがなかった。ありえない。
それに、と侯爵は続ける。この婚約をイェニー自身が受け入れたいと思うのか、確認もできていない。彼女はまだ来ていないのだから、当然だ。
しかし、これは貴族社会では珍しい恋愛結婚をした二人にとって、一大事だった。加えて、彼女は貴族のマナーなんてものを一切習っていないはずで。
マナーにしきたり……挨拶で王宮に行くことすら彼女にとっては大変だろう。それらを通り越して婚約など、困難を極めることは目に見えてわかっている。
そうした懸念を口にしながらも、その口元は心なしか嬉しそうだ。アウロラには理由は分かりきっている。
「あなた、イェニーちゃんに会うのが楽しみなのね」
「うん。本当は手放すべきではなかったんだろうけれど……それでも、これまでの時間を取り戻せるように、あの子の信頼を勝ち取れるように頑張らなくちゃね。それに、楽しみなのは君もだろう?」
「ええ。これまでがこれまでだったから、目いっぱい可愛がってあげないと」
「ほどほどにね。婚約については、またおいおいあの子がこっちに来てから話すことにしよう」
「そうね。あなた、愛してるわ」
「僕もだよ、アウロラ。愛してる」
重い話を終えた途端、互いにみずからの愛を口にする夫婦。
机を挟んでなされるその会話は、重厚な雰囲気に似つかわしくなく、とても甘く甘美だ。その様子を見ていた壮年の執事は、今日もいつも通り胸やけしていた。
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