第9話 最後の晩餐?
馬車にカタコトと揺られること一日。日が傾き始めたころ、私たちは今夜泊まる予定だという宿場町に到着した。
赤茶色のレンガ造りの建物がずらりと並んでいる。話には聞いていたけれど、これほどの人が一ヶ所に集まって暮らすのを見るのははじめてだ。
馬車が止まると、外側から扉が開かれる。
「到着しました。お手を」
御者の方がこちらに手を差し出した。私はシェリーの方を見やる。彼女が首を縦に振ったので、私はその手をとり、石畳の上に降りた。続けて彼女も馬車を降りてくる。
宿に入ると、私たちはそれぞれ別の部屋に案内された。部屋は広々としていて、孤児院の食堂の倍はありそうだ。
高級そうな赤い絨毯が一面に敷かれている。奥には、孤児院で私が使っていたものに比べてこちらも倍はある、柔らかそうなベッドがあった。
他の家具も豪華で、今までとは違う世界に足を踏み入れたのだと嫌でも自覚してしまう。
私は靴を履いたまま、ベッドの上に背中を預けた。天井は木でできていないようだ。
いや、天井にも白い絨毯のようなものが貼り付けられているのかも……少なくとも、貴族の世界は平民の、それも田舎の孤児の知っているものとは違うと思う。
私にとっての非常識がお貴族様には当たり前かもしれないのだ。
そうこうしている内に眠ってしまったのか、次に目を開けた時には窓の外はすっかり暗くなっていた。部屋の外から誰かの声が聞こえるな、と思っていると。
「ベスです。イェニー様」
今朝はじめて会ったばかりの彼女の呼びかけに、はっとなった私はドアを開けた。
「イェニー様、お食事の準備ができたようです。食堂からこちらに持ってきていただくこともできるようですが、いかがいたしましょう?」
「じゃあ、こっちでいいですか?」
「かしこまりました」
ベスが出ていくと、部屋は再び静まり返った。
思えばこれほどの時間、距離を移動したのははじめてだ。それに、馬車に乗ったことさえなかった。ほとんど座っていただけなのに、ものすごく疲れた。
お貴族様はよく乗るらしいけれど、いつもこんなものに疲れているのかと考えると、感心してしまう。
そうこう考えていると、再びドアの外から声が聞こえてきた。ベスが入室の許可を求めてきたので、私は入るように促す。
「失礼いたします。夕食をお持ちしました」
「ありがとうございます」
そう感謝の言葉を返すと、主がそのような言葉を返してはいけないと指摘された。「ありがとう」ですら十分だと。
その後ベスはごゆっくり、と言葉を残して部屋を出ていった。──一人だけになった私の視線は目の前の食事に釘付けになってしまったけれど、仕方がない。私は疲れているのだから。
部屋の中央に置かれたテーブルの上には、孤児院では考えられないほどの品数が並んでいる。
孤児院では祭りの時期にしか食べられなかった白パン。さらに食べる機会の少なかった牛肉には何かしらのソースがかけられているらしい。
滅多に食べられなかったそれらが一緒に並んでいるだけでも、すでに奇跡だ。
他には、カボチャのスープ、新鮮な葉物野菜のサラダ──こちらにも何かしらのソースがかけられている──、デザートのヨーグルト、以上が今夜の献立だ。
ヨーグルトには、香りからしておそらくベリー系の果実を使ったであろうと思われるジャムが添えられている。
一通り眺めた後の私の頭の中は、目の前のご馳走をどうやって食べていこうかということで占められていた。
ひとまずパンをスープに浸すために、ナイフを使って切り分けようとしたところ、パンはその力に耐えきれず、切り目を中心にして少しばかり潰れてしまった。
そういえば、白パンはいつも食べている黒パンに比べて柔らかいのだった。スープに染み込ませる必要はなかったかもしれない。
スープに
次にスープに口をつけてみる。苦味がない。お貴族様はこんなものを毎日のように食べているのだろうか? それとも旅の間だから?
そんなことを考えていてばかりで、食事は一向に進まない。次はお楽しみの牛肉を食べようと、再びナイフを手にした。しかし、切ろうとしても切れない。
牛肉と格闘すること数分。何とか一口大に切り出した瞬間、飛んだ肉汁が服を汚してしまった。
その瞬間、ちょっと待って、これどうするの!? 弁償とか求められたらどうしよう、なんてことで私の頭の中はいっぱいになってしまった。しかし。食べられるものは食べられる内に食べておかなくてはいけない。
もしお金が払えないということで役人に差し出されてはたまったものではない。理性を取り戻した私は、再び目の前の食事に集中する。
切り分けた肉をフォークで口に運ぶ。その瞬間、私の中に衝撃が走った。これほどまでに柔らかい肉を食べたことがあっただろうか。
それに、肉にかかっているソースが臭いを消しつつも、旨味を引き出している。私は幸せ者だ。
おいしい。私は残りの肉を塊のまま一口にする。ソースが少し垂れてしまったかもしれないが、今更だ。
残ったパンはスープに浸して食べることにした。おいしいものとおいしいものを合わせたものは、当然おいしいのだ。
最後に、ヨーグルトにジャムを混ぜて食べてみたが、やはり期待通りで。ヨーグルトの爽やかな酸味に、これは木苺のジャムだったらしい。とにかくおいしい。
☆☆☆☆☆
そうして食事を終えてしばらくすると、ベスが再び入室の許可を求めてドアの外から声をかけてきた。服を汚してしまった私は、覚悟を決めて入室を促した。
彼女がこちらに向かって一歩、また一歩と歩み寄ってくる。私は審判を待つ罪人のような気持ちで、おそるおそるその顔を見上げた。すると、彼女の顔が驚きの色に染まった。
やはり役人に突き出されるのではないか。そう思った刹那、ベスは半分は私が予想した、しかしもう半分は予想しなかった言葉をかけてきた。
「まあまあまあ! イェニー様、服がお汚れになって……いかがなさいましたか? もしかして、不慣れでいらっしゃるから……さあ、イェニー様。湯浴みといたしましょう」
「え、罰金が払えなくて役人の所に連れて行かれるかと……」
「役人? そのようなことはいたしませんよ。そのお洋服はイェニー様のために用意されたものですから。さあ、こちらへ」
「あの、食器は」
「イェニー様が片付ける必要はありませんから、心配なさらなくても大丈夫ですよ。さあ、こちらへどうぞ。貸切ですから、心配はいりません」
そうして、私が案内されたのは、宿の地下にある一室だ。ベスの言葉は嘘で、ここで私の人生は終わってしまうのかもしれない、そう思った。
しかし、扉が開かれると、そこは湯気の立ち込めた部屋だった。
かくして朝の一件同様、そこからはあっという間で。髪が濡れたと思えばいつの間にか乾いているし、服も寝巻きに着替えさせられていたのである。
清潔で、シンプルなデザインの寝巻きを私は気に入った。普段着もこれくらい楽ならいいのに。
そうして、次に気づいた時には、先ほどの部屋に戻ってきていた。
おやすみなさい、そうベスに言われた気がするが、扉はしまっているし、外からは物音ひとつしない。
する事もないので、私は靴を脱いでベッドに上がった。とても心地よい肌触りに柔らかさだ。言っては悪いが、さすがお貴族様の使うベッドは孤児院のものとは違う。
生まれてはじめての触感に包まれながら、昼間の馬車で疲れていた私は、あっという間に眠ってしまった。
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