第8話 惜別
院長先生には「大好きだよ」とは何度も言ってもらったことがあるけれど……「愛してるよ」と言ってもらったのははじめてだった。
それはともかく。最後の朝をいつもとは違うように過ごしていると、外から何やら騒がしい音が聞こえてきた。
シェリーと共に来た侍女のリリーが部屋から出ていったのを見るに、おそらく「迎え」が来たのだと思う。
「シェリー様、イェニー様、どうぞこちらへ」
「行ってくるね」
「おう」
リリーに様付けで呼ばれた私は、そばにいたヤンに最後の一言を告げ、部屋を出た。向かった先は院の隣にある礼拝堂だ。おそらく院長先生に事前に許可は取ってあるのだろう。お貴族様にとっては簡単なのだろうけど。
木目調の礼拝堂は当番制で掃除をしているので、内装は美しく保たれている。ただ、人が来ることはほとんどない。寂れているように見えるのはそのせいだと思う。
「イェニー、頑張ってちょうだいね」
「え? 何を頑張るの?」
シェリーは礼拝堂に入っていき、私は見知らぬ女性たちの間に取り残された。すると、その中の一人が前に出てお辞儀をする。歳は四十くらいだろうか。恰幅がよく、薄茶色の髪に黒色──灰色も混ざっているかもしれない──の瞳をしている。
村の雑貨屋の奥さんにそっくりだ。
「イェニー様ですね。本当にシェリー様と対の人形のようですね……申し遅れました。わたくしはベスと申します。お気軽にベスとお呼びください」
「イェニーです。よろしくお願いします、ベスさん」
「イェニー様、さん付けは不要です。イェニー様は貴族の事情などまだ何も分からないかと存じます。ただ、ひとまず使用人にさん付けはいけないことだと覚えていただければ」
「……わかりました。ベス」
ベスは私が貴族社会に疎いだろうということで付けられた、そこそこベテランの侍女なのだとか。
私の兄となる人物──というか血のつながった兄──が小さかった頃には、専属として付いていたらしい。
「それではイェニー様、お体をお流ししますね。準備はできているのでどうぞこちらへ」
「は、はい……朝から湯浴みですか?」
「そうですね。このようなことを申し上げるのは恐縮ですが……今のイェニー様のお姿をご主人様方がご覧なさったら、大変驚かれると思いますので」
貴族の世界とはそういうものなのだろうか。私にとって湯浴みなど週に一度すればいい方で、普段はお湯に浸した布で身体を拭いておしまいだ。
湯浴み用の道具が置かれている部屋に入れば、そこには湯気が立っていた。部屋といっても、半分外なのだけれど。
「さあ、お身体をお流ししますね……」
そこからはあっという間だった。服を脱がされ、身体の汚れが落とされていくかと思えば、次に気付いた時には真新しい白い布を巻かれていた。非常にスムーズだ。
鏡の前の椅子に座るように言われたので指示に従えば、そこには紛うことなき美少女がいた。一瞬、自分だと気がつかなかった。
そばかすこそやや目立つが、これまでの自分と比べると別人と言ってもよいと思う。
そんなことを考えていると、扉が開かれる音がする。私は思わず右を向き、彼女が入ってくるのを見るなり再び起立していた。
「まあ、イェニー! 貴女、見違えたわ」
「そう? 私も一瞬自分だと思わなかった」
「さあ、次は着替えよ」
「え? これを着ていくんじゃないの?」
「それはバスローブよ。お風呂上がりに着るの。普段着ではないわ」
「そうなの? 普段着ってもしかして、それ?」
「そうよ」
シェリーが着ているのはまさにお貴族様、というドレスだった。濃い目の赤を基調にしたツーピースのドレスは、上衣の袖口には白いレースがあしらわれている。
同じ布地で織られたスカートは自然なラインを描いて下にそのまま落ちているが、シェリー曰くこのラインは旅装や町中で着るものであり、普段着る時はスカートの裾を膨らませるのが普通なのだという。
「私もそれを着るの?」
「色は違うけれど、お揃いのものを持ってきたの。わたくし達は双子なのだから、今はその方がいいでしょ? もしこういうの苦手だったらごめんなさいね。今度一緒に街に買いに行きましょ?」
そう言うとベスはどこから持ってきたのか、シェリーが着ているのと同様の意匠のドレスを手にしていた。
白いレースはお揃いだが、生地自体が淡いラベンダー色である。これを着て彼女の隣に並べば、きっとそろいの人形のように見えるだろう。私の肌の調子がよければ、だけれども。
「えっと……」
「じゃあ、もうしばらく外で待っているわね」
手をふりながら部屋を出て行く彼女の後ろ姿を見送った。扉が閉まったかと思えば、次の瞬間にはまた布をはがされ、すぐに服を着せられていく。
再び気づいた時には、私はあのラベンダー色のドレスを着ていた。足首の少し上の丈のスカートなど、祭り以来だ。
「イェニー様、本当に見違えました……」
心なしかベスの目が輝いているように見えた。私はただただ呆然とするしかない。
そう──この服を汚してしまわないか心配なのだ。弁償とか言われたら絶対払えない。そう私が怯えていると、再び扉が開かれる音がした。
「イェニー!」
「シェリー? どうかした?」
「貴女、とっても素敵よ! ええ、わたくしの目に狂いはなかったわ!」
あとでベスに聞けば、このドレスは急遽あつらえたもので、セミオーダーという方法で作られたのだという。
つまり、沢山作った服をちょっと変えてもらったもの……らしいけれど、私には同じ服が並んでいる様子が想像できない。
侯爵家レベルとなると、普通は日常用のドレスでもフルオーダーという一点物を注文するのが普通らしく。今回時間がなかったせいでシェリーはそうできなかったことを悔いていたのだとか。
着替えが終わったので、私は外に出た。気のせいかもしれないけれど、麦畑が私の旅立ちを祝福してくれている気がする。
そう思いつつも私は孤児院のみんなに別れの挨拶をしに向かう。
シェリーに手を引かれ、建物の前まで行くと、中からみんなが見送りに出てきてくれた。最初に口を開いたのは院長先生だ。
「イェニー、見違えたね。あなたのご両親によろしくね。でも、本当に帰ってきたくなったら帰ってきても大丈夫だからね」
「院長先生……ありがとう」
院長先生は私を優しく抱擁してくれた。とてもあたたかい、私の大好きな院長先生の手。先生との別れを惜しんでいると、横からヤンが声をかけてきた。
「先生ばっかズルいぞ。オレも」
先生の手が離れていく。かわりに、私はヤンにぎゅっと強く抱きつかれた。私にとっては弟分だけれど、これからはきっと立派な大人になっていくのだろう。
「ヤン、みんなをよろしくね」
「ん。イェニー、綺麗な服だな。お貴族様みたいだ」
「私もホントにお貴族様になるなんて思ってなかった」
「ちょっと、イェニーは生まれた時から貴族なのよ。たまたま双子だからという理由で孤児院に来ただけで……わたくしの妹だもの」
シェリーが横から口を挟んだ。それはさておき。今度は、イライザが強く抱きついて、そのままヤンを私から引き離してしまった。
「ヤン、だめ! イェニーはおよめにいくの! だからおうじさましか、ぎゅってしたらだめなの!」
「あらあら、イライザちゃんはどこでそんなことを覚えたのかしら?」
「私が読んでいるのを聞いただけだと思う……」
「まあ! 孤児院なのに本が読めるなんて……貴女がここに引き取られていてよかったとわたくしも思うわ」
領内でも環境のよい孤児院と悪い孤児院があるというのは今はじめて知った。
けれど、私たちは別れの直前とは思えないほど、いつも通りの空気で会話を繰り広げていた。シェリーの溶け込み方があまりに自然すぎて、違和感がない。
それから半時間ぐらいで別れの時間がやって来た。御者が出発を告げる。シェリーが先に馬車に乗り、私にも乗るように促した。
「イェニー、そろそろ出発よ」
「わかった。それじゃあ……みんな、ありがとう」
みんなに感謝を告げ私も馬車に乗る。お貴族様にとっては当たり前のことなのかもしれないけれど、馬車に乗るのははじめてだ。
スカートの裾が邪魔だが、シェリーの裾さばきを見よう見まねで試してみる。普段より丈の長いスカートはどうしても動きにくい。これにも慣れなければならないのだろう。
馬車の扉が閉じられる。私はみんなに向かって手を振った。寂しいけれど、これは私が選んだ道だ。院長先生、ヤン、イライザ。みんな、ありがとう。十六年分の思いを込めて、笑顔で別れを告げた。
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