第6話 〝業火〟イズレブ

 ヴァレリア帝国北東部、天輪保有者ランドラブ領との国境を守る砦がある。


 コンファ砦。常ならば天輪持ちの守将が十人も詰める堅固な城砦だが、この時、彼方に上がる土煙を城壁から眺める将はただ一人、名を〝業火〟イズレブと言った。彼はコンファ砦にある最後の守将であり、天輪持ちであった。支配の魔女ラヴルニエストゥスをして端倪すべからざる敵と評されたランドラブの軍勢を迎え撃つに当たって、しかし彼に焦りの色は見られなかった。


 それもそのはず、燦然と輝く彼の天輪は歴戦の天輪持ちですら正面からぶつかるのを躊躇うほどに強力に輝いていた。手にした力への絶対的な信頼、総身に満ちあふれる全能感。腕の震えは武者震いであり、好敵手を打ち倒してさらなる力を得んとする狩人の猛りであった。


「ランドラブ本人が来るか。定石ではあるが、侮られたものだな」


 侮られるのも仕方あるまい、とイズレブは独りごちる。つい先ほどまで、彼はコンファ砦に詰める守将として末席を占める、凡庸な天輪持ちの一人に過ぎなかったのだ。しかし、今この瞬間において自身の実力はランドラブにも比肩しうるとイズレブは確信していた。


 天輪保有者〝見境なき〟ランドラブ。彼が冠する二つ名は〝収奪の王〟〝恐怖公〟〝飢え渇く獣〟といった調子の恐ろしげな形容が並び、紋章として掲げる熊のごとき獰猛さと執念深さで知られている。どうやってかは知らないが、支配の魔女の死を嗅ぎつけて侵攻してきたのだろう。


「その思い上がりが命取りだ。貴様もすぐに俺の覇業の礎となる」


 城壁上まで香るかすかな焦げ臭さを嗅ぎ、イズレブは傲然と言い放つ。


 転機となったのは帝都からの腕木通信だった。送信側は三本の棒から成る構造物をてことロープで動かし、受信側はその形状を望遠鏡で読み取って通信する方式だ。ヴァレリア帝国の主要な街道上に整備された通信塔を介して、帝都が伝えてきたメッセージにはこうあった。


――帝都が攻撃を受け、皇帝が負傷。警戒を厳とせよ。


 詳細は不明。だが天輪持ちなら直感したはずだ。これまでずっと叛逆の意志を挫き、同士討ちを禁じていた魔女のくびきが消え去ったことを。負傷というのは方便であり、ヴァレリア帝国の女帝ラヴルニエストゥスは死んだのだと。当然、そのような重大事をいつまでも隠しておけるはずもない。機に乗じた他国の侵攻を警戒するのは当然であり、そのための軍議が開かれることになった。


 イズレブは即断した。コンファ砦に詰める十人の守将が一堂に会する場に踏みこみ、後ろ手に扉を閉めると同時に己の天輪に授けられた能力を全開放した。似たようなことを考えていた者はいるだろうが、誰もが残りの九人を同時に敵に回すのは避けるはず。その思いこみが命取りだと教えてやった。


(渦巻け、業火よ)


 息を止め、広くはない会議場を猛火で埋め尽くす。不意打ちで目と喉を焼かれて戦える者はそういない。非保持者を焼き払うしか能のない雑魚狩りとイズレブを蔑んだ一人は、遅参を非難しかけたところをもろに食らったらしく、無様に床をのたうち回っていた。とても愉快だ。


 無能なりに警戒を怠っていなかった者もいた。己の能力を駆使して初撃をやり過ごし、剣を抜き払って反撃を試みる。しかし、火焔の切れ目を見計らって大きく息を吸ったそいつはあっけなく昏倒し、無防備なその背を晒した。イズレブは油断なく歩み寄り、剣を突き立てる。


 相手はわけが分からなかっただろう。これは数多の人間を焼いてきたイズレブだからこそ気付いたことだ。彼の炎には毒がある。派手な火焔に目が行きがちだが、真の切り札は違う。この毒は天輪の有無に関係なく相手の意識を一瞬で刈り取る。特に閉所では効果的だ。


 息を止めたまま戦い続けられる者は存在しないし、いかにもな毒霧でもなければ呼吸そのものを警戒する者は皆無だ。また警戒していたところで、切傷や火傷を受ければ反射的に息を吸いこむのが人間というもの。不意打ちかつ閉所での戦闘でイズレブに勝てる者はそういない。


 今日、この瞬間まで牙を研ぎ続けたイズレブの努力がようやく実ったのだ。


 勝利の果実はとんでもなく甘美だった。倒れ伏す同僚たちの背に剣を突き立て、命を刈り取る度、莫大な力が流れこんでくる。狭く暗い室内で、イズレブの紅い天輪のみが輝きを増していく。抑えきれない笑みを口の端に浮かべ、九人の天輪持ちに慈悲を与え終わったとき、彼は確信した。


(これは天が俺に与えたもうた秋だ)


 もはや誰が相手であろうと負ける気はしない。天輪がもたらす人外の膂力と速度だけであらゆる相手を圧倒できるだろう。本物の強者の世界というものを、イズレブは初めて実感できた。


 当然、非保持者に対して発揮できる強制力も以前とは比べものにならない。今ならイズレブの号令一下で万軍が死兵と化すだろう。軍勢の力を底上げする〝鼓舞〟の能力を持つサーデンとも正面からやり合える。こんな僻地の砦など捨て置いて、帝都ヴァレリアを奪取するのも容易い。


「俺が皇帝か。くくく……」


 忍び笑う彼の元に報告が届けられた。ランドラブ領に動きあり。


 ちょうどいい、と嗤った。帝都攻略に赴き、空き巣となったコンファ砦を奪われるのもおもしろくない。ここでランドラブ軍を徹底的に叩いておけば、魔女の死に乗じて攻め取ろうという気も失せるだろう。


 ランドラブ本人を示す熊の紋章が染め抜かれた旗旒を確認したイズレブは、あえて砦外に打って出て、平地で迎え撃つ策を採った。麾下は包囲殲滅に備えて鶴翼に構えさせ、ただ一騎イズレブだけが突出する形だ。広域の対軍戦闘は彼がもっとも得意とするところであり、敵味方を区別せず焼き尽くす業火を容赦なく振るえる絶好の機会でもある。


 正面中央、旗旒の下にその姿が見えた。黒馬にまたがり、闇を煮詰めたようにどす黒い天輪を冠して陰鬱な目をこちらへ向ける〝恐怖公〟ランドラブだ。目敏くも魔女の死を捉えて攻めてきたのだろうが、ここにイズレブという誤算があったことを教えこんでやるまでだ。


 陰々とした角笛の響きが戦場を駆け抜ける。ゆっくりと動き始めたランドラブ軍の動きを見るに、数に物を言わせた平押しで来るつもりらしい。このイズレブを相手に愚かとしか言いようがない。自身は動かぬまま軍勢を進めてくるその動きからは罠らしい罠も見て取れない。


「地より沸き立ち、渦巻け、天を焦がせ! 灰となりて大地へと還れ!」


 イズレブは馬上で剣を掲げ、咆吼する。

 すると敵軍を押し包むように炎の竜巻がいくつも湧き上がった。

 大地から蒼天へと伸びた赤黒い竜巻は土砂をも巻き上げ、空を黒く染めていく。


 うねり、のたうつ火焔が敵軍を後ろから呑みこんでいく。凄絶な悲鳴が響き渡り、逃げ場を失った兵たちは押し合うように前へと押し出されてきた。天輪持ちの将に率いられた騎馬隊は元凶たるイズレブを目掛けて決死の突撃をかけようとしている。距離は百歩。騎馬なら数秒とかからない。


「そそり立て、押し通らんとする者を火で浄めよ!」


 厚さにして三十歩。形なき焦熱の壁が騎馬隊の前に突如として現出した。突撃隊形にあった彼らに回避する術はなく、人馬もろとも次々と火達磨になっていく。ようやく壁を抜けた頃には目も耳も焼けただれ、よろよろと走ってはくずおれ、仇たるイズレブを見失ったまま息絶えていく。


 威力、範囲、射程。いずれも前とは比べものにならない。出力もこれで三割といったところだろう。何十万の軍勢が押し寄せてきたところで、イズレブ一人いれば敵ではないと実証された。被害の甚大さにランドラブが臆して逃げはしないかと心配する余裕すらあった。


「さあ、来るがいい。大陸の覇者となる俺の手にかかることを光栄に思え」


 聞こえはしないのを承知でイズレブは言う。重要なのはランドラブを近寄らせないことだ。彼の天輪が秘める〝収奪〟の能力は強力だが、射程はそう長くはないと判明している。今の彼であれば遠距離から一方的に嬲り殺せる。黒焦げの死体が累々と転がる戦場で、イズレブは剣尖に火球を宿した。


 彼方のランドラブが片手を上げる。なんの合図かと思えば、彼の傍らに一人の天輪持ちが引きずられてきた。遠目にも分かる拷問の跡。抗う気力すらなく、立っているのもやっとという様子だ。直後、禍々しさすら感じさせるランドラブの天輪が黒い輝きを放ち、天輪持ちは崩れ落ちた。


(あれが〝収奪〟か。おぞましい……)


 能力の行使を受け、見るからに輝きを失った天輪を見て確信する。

 あれを受けたら天輪持ちとしては終わりだ。二度と使い物にはならないだろう。


 恐るべき能力だった。だが、それだけとも言える。種が割れていれば、打つ手はいくらでもある。すでにイズレブの周囲に浮かぶ火球は数十を超えている。彼が剣を振ると、そのうちのひとつが敵を目掛けて飛んでいった。同時に乗馬に鞭をくれたランドラブが急迫してくる。


 火球は寸前で方向転換したランドラブにかわされ、背後の地面に落ちた。その瞬間、目の眩むような光が弾け、遅れて爆音が耳を聾する。解放される熱と光に、天輪持ちはともかく馬が耐えられない。落馬したランドラブを目掛け、続けざまに火球を撃ちこむ。馬を失ったランドラブはイズレブに追いつけないし、天輪で身体強化して追ってくるならイズレブも同じようにするだけだ。


 五十まで数えて、掃射を止めた。反撃はなく、手応えらしい手応えもない。燃え尽きて灰燼と帰したかとほくそ笑んだその瞬間。足首をがっちりと掴まれ、地獄の底から発したような声が響く。


「汝の力、我に捧げよ」

「しまっ……!」


 その瞬間、前後不覚に陥るほどの虚脱感に襲われた。

 数瞬前まで自在に扱えていた炎の使い方が、もう分からない。

 剣が重い。自身の足首を掴んで放さない腕を断ち切ることすらできない。

 地面に空いた穴が視界に入り、光で視界を失った隙を突いて潜ったのだと理解する。


「もうよいぞ。疾く燃え尽きよ」


 死にも等しい宣告。

 散々人を焼いてきたが、焼かれるのは初めてだった。

 自分のものとは思えない苦悶の絶叫。開けた口から炎が入りこみ、喉も焼き潰される。


 もう声すら出ない。痛い、熱い、苦しい。思考がそれだけで塗り潰される。反撃など思いも寄らなかった。ただただ速やかな死だけを願う生き物にイズレブは成り果てていた。


 涙すら一瞬で蒸発し、熱による変質で白濁して失われゆく視界の中で、冷然と見下ろすランドラブと目が合った。目線だけで死を懇願する。ふいと目をそらされ、絶望する。死すら与えられず、焼けただれた手では自決のための短剣すら握れない。喘ぎ、のたうち回り、緩慢な死へと向かう。


 天輪が与える再生力が、力の大半を奪われた今もイズレブを死なせまいと働く。

 時間にして五分。主観的には永遠とも思える苦痛の果てに〝業火〟イズレブは死を迎えた。

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