第2話 王都ヴァレリア突破戦

 精緻な彫刻が施された大扉を抜けると、大階段と水堀にかかった跳ね橋の先に広大な市街地が広がっているのが見えた。白壁とオレンジ色の屋根で統一された街並みは、平時ならば賑わっているのだろう。しかし白昼にもかかわらず店の喧噪も道行く人の喋り声も今はない。各所で黒煙と炎が上がり、都市全域に火の粉が舞っていた。空気は乾いており、どこに飛び火しても不思議ではない。


 逃げ惑い、あるいは消火に当たろうとする人々の叫びが遠く聞こえる中で、沈黙の中に秩序を保つ一団がいた。完全武装した騎士と兵卒たちだ。剣や槍を構え、跳ね橋と大階段の間にある空き地で油断なく陣形を組んでこちらを見上げている。どう見ても友好的な雰囲気ではない。


 最上段に立つフラクタは殺気立った彼らの視線を一身に集めながらも動じることなく、振り返ってリヴィンがついてきているのを確かめると薄く微笑んですら見せた。彼女に目線で促されて隣に立つと、階段下の騎士たちに困惑の色が見えた。その視線はフラクタではなくリヴィンに向いている。


「リヴィン殿……?」


 訝しげなつぶやきが焦げ臭い風に乗って耳に届く。槍を携えた兵卒たちとは明らかに雰囲気が違う、五人の騎士のうちの誰かだろう。彼らはリヴィンのことを知っているのだ。兵士たちとは違い、彼らの頭上には天輪がある。フラクタのそれよりも小さく、輝きもやや貧弱ではあったが、決して侮っていい相手ではないと本能が告げている。彼らが敵なら、フラクタはどうするのか。


「リヴィン殿、この女は何者か。陛下はご無事なのか!」


 腹の底に響く胴間声。戦場で鍛えられた戦士の声に、思わず身体が震える。おそらく五人の騎士でもっとも強いのはこの男だ。騎士たちは天輪があるためか兵卒とは違って兜を装着していない。敵対する者を射殺しそうな強い視線が真っ直ぐにリヴィンを貫いた。


 とっさに言葉が出ないリヴィンに代わって、フラクタが答える。


「天輪の騎士どもよ、聞け! 汝らが仕えし支配の魔女ラヴルニエストゥスは、この〝王冠砕き〟フラクタと叛逆の騎士リヴィンが討ち果たした! 死せる主になお忠誠を捧げんとする者はかかってくるがいい。このわたしが手ずから天輪を砕いて進ぜようぞ!」


(やられた。この女、やりやがった)


「王冠砕きだと!? リヴィン殿……いや、リヴィン! 貴様、いつからその女と通じていた!」

「いや、俺は……」


(俺は、なんなんだ?)


 答えあぐねるリヴィンに向けられる感情が、驚愕から反感と憤怒へと変わっていくのが手に取るように分かった。彼らにしてみれば、リヴィンは敵と通じて主君を暗殺した大逆人なのだ。


「答える必要はありません。リヴィン、この者らは貴方を洗脳していた支配の魔女に仕えた、悪しき天輪の保持者です。わたしが打ち砕かんとする敵であり、すなわち貴方の敵でもあります」

「くそっ、俺にどうしろと……」

「言いましたよね? わたしに付いてくればよいのです」


 フラクタと会話を交わす間に、騎士たちは動き始めていた。兵卒たちは跳ね橋の前で槍衾を形成し、二人の騎士が大階段を駆け上がってくる。戦わねば、殺されるのだ。


「いきます」


 フラクタが短く宣言すると、彼女の天輪が輝く。


 リヴィンには、彼女がなんの気負いもなく、軽く地を蹴ったように見えた。それだけで彼女は数十段もある大階段を一気に飛び降り、様子見していた残りの騎士たちの眼前に降り立った。同時に振り下ろされたウォーハンマーが、騎士の頭を構えた盾ごと粉砕していた。


 血飛沫が石畳を濡らし、ガラスが割れるような音を立てて天輪が砕け散った。強い輝きを放って飛び散った天輪の欠片は、地に落ちることなく光になって消えていく。凄惨であり、同時に美しい光景だった。生命が、存在そのものが砕け散るのを目の当たりにした気分だった。


 不意に湧き上がる殺気に直前まで気付かなかったのは、その光景に目を奪われていたからだ。勘だけで右へ飛び、ハルバードを振るう。直前までリヴィンの居た場所を両手持ちの大剣が薙ぎ払い、振るった斧槍は危なげなく盾で受け止められた。大階段を駆け上がってきた二人の騎士だ。


 リヴィンを挟むように立ち回る騎士たちには隙がない。反撃どころか、ハルバードを叩き落とされないようにしつつ距離を取るのが精一杯だった。このままではフラクタと分断されるという危機感が募り、それが動きに出てしまう。小さな不利の積み重ねがリヴィンから体力と余裕を奪っていく。


 相手の戦術はシンプル。防御に優れた盾と長剣の騎士が立ち塞がり、両手持ちの大剣を操る騎士が側面や背後を狙う役割分担だ。だが分かっていても長剣の騎士から目が離せない。防御に徹しているように見えて、こちらが隙を見せれば長剣の一撃が来る。本当に恐いのはこれだ。


「リヴィン殿、その天輪はどうなされた」


 背後の騎士が声をかけてくる。天輪と言えばフラクタと結んだ契約のことが頭に浮かぶが、契約とは外見から明らかになる類いのものなのか。命と引き換えの契約により逆らえないのだと打ち明ければ酌量の余地もあるだろうか、と弱気が首をもたげる。


(違う。甘えるな)


 こうして刃を交えた時点で交渉の可能性は潰えているのだ。

 敵はリヴィンの動揺を誘うためにブラフをかけてきている、と判断すべきだ。


「本当に貴方が陛下を殺めたのか。一体なぜ……!」


 騎士の声に感情が滲む。

 敬慕、困惑、憤怒。彼はリヴィンを殺していいか迷っているのだとそれで知れた。


 フラクタは洗脳と表現したが、リヴィンは彼らの主に重用されていたのだろう。敵となった自分にまだ敬称をつけて話しかけてくるのがその証左だ。しかしその記憶はもう失われた。取り繕ったところで、尋問されれば数分と持たずにバレることだろう。フラクタが女王を殺したのなら、守り切れなかった自分の立場は限りなく悪いものとなる。やはり降伏する選択肢はない。そもそもフラクタに命を握られているのだ。


「あんたらに答えるべき言葉を、俺は持たない」

「……ならば貴方は我らの敵だ。この場で討ち果たさせてもらう」


 騎士の目が殺意を帯びる。いずれ記憶を取り戻すこともあるのかも知れないが、今は生き延びるのが先決だ。あの場で何があったのか、自分はなにを失ったのか、それにはどんな意味があったのか。今は全てが分からない。分からないまま消えてなくなるのだけは嫌だった。今はそれがリヴィンの全てだ。


 息を吸い、相手を観察する。リヴィンがまだ死んでいないのは彼らの戦いぶりに迷いがあったからだと言っていい。武器を振れる肉体があるのだから戦えるなどと思ったのは間違いだった。彼らは命のやり取りを常とする戦士であり、自分はただ鍛えた身体を持つだけの人間に過ぎなかった。


 どう戦えばいい。騎士リヴィンの戦いとはどういうものだったのか。自問は戦いの最中にあっても不思議とよく聞き分けられるハスキーボイスによって中断させられる。


「リヴィン、突破します!」


 フラクタの声。反射的に地を蹴り、正面に立つ騎士が構える盾にぶつかるようにして位置を入れ替える。この機を逃して置いていかれればリヴィンが生き延びる目はない。そんな直感が身体を動かしていた。ハルバードを捨てて一目散に逃げたい衝動をなんとかこらえて、大階段を飛び降りる。


 階段下にいた三人の騎士は、フラクタの手で残り一人まで減らされていた。最初の一撃で頭を潰された一人と、胸甲を巨人に踏み抜かれたかのごとくぺちゃんこに潰された一人。どちらも天輪が砕かれ、物言わぬ骸と成り果てている。残ったのはもっとも手強いと思われる胴間声の騎士だ。フラクタのそれより一回り大きいウォーハンマーを細枝でも振るように自在に扱っている。


 助太刀すべきかと思ったが、思い留まる。あの戦鎚で一撃をもらえば、おそらく行動不能になる。足が止まったら押し包まれて殺されるだけだ。フラクタの足を引っ張る状態になれば、きっと彼女は自分を見捨てていく。あくまで自分の足でこの場を離脱しなければならないのだ。


(なら、道を開くのが俺の役目か)


 槍衾を形成してじっと動かない兵卒たち。彼らを跳ね橋の前から退かしておく。


「どけぇッ!」


 裂帛の気合いで叫ぶ。ハルバードの振るい方は身体が覚えている。足りないのは恐怖を乗り越えて前へと出る覚悟だ。手傷を負うのは覚悟で踏みこみ、横薙ぎに払った。


 だが斧槍が捉えたのは引き戻すのが遅れた槍の穂先だけだった。兵たちは怯えたように脇へ退き、何人かは押し出されて水堀に落ちてさえいた。少し違和感がある。あの鍛えられた騎士たちに率いられる兵たちがこうも弱卒ということがあるのだろうか。しかし罠というのも考えにくい。


(いや、今は考えるな。退いたならそれでいい、進め!)


 怯えたように縮こまる兵たちの間を抜けて、跳ね橋を渡る。フラクタも追随する気配を背中に感じた。真っ直ぐ前方、大通りの先には高い城壁が見え、巨大な城門が閉じられつつあるのが見えた。


 焦げ臭い匂いがさらに強まっている。各所で上がった火の手は強まっているようだ。消火や避難誘導に当たるべき騎士や兵たちがこうしてフラクタへの対応を迫られているのも一因だろう。というか、状況から考えてこの火事もフラクタの仕業だ。この女、思った以上に危険な人物かも知れない。


 幸いと言うべきか、大通りに人影は少ない。無関係の人間を巻きこむ危険はなさそうだった。背後から敵が迫っていないか注意しながら走ることに集中する。それにしても、素晴らしく鍛えられた肉体だった。鎧と斧槍の重さをものともせず、全力疾走の手前くらいの速度で走れている。ただの高校生だった二輪麟太郎では考えられない体力だった。


「天輪の保持者として力を使えていましたね。いい傾向です」

「……兵たちを退かせたことか?」

「肉体強化もできている。身体で覚えたものは失われません。これなら思ったよりも……」


 併走するフラクタが話しかけてきた。天輪の力。大階段から跳躍する瞬間、フラクタの天輪が光り輝いたのを思い出す。なるほど、一喝しただけで戦意阻喪させられるなら、騎士たちが従えた兵卒を前面に出さなかったのも理解できる。天輪の保持者と非保持者では文字通り戦いにならないのだ。


「天輪持ちは残り三人。倒せないのか?」

「鐘が聞こえますね? 各所に散った騎士が異変に気付いて集結してきます」


 言われてみれば、前方の城門から長い残響を残す鐘の音が聞こえる。二人を相手に死なないよう立ち回るだけで精一杯だったのに、敵が増えたら間違いなく殺される。よく見れば、鐘の音に従って城門が閉じかけているようにも見える。じっとりとした冷や汗が背を伝った。


「城門が閉まる。フラクタ、間に合わないぞ!」

「わたしを信じてください、リヴィン」

「……突破できるなら、それでいい!」


 城門に到着するのと、鉄で補強された分厚く堅いオーク材の大扉が閉まりきるのは同時だった。押してみるも、動く気配はない。単純に重すぎるのか、あるいは閂のような構造が見当たらないところを見ると何らかの方法で鍵をかけているのかも知れない。


「どうするつもり……」


 問いかけは途中で引っこんだ。

 フラクタは深く腰を落としてウォーハンマーを構えると、まばゆいばかりに天輪を輝かせる。

 力尽くで扉を破る気なのだとそれで知れた。


「リヴィン、時間稼ぎをお願いします」

「……そう長くは保たないぞ」


 振り返る。追いすがる騎士は階段前にいた三人。増援はまだない。接触までおよそ五秒。

 それだけ見て取って、城門に向き合うフラクタを護るためにハルバードを構える。


 この場で思いつくような小手先の駆け引きはおそらく通用しないだろう。できるのは握り締めたハルバードを振るうことのみ。要するに示現流だ。初撃にかけて、相打ってでも倒すしかない。荒くなっていた息を、無理矢理に落ち着ける。上段に構えて真正面から敵を見据えた。


 フラクタがなにかやろうとしているのは敵からも丸分かりだ。三人の騎士は軽く目配せして、そのまま足を止めずに突撃してくる。中央の騎士がフラクタの相手していた強敵で、両脇がリヴィンと戦った二人だ。ちょうどいい。やるなら真ん中の相手だ。両脇からの攻撃は鎧で受け止めるしかない。


「ああぁッ!」


 思いっきり踏みこみ、全力で振り下ろす。

 後先を考えない一撃は、しかし掲げられた戦鎚で易々と弾かれた。

 斧槍が空を切り、石畳を叩く。もう終わりだ。時間稼ぎにもならず殺される。

 死を覚悟した瞬間、不意に騎士たちが後ろに飛びすさった。

 背後で恐れを感じるほどの輝きが弾ける。


「――わたしの前に立ち塞がるのなら、なんであろうと砕いてみせるッ!」


 フラクタの叫び。

 轟音と衝撃に全身を叩かれた。

 光と砂塵が視界を埋め尽くし、全てを包み隠す。


(なにも見えない!? どうする、いや、逃げるなら今しかない!)


 そう思った瞬間、身体は動いていた。

 弾かれたように立ち上がり、門があったと思しき方向に向かって駆ける。

 光で目をやられていたが、少し先にフラクタの気配があった。ひたすら彼女の気配を追う。


「……はあっ、はっ、はっ」


 息が切れて走れなくなるまで、夢中で走った。

 途中から誰かに手を引かれていた気もする。

 おそらくフラクタだろう。無茶苦茶に走ったリヴィンがこうして森で身を隠せているのはそのおかげだ。


「やりましたね、リヴィン!」


 高揚が残る声でフラクタがささやく。

 その声が意外に近くて、思わず身を引いてしまう。その反応をどう解釈したのか、フラクタは意味ありげに微笑むと、黙ってリヴィンの手を握ってくる。天輪の契約がどうこうではなく、リヴィンはおそらくこの女に勝てないと思わされる、そんな表情と仕草だった。


「逃げ切れた、のか……?」

「ひとまずは。でも、これからですよ。すぐに争いが始まります」

「え……?」

「強大なる天輪の保持者が死ねば、配下の天輪持ちが後継を巡って争い始めるのは当然のこと。我が主に説明の手間を取らせるまでもなく、その程度のことは察して欲しいものでございます」


 こいつの存在をすっかり忘れていた。


 揶揄するような口調で喋るのはフラクタの左手、その人差し指にはまった指輪だ。トーキィ。戦闘中は沈黙を貫いていたが、フラクタと二人っきり――トーキィも含めるなら三人――になったので喋り始めたらしい。天輪持ちというのも謎だが、この声だけの存在も謎と言えば謎だった。


「そういうわけなので、次の目標が決まりました」


 ぱちん、と手を打ち合わせてフラクタが言う。


「支配の魔女ラヴルニエストゥスが治めていたこの国を、丸ごと奪って砕いちゃいましょう」

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