王冠砕きの戦姫と欠け冠の魔女

天見ひつじ

第一章〝王冠砕き〟

第1話 覚醒

 横断歩道でトラックに轢かれたと思ったら、どこかの城の中で死にかけていた。


 生温かい感触、鉄錆びた匂い。顔を上げるとぬちゃりと水音が鳴り、視界いっぱいに血濡れた肉体が広がった。 自分ではない誰かの、明らかに死んでいると分かる肉体。大量に流れた血は自分と相手、どちらのものか。なんとか身体を起こそうとして、激痛に苦悶の声を上げる。 呼吸する度に胸が痛み、左半身は麻痺したように自由が利かない。口中に溢れる血。身体から熱が抜けていくのが分かる。


 もうすでに命が失われた肉塊と、その上に覆い被さって落命しようとしている自分。

 どうやら自分は死にかけているようだ、とリヴィンは思う。

 そう、自分の名前はリヴィンだ。


(違う、そうじゃない)


 強烈な違和感が思考を占める。

 にわ、りんたろう。そう、二輪麟太郎が自分の名前だ。

 その確信がある。麟太郎には十八歳まで日本人として生きた記憶があった。


 同時に、それは酷く遠い記憶であるようにも感じられた。まるで十数年も昔の出来事であるかのように思える。主観的には連続しているのに、どこか現実感がなく生々しい手触りを伴わない過去の記憶。自分のことなのに他人の人生であるかのような実感のなさだった。


 自分は二輪麟太郎だという確信とはちぐはぐの記憶に戸惑うが、流し過ぎた血のせいか、あるいは元々頭の出来がよくないせいか、複雑なことが上手く考えられない。


(ここはどこだ)


 身体を動かすこともままならず、死にかけている状況下で、リヴィンの思考はそこに回帰する。

 そう、やはり自分はリヴィンなのだ。リヴィンでもある、という表現がふさわしいだろう。

 二輪麟太郎はリヴィンとして命を落とそうとしている。

 死の間際で思考が混乱しているのかも知れないが、その表現が腑に落ちた。


「……俺は……死ぬのか」


 口中に溜まった血を吐きだし、声にする。違和感があった。死にかけているからか、それとも聞き慣れた自分の声とはどこか違うそれであったためか。疑問は、期待していなかった返事でかき消される。


「いいえ、貴方はまだ死ぬ運命にありません」


 頭上から声をかけられた。女の声だ。ささやくような、それでいて耳に残るハスキーボイス。


「もっとも、生きたいと望むのなら、相応の代償を払ってもらいます」


 苦労して頭を動かすと、石造りの暗いホールに一人で佇む女の姿が視界に入った。

おそらくリヴィンより頭ひとつくらい背が低い、小柄な女だ。緩やかにウェーブする長髪の間で、エメラルドのように鮮やかな緑色の瞳がこちらを観察している。白を基調とした鎧には象嵌が施され、血狼の紋章と金枝の縁取りが見事に細工されている。兜はなく、整った素顔を惜しげもなく晒していた。


 女の手には長柄のウォーハンマーが握られ、無造作に床を引きずっている。高貴さと野蛮さが同居したような立ち姿にも目を奪われたが、何よりも目を惹くのは頭上に輝く天使の輪だった。金色に輝くそれは王冠のようにも見え、何かで保持しているわけでもないのに女の頭上でゆるく回転している。


「助け、て……」

「いいでしょう。わたしは貴方の命を救います。代わりに、わたしの命令にひとつだけ服従してください。これは天輪にかけた契約であり、破れば貴方はその場で命を落とすことになります」

「どうすれば……いい」

「貴方のこれに誓ってください。嘘偽りのない本心から願えば、それが契約となります」


 上体を折った女が、リヴィンの頭の上あたりを指で突く。内臓を直になでられたような、ぞくりとする感覚があった。何を触られたのかと困惑したが、女の鎧の磨き抜かれた装甲に映るものを見て、その答えが分かった。リヴィンの頭にも女と似た天使の輪が浮かんでいるのだ。灰色に鈍く輝くそれ――女は天輪と呼んでいた――が他人に軽々しく触らせてはならないものであることは直感的に分かった。


 気付いたら他人になっていて、わけの分からない状況で死にかけている。その上、見知らぬ女に命と引き換えの契約を結ばされようとしている。これが物語であれば、契約してもろくなことにならないのがお約束だ。しかし、理由も分からないまま死んで消え去るのだけは恐かった。


 女は嘘偽りのない本心から願えと言った。いいだろう。この命を救ってくれるのなら、リヴィンは救われた命にかけて女の命令をひとつだけ聞き入れる。天輪よ、我が誓いを聞き届けよ。


「……はっ、はぁっ……」


 強く念じると、少しだけ呼吸が楽になる。これで契約は成ったのか。問うように顔を向けると、女は血溜まりを気にかける様子もなくその場に膝を突き、リヴィンに覆い被さってきた。この女、顔がいい上に胸がでかい。思わず胸に視線が吸い寄せられ、それを察した女が笑みを深くする。


「まだですよ」

「んむっ……」


 顎に手を添えて、キスされた。そのまま舌を差し入れ、息を吹きこまれる。

 じわりとした温かさが身体を巡る。手足に活力が戻って意識が鮮明になってきた。

 そのままねっとりと口内を蹂躙され、窒息する寸前のところで糸を引いて唇が離れる。


「んっ……契約は成りました。ふふっ、これからよろしくお願いしますね?」


 キスをしたことのない前半生だった。

 どういう顔をすればいいのか、なにを言えばいいのか分からない。


 お礼を言うべきか、だが変な意味に取られはしないだろうかと悩んでいると、どこからかため息交じりの渋い声がした。男の声は心の底からの呆れと揶揄を口調に滲ませて言う。


「いやはや、これを生かしてあまつさえ契約を結ぶなど。我が主フラクタの深謀遠慮たるや空の果てまで響き、海の底まで届きましょうな。このトーキィ、感服のあまり口を挟まずにおれませんでしたとも」


 視線で周囲を探るが、目の前の女以外に人影はない。何より、声は女の左手あたりから聞こえた。

 フラクタ。そう呼ばれた女は左手をかざし、人差し指にはめられた指輪に向かって話しかける。


「んふふっ……いくらわたしの才能を敬愛してやまないとはいえ、契約を交わしたばかりの彼の前でそんなに素直な賞賛を口にするのは少々はしたないですよ、トーキィ?」

「左様でございますか」


 声音だけで肩をすくめるという器用なことをやってみせる声だけの存在。トーキィと呼ばれていたが、指輪を通して喋っているのか、それとも指輪そのものなのか。天輪といい、契約といい、リヴィンが二輪麟太郎として過ごした地球とは異なる世界であるのは間違いないらしい。


「……あんたたちは誰なんだ」


 リヴィンが問うと、フラクタは意外そうな表情で目を丸くした。


「驚きました。わたしがわからない? いえ、嫌に素直だと思いはしましたが……ははあ、その天輪。珍しいこともあるものだと思いましたが、なるほどなるほど……」

「一人で納得してないで、答えてくれ」

「失敬。わたしの名前はフラクタ。〝王冠砕き〟のフラクタと言えば巷間に名の知れた存在なのですよ。そしてこちらはトーキィ。ご覧の通り、世にも珍しい喋る指輪にしてわたしの召使いです」

「トーキィでございます。以後お見知りおきを」


 フラクタは長柄のウォーハンマーを軽々と回して石突を床に突き立てると、じっとリヴィンを見る。

 自分が名乗り返すことを期待されているのだ、と遅れて気付く。


「リヴィン。それが俺の名前……だと思う」

「だと思う。自己紹介にしては奇妙ですね。やはり記憶をなくしているのですか?」

「……おそらくそうなんだろう。俺がなぜここに居るのか、どういう人間なのかが分からないんだ。思い出せるのは名前だけで、なにがなんだか……なぜ俺は死にかけていたんだ?」


 二輪麟太郎の名前は出さずにおく。異世界への転生なのか転移なのかは分からないが、それがこの世界でどういう意味を持つのかが分からないまま打ち明けるのはリスクが高い。フラクタがリヴィンを記憶喪失だと思っているのも都合がいい。問題なさそうなら、後から思い出したという体で打ち明けられる。


「記憶喪失。天輪への衝撃……あるいは洗脳から解放されたのが原因でしょうか」

「……洗脳?」

「ええ。貴方は悪しき天輪持ちに洗脳され、今までずっと道具として使われていたのですよ」

「もしかして、あんたが……フラクタが救ってくれたのか?」

「そう捉えることも可能でしょう。貴方がどう認識するかは、リヴィン、貴方が決めればいいことです」

「…………」

「さて、早速ですが……あまり時間はありませんね」


 フラクタが後ろを気にする様子を見せる。耳を澄ますと、殺気立った声と足音が近づいてくるのが分かった。どうやらのんびりと話をしている時間はないらしい。相変わらず状況は分からないが、現代の日本より人の命が軽そうなのは確かだった。せっかく助かった命を取りこぼすのはごめんだ。

 

 手足に力を入れ、身体を起こす。さっきまで動かなかった左半身も問題なく動いた。リヴィンの下敷きになっていた死体がぐちゃりと水音を立て、濃厚な血臭に顔をしかめる。全身が血でべとべとだった。見れば、リヴィンもフラクタと同じように鎧を身に付けている。白を基調とする彼女と対を成すような黒鎧だ。腰には剣を帯び、側には槍も落ちていた。斬撃にも使える斧槍、ハルバードのような造りだ。


「では、リヴィン。ちゃんと付いてきてくださいね?」

「わ、分かった」


 見るからに重量のある斧槍だったが、持ち上げると不思議なほど手に馴染んだ。鎧も相当な重さのはずだが、走るのに支障はないと感じた。ただの高校生だった二輪麟太郎とは比べるべくもない、戦うために鍛えられた肉体だった。この身体がリヴィンとして生きてきた歳月が実感を伴ってきた。


 ウォーハンマーを肩に担ぎ、ホールの出口に向かってつかつかと歩むフラクタ。その背を追おうとして、もう一度だけ振り返る。なにかがあると期待したわけではない。そこには頭部を潰された血みどろの死体が転がっているだけだ。前に向き直り、今度こそフラクタを追って走り始めた。

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